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2005年3月

野狐禅和尚の辻説法『“ひとり”じゃない』№715

野狐禅和尚の辻説法『山形拄杖子(さんぎょうのしゅじょうす)』№714

野狐禅和尚の辻説法『84000→108→3→5』№713

野狐禅和尚の辻説法『向南見北斗』№712

野狐禅和尚の辻説法『テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ』№711

野狐禅和尚の辻説法『春来草自生』№710

野狐禅和尚の辻説法『発憤と瞋恚(しんに)』№709

野狐禅和尚の辻説法『和以為貴(和をもって貴しとなす)』№708


野狐禅和尚の辻説法『下載清風(あさいせいふう)』№707

野狐禅和尚の辻説法『布施こそ自利利他、法施・財施・無畏施、そして無財の七施』№706

野狐禅和尚の辻説法『人間は“解釈”する動物』  №705

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは、強く、優しく、しなやかに、淡々と生きる事』№704

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは・・・・“呼吸”のようなもの。』№703

野狐禅和尚の独り言『所有権・経営権・就労権・収税権・・・』№702

野狐禅和尚の応え『質問:神様は存在するのですか、人間は皆、死ねば仏様になるんですか?』№701

野狐禅和尚の辻説法『法律・道徳・倫理・宗教』№700


野狐禅和尚の辻説法『無対立・無犠牲・自主独立』№699

野狐禅和尚の再びお応えします『質問:禅とヨガ、坐禅と瞑想の違いを教えてください』№698

野狐禅和尚のお応えします『質問:禅とデリバティブの関係についての見解はお持ちですか?』№697

野狐禅和尚の思い『南伊豆の“菜根譚”について』№696

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)』№695

野狐禅和尚のお応えします『質問:ベンチャー企業の成功の条件は?』№694

野狐禅和尚の辻説法『拈華微笑(ねんげみしょう)』№693

野狐禅和尚のお応えします『質問:会社勤めをしながら菩薩になることは可能ですか?』№692


野狐禅和尚の無分別な辻説法『生命は、部分であり全体である(ホロスとホロンの関係)』№691

野狐禅和尚のお応えします『質問:上司や経営者にカウンセラーの技術を持たせたいが、どうすれば良いか?』 №690

慧智和尚の経済学者的な日本の見方『日本丸が沈没する前に救え』№689

野狐禅和尚の辻説法『菜根譚・前集132からの警告』№688

野狐禅和尚のお応えします『質問:和尚は“神”を否定するのですか?』 №687

野狐禅和尚の報告『中年ダッシュ村≒ベテランズビレッジ構想』№686

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第四『得牛』(牛をつかまえる)』№685

 

2005年03月31日

野狐禅和尚の辻説法『“ひとり”じゃない』№715

論語「里仁」篇に、『子曰、徳不孤、必有隣』というよく知られた一句がある。一方、禅では“無功徳”を重視する。理由は“~のために”という道徳的行為は己への利益誘導であり、功徳ではない。言い換えれば“下心”からの行為である。しかし、『善因善果、悪因悪果』という一文もある。言い換えれば、暗黙の利益誘導である。良い結果を得たいから良い行為を行なう。これは“道徳”レベルの卑しい心であり、分別や差別の源泉である。
前出の『徳不孤、必有隣』は、「徳は孤ならず、必ず隣あり」と読み、意味は、正しい事をしていれば、例え孤立したとしても、必ず理解され支持者(隣人)が現れるということである。論語の解説書によれば、この句は孔子の体験談からの消息(≒インフォメーション・情報)とまり知識からではなく情報を背景にしているようだ。一般的な日常、社会生活では道徳を規準として動く常識派という『分別グループ』と、法律を規準として動く合理派という『弁別グループ』、法律すら無視する『無法グループ』、そして真理に随う『無心グループ』の便法上4グループに分かれる。勿論、そのような分類に意味はない。六道輪廻を考えれば、一瞬一日の間でも人間の心は無常である。
 今、道徳という性善説文化を築いてきた当たり前の社会ルールが壊れ、法治という性悪説を基盤とする社会ルールで動いている。法律に抵触しなければ、“何でも有り”というのが今の社会の様である。ここは日本。アメリカでも中国でも北朝鮮でもない。せめて“道徳”をデファクトスタンダードに暮したい。しかし、本来、道徳はローカルルールであり、日本の道徳が世界の道徳にはなり得ない。それは、道徳は文化を変数としているからである。
さて、表題の『“ひとり”じゃない』というのは、山川草木悉皆成仏、全ての現象は仏性そのものという真理を踏まえていれば『万法帰一』。“ひとり”という概念は存在しない。人間は微生物と細胞の補完共同体であり、全ての自然現象は『一切皆空』という言葉で染まされるように“空”という完全調和を“相互補完”で保証している。故に“ひとり”という概念は無いのだ。
 今日のネット禅会では、“空”を思わずに“空”に成り切って坐って欲しい。
慧智(050331)この説法は今日で2年目を終わり、明日からは3年目となる。ネット配信以前を数えると、7年目に入る。

 

野狐禅和尚の辻説法『山形拄杖子(さんぎょうのしゅじょうす)』№714

 この句も公案に関連しているので、詳しくは述べないが、表面上の意味は「山から切り出したままの姿で何の手も加えていない杖」です。行脚する禅僧にとって“杖”は重要な意味を持っています。橋の少ない時代では、渡るための川の深さを測り、道無き道を歩く時は自分の体の一部、センサーのような役割を担いますし、説法の時は円相を描くなどの道具となり、仏法の敵から心身を守るシンボルなどになります。
 つまり、『山川草木悉皆成仏(この世の全ての現象は仏性そのもの)』から考えれば、この世の全ての存在の一つである“山形拄杖子”は正に仏性の化身であり、使われ方が全てを物語っています。ですから、蓮の花一輪でも、杖一本でも、猫でも虎でも、私たち自身を含めて、“自然”は仏であり、人間が手を加え(垢を付け)れば表面的には便利(人間にとっての都合良さ)になるのですが、エントロピーは増大して曇るのです。
人間と教育の関係も同じ。学ぶ事を支援することと強制的に記憶させることは違う。人間も自然の産物で、“旬”がある。人間が植物なら、土地と天候を母とし父として花咲き実を結ぶだろう。動物なら親から、そして親に準じる存在からの教えと自らの経験(修行)を通じて立派な大人になるだろう。そして知識を集めたり、創造したりするだろう。
南伊豆の作務に来ませんか?きっと何かが変わります。
慧智(050331)

 

野狐禅和尚の辻説法『84000→108→3→5』№713

誰が数えたか解りませんが、人間には84000の毛穴があると云います。そして人間は無智・煩悩・迷いなどが起こす、人生を海に例えるなら“波”のような“感情”、つまり喜怒哀楽を一生涯に84000回を使うということです。これを中分類する数珠の数や除夜の鐘で御馴染みの108となり、それを大分類化すると『貧・瞋・痴(とんじんち)≒無明』の3種に納まり、それを戒めとして纏めると五つ、つまりは『五戒』となります。その五戒は、1不殺生(生き物を殺すな)、2不偸盗(人のものを盗むな)、3不婬乱(性を乱すな)、4不飲酒(酒を飲むな)、5不妄語(嘘をつくな)というものです。言い換えれば、人間は生き物(眼に見えない微生物を含む)を殺ろし、人のものを横取りし、子供をつくる以外のセックスを行い、酒(薬は別)を飲み、何らかの嘘(自分に対する嘘を含む)をついて、それを自覚しているか出来ていないかは別にして暮していると考えられています。
つまり『無明』のなせる結果が3種の悪、百八の煩悩、八万四千の罪なのです。
しかし、般若心経に『無無明亦無無明尽』とあるように、実は完全なる無明などないし無明が尽きることもないので、日々、自分自身としては多くを望まず質素に森羅万象に誠実に、一日一日を“出来ること+すべき事”である過去に原因がある結果として、今・此処に現象して状態(結合した縁)を“生き切る”ことを人間としての上等な生き方とし、そのような生き方を手助けするのを菩薩道としています。
そして、“出来ること+すべき事+成果≒したい事≒生甲斐”という『心・頭・体の統合と現実』、即ち、この世の“メカニズム”を2500年前に釈尊は帰納法と演繹法を超越した“坐禅法≒禅脳思考≒誰にでも差別無くある潜在意識を総動員する言葉を使わない思考法”で解き明かしています。
以上は、生きる上での目標、懸念される課題、そして解決法を示して見ましたが、それらは読んで解るものでも、聞いて解るものでもなく、只只管に喜怒哀楽を起こさず、心を静かに坐るしか無さそうです。
どうですか?4月は禅堂も春。花が咲き乱れ、若葉が眼に染みるようになります。心地よい風も吹くでしょう。夕暮れの山々・深夜の星空・夜明けの光は素晴らしい。一度は坐って、“本来の己”に出会ってみませんか?
慧智(050330)

 

2005年03月29日

野狐禅和尚の辻説法『向南見北斗』№712

『向南見北斗』は、「南に向かって北斗を見よ」と読みます。
さて、皆さんは、どうしますか?
鏡を使う、などと考えるようでは現代に毒されているとしか言えない。つまり、南だ北だ東だ西だという差別区別に囚われているようでは、“真理(万物の本質)”に近付くことは出来ないだろう。「父母未生以前の己に如何に」と問われ、必死になって考えるようなものだ。後頭部に眼があるわけは無いし、己という自覚が生まれる以前には現象すらしていないのは、衆智の事実、正に常識といわれる。しかし、其の“常識”という先入観に“疑惑”を持たせ、自由自在に観て感じて“常識”を捨てるところからしか“真理(万物の本質)”とは出会えない。言い換えれば、常識(経験的科学)や科学(限定合理性)の世界観では“真理”は見えるわけは無い。つまり、真理に出会おうとするなら、南に向かって北斗を見ることができなければ無理なのだ。しかし、森羅万象全てが“真理”の投影であるという仮説があるなら、真理はどこにでも転がっていることになる。
そこで、そもそも「南に向かって北斗を見よ」という指示、問いそのものの真意は何かを問題にしなければならない。「分別を捨てよ」と受け取れれば、「見ようと思っても見えないが、見ようと思わなくても見えている」ものは何か、と言っているのが解る。つまり、“有る・無い”という二項対立を基盤とする物理的な世界に無いものは何か。物理学の浅智慧をいくら廻らして見えるわけはない。そこには『色即是空・空即是色』の世界である、有ることは無い事を含み、無い事は有る事を含むのだ。それは、頭(電気信号で成立している神経系)では解らない。神経系+内分泌系+免疫系≒心を調和させた状態で“気付く”、森羅万象という現象の原点。物が生まれる以前の姿だ。それは“感じた後に開いた眼(心眼)”でしか見る事ができない。心眼は物理的な現象を観る目ではない。真理を見抜く眼である。それは、常識という世間の塵芥、知識という無智から離れなければ使い物にならない“仏性≒心眼≒生得の智慧≒空≒相互補完”。南に向かって北を観る事が出来る心眼なのである。自他一如、万法帰一・・・・。般若心経を指で読みなさい。耳で写経をしなさい。踵で聞きなさい。
慧智(050329)

 

野狐禅和尚の辻説法『テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ』№711

 釈尊から5代目の弘忍大和尚(五祖)、その弟子で六代目の慧能大和尚、慧能大和尚の兄弟子が神秀和尚。弘忍が法を継がす相手を決めようと「明日の朝、廊下に自分が“これ”と思う仏法に関する一首を貼っておけ」と法邇を公募した。
そこで、一番弟子の一首が『身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時時勤払拭、塵埃を惹かしむこと勿れ』。正に秀才の作。もう一首、弟弟子の小猿こと後の慧能。『身は菩提樹に非ず。明鏡亦台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん』と表面上の意味が正反対の一首。正に天才の作。これが『時時勤払拭』『本来無一物』という紙の裏表の公案の源流。それが『不思善悪』という公案に結ばれる。
 簡単に言えば、真理とはと尋ねられ『全て揃っているが埃が付き易い』と『何も無いので埃は付かない』という対立。そして『有る無しは無い』という3つの表現がある。全て秀でた者の境涯が表れている。勿論、大本は『一切皆空』であり全ては“補完”し合あうゆえに“空”であり、全ては自然の状態で完全調和している、というもの。
つまり、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ。さて前出の3種のテーゼが、さらに止揚(アウフヘーベン)されれば、如何なる表現となるか。
 簡単に『無』などと応えてはならない。さあ、一秒以内に応えろ!!!。
慧智(050329)

 

2005年03月27日

野狐禅和尚の辻説法『春来草自生』№710

 『春来草自生』は、「春来たらば、草、自ずから生ず」と読む。森羅万象は“時節因縁”に応じて変化するのみ。春が来れば、草は自然と萌え出る。
昨日から“作務三昧”。甘夏の収穫を行った。果樹園は菜の花が咲き乱れ、たわわに実をつけた甘夏の樹が500本、1本におよそ100個が実る。5万個の収穫は一日では不可能だが、始めなければ終わらない。作務の合間には、山作務。倒木を片付け、石拾い。今年の秋には、参禅者が気持ちよく作務が出来るよう露天風呂ができるだろう。職人さんに聞くと、かなりの温泉が出るそうだ。楽しみである。多少、弱っている体も、実りに接し、春の色を目にして、“春来”に接すると、心なしか元気が湧く。自然は素晴らしい。小休止では、竹の子が顔を出している竹林で火を起こし茶を頂いた。足下には蕗の塔が、蓬が、・・・。大地にゴロりと横になる。青い空。白い雲。蝶も飛びだした。風も心地よい。正に“春”一色。『万法は森羅万象の全てであり、時が来れば“旬”を迎える。差別なく分別なく“自然(自ずから然かるようにある)』”。
慧智(050327)

 

2005年03月24日

野狐禅和尚の辻説法『発憤と瞋恚(しんに)』№709

 世の中には、自分にとって不都合なこと、恥ずべき事があるとスケープゴート(贖罪の山羊)を作り上げ、自分の悪を隠すために「あいつのせいで止む無くやった」とか「あいつのせいでこうなったのだから、俺がこうするのは当然だ」とか見え過ぎた詭弁をたれ、善意の者に責任を転嫁し、コッソリと利益を貪る“卑怯者”が存在する。そして、その悪者は、猛然とした多弁で、繰り返し話している内に自分でも信じてしまい、善意の第三に本気で腹を立てることがある。仏教ではそれを『瞋恚(しんに)』といって最も忌み嫌う。そして、悪者の嘘が露呈し出すと、こんどは『嶰怠(かいたい)』という心を生み出し、ふてぶてしく怠け、居直り、今度は、それまでのスケープゴートに媚を売って取り入り、また新たなスケープゴートを作り上げて同じ事を繰り返す者がいます。
 今、TVニュースに度々登場している“俄か評論家”は、大なり小なり前出の傾向があります。勿論、“瞋恚”の主人公は言うには及ばないでしょう。
 ここで考えなければならないのは、事の良し悪しは別にして、俄か評論家となって知ったかぶり、“正義”を装って何を語ろうと、何も変えられません。
 今、日本は病んでいます。真に日本人であれば、この状態を放置してはおけない。
 今日、数十年ぶりに私の人生に大きな影響を与えて頂いた日本の教育哲学の重鎮である村井実先生とお話ができた。私が印象に強く残ったのは、『教育が人間を幸せにしたか?』という内容。思わず唸るほど考えさせられてしまった。理由は、これも尊敬する同業者でノーベル経済学賞を受賞しているベッカー博士の『教育と生涯報酬の相関関係』に眼を奪われていた私自信の軽薄さと視野の狭さに気が付いたからだ。
 そして、帰りの電車で寒いのにも関わらず汗を流しながら“発憤”している自分の姿に気が付いた。よし、これから命のある限り『教育と幸福』の関係にメスを入れ、『人間を幸せにする教育』を開発するぞと考えているのに気付いた。
 『瞋恚(しんに)』は、外に向かって憤り、怒り、攻撃する人間としてもっても恥ずべき心で、厳に慎まなければならない心。
『発憤(はっぷん)』は、内に向かって己の未熟さに憤り、怒り、己に対し檄を飛ばし、喝を加え、己が己を叱咤激励する心。
 さて、活人諸君。ストレスのメカニズムからすれば同じではあるが、あなたは『内に敵をつくる発憤型』なのか『外に敵をつくる瞋恚型』なのか。じっくりと考えて欲しい。そして、単に『自分評論家』として己を他人事のように見ないで、如何なる場面でも“主人公”として、前向きに考え行動して欲しい。それが“活人”の証なのだから。
蛇足だが、『競争』とは、己の至らなさを“敵”として己に勝つことであり、他人との相対的消耗戦とは考えない方が良い。なお、私は『他人との競争より協奏、協創』という考え方を支持している。
慧智(050324)

 

野狐禅和尚の辻説法『和以為貴(和をもって貴しとなす)』№708

 『争』が賛美されている昨今、今一度“日本の心”である『和』を見直すことを真剣に考えなければならない時期が来ている。『和』は、決して“事勿れ主義”ではなく、相克状態を止揚した積極的で新しい対立解消の結果です。
 聖徳太子の十七条憲法の第一条に登場する“日本人”の“心”の在るべき姿を示した事が表題の『和以為貴』です。『和』は“和合”であり、全ての現象には“本質・真理”が投影されているので、両方を否定したり、片方に偏ることなく、対立を“和合”させて“本質を浮かび上がらせることこそを最優先とする考えで、現在のような未熟な知性からの単純な二元論(白か黒か)に陥らないことが大事です。しばしば、是々非々などという極論主義では、対立が構造化し、必ず“争い”がおきます。争いは“勝者と敗者”をつくり、最後は崩壊するというメカニズムを内包した縦社会へと向かいます。“和”は、言い換えれば“補完”であり、対立する意見から双方の良さを抱き合わせることで“平和(和らかく平な状態)”を建設します。“男と女”に対立があれば『人間』として和合されます。善と悪は“無”として和合されます。表と裏は、“一体、一如”として和合され、不可分不可同に帰結します。其の発想の原点が『色即是空 空即是色』です。『和』の発想は、単純に“足して二で割る”というような疑似一元論ではなく、『万法帰一』を拠り所とする、最小公倍数・最大公約数探しと言えば解り易いでしょう。男と女の例に準えるなら、最小公倍数が『人間』、最大公約数が『生命』と考えられますし、色即是空・空即是色の真理は貫かれています。金か精神か、頭か心か、古いか新しいか、・・・というような対立的な神様志向の偏った考えを捨て、両論を否定せず、肯定もしないという偏りのない『中正』を重視した生き方こそが“21世紀の日本人”であり、世界の対立の仲介者としての“あるべき姿”ではないでしょうか。
慧智(050324)

 

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