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2005年3月

野狐禅和尚の辻説法『“ひとり”じゃない』№715

野狐禅和尚の辻説法『山形拄杖子(さんぎょうのしゅじょうす)』№714

野狐禅和尚の辻説法『84000→108→3→5』№713

野狐禅和尚の辻説法『向南見北斗』№712

野狐禅和尚の辻説法『テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ』№711

野狐禅和尚の辻説法『春来草自生』№710

野狐禅和尚の辻説法『発憤と瞋恚(しんに)』№709

野狐禅和尚の辻説法『和以為貴(和をもって貴しとなす)』№708


野狐禅和尚の辻説法『下載清風(あさいせいふう)』№707

野狐禅和尚の辻説法『布施こそ自利利他、法施・財施・無畏施、そして無財の七施』№706

野狐禅和尚の辻説法『人間は“解釈”する動物』  №705

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは、強く、優しく、しなやかに、淡々と生きる事』№704

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは・・・・“呼吸”のようなもの。』№703

野狐禅和尚の独り言『所有権・経営権・就労権・収税権・・・』№702

野狐禅和尚の応え『質問:神様は存在するのですか、人間は皆、死ねば仏様になるんですか?』№701

野狐禅和尚の辻説法『法律・道徳・倫理・宗教』№700


野狐禅和尚の辻説法『無対立・無犠牲・自主独立』№699

野狐禅和尚の再びお応えします『質問:禅とヨガ、坐禅と瞑想の違いを教えてください』№698

野狐禅和尚のお応えします『質問:禅とデリバティブの関係についての見解はお持ちですか?』№697

野狐禅和尚の思い『南伊豆の“菜根譚”について』№696

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)』№695

野狐禅和尚のお応えします『質問:ベンチャー企業の成功の条件は?』№694

野狐禅和尚の辻説法『拈華微笑(ねんげみしょう)』№693

野狐禅和尚のお応えします『質問:会社勤めをしながら菩薩になることは可能ですか?』№692


野狐禅和尚の無分別な辻説法『生命は、部分であり全体である(ホロスとホロンの関係)』№691

野狐禅和尚のお応えします『質問:上司や経営者にカウンセラーの技術を持たせたいが、どうすれば良いか?』 №690

慧智和尚の経済学者的な日本の見方『日本丸が沈没する前に救え』№689

野狐禅和尚の辻説法『菜根譚・前集132からの警告』№688

野狐禅和尚のお応えします『質問:和尚は“神”を否定するのですか?』 №687

野狐禅和尚の報告『中年ダッシュ村≒ベテランズビレッジ構想』№686

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第四『得牛』(牛をつかまえる)』№685

 

【前の記事】

 

2005年03月09日

野狐禅和尚の無分別な辻説法『生命は、部分であり全体である(ホロスとホロンの関係)』№691

地球上の生命は、例外なく同一の起源をもっている。言い換えれば、人間の起源を遡れば、38億年前の原核細胞に至り、更には“物質”に至るのです。即ち、“父母未生以前の本来の面目”は、細胞→分子→原子・・・最終的には“力”に至り、『空(相互補完)』であり『一切皆空』という事実を示します。言い換えれば、生命と物質は不可同不可分の関係にあるのです。
 小中学生の理科の授業で習うように、『0』という概念は『マイナス1とプラス1』を原型とする相互補完から成り立ちます。言い換ええると、ゼロは完全な1でもあるのです。細胞(生命)に注目する、『細胞は完全性と全体性を有する一体』から無限に分化し、統合しながら完全な部分であり全体となります。これが『個』と『人類』そして『森羅万象』の関係です。ですから、地球上の生命は“相互補完”の具現者なのです。
若し、地球の外に生命が存在すれば、その『根』は深くなるだろうが、全てはビックバンという150億年前の得意な『無』から生まれ出たであろうことは合理的なことだろう。言い換えれば、全宇宙の物質・生命も同根でありながら不可同不可分なのである。
故に、唯心論と唯物論も同根ということになるのです。
そして、生命は物質に分解可能であり、生命情報は物質(DNA)により受け継がれるが“物質”を以て“生命”を作り出すことは、人間には出来ず、全て“自然界”に依存している。つまり、有機物は無機物に分解できるが、無機物は“生命”が介在しない限り“有機物”とはならないのである。(但し:定義による)言い換えると、生命は物質化合の単純な結果として生ずることはなく、最初の一つ『一』以外は、生命は生命から生まれるのです。
ですから、生命は相互依存を必然としているのであり、“単独・孤立”では存在し得ないのです。以上が『空』すなわち“相互依存”、“補完”の意味です。
 さて、食卓にある“米一粒”を穴が開くほど見てみよう。確かに表面的には“己の外”の物質である。しかし、口に入れた瞬間に“消化”が始まり、“己”の一部となり、血となり肉となる。そして、一部は排泄され、次なる生命の“力”となる。
■五観の偈
●一つには功の多少を計り彼の来処を量る
“功”とは時代を超越した多くの営みであり、“彼の来処”とは『縁』のことで、“量る”は、どのようにして此処に私に食されるためにやってきたのかを思いましょう、ということですね。つまり、“命”はどのようにしてはぐくまれ、己の命に置き換わっていくのかを理解するのは人の義務ですよ捉えて良いだろう。
●二つには己が徳行の全欠を計って供に応ず
“己の徳行”、つまり戒・律を守り、六波羅蜜を実践を必要とする人間にとっての、今日一日の精進が一歩でも前進したか否かを考え、『一日作さば一日食わず』を思い出して、差し出された供物に食べて良いか自らに問えということですね。
●三つには心を防ぎ過貪等を離るるを宗とす
昨日よりも今日、今日よりも明日、と己の心を澄まし高めるために“今日一日”を費やしたのかどうか、眼前にある“食べ物”が本当に、己の命に“成り代わって頂いく価値があるか“己”にあるか自問自答し、心の安寧を守り、出された食事の好き嫌い、えり好み、食事に対する不平不満を持たず、仏教で厳しく戒めている『貪り、怒り、愚痴(三毒)』にならないことを宗たる教えとせよ、ということ。
●四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
“食”は生きるためにあり、生きていることが感謝と喜びの原点であるように、眼前にある“食べ物”が“今”を生きるための糧であり“五体”を維持するがための“良薬”なのである。つまり、自分の“食欲”を満たすために生命を頂くのではなく、“森羅万象の部分であり全てでもある己”の体を求道の為に維持する“良薬”として頂かくのである。   
●五つには道業の成ぜんが為に当に此の食を受くべし
“道業”とは悟りへ向う修行のこと、あらゆる執着を離れ、素直な己に立ち帰るり、仏性である森羅万象に心を配り、殺生を自覚することの為に、今この食事を頂くべし。つまり、今は未熟であるが、将来必ず帰れるであろう悟りの境地のために、己の命を繋がせていただきます、ということである。

少々こじ付けに聴こえるかもしれないが、『生きる』ことは『活かされる』ことであり、それが己の解放生態系的な位置にある己の部分である己を頂くためには毎回毎回の食事に於いても原点に立ち返り自戒を新たにするのが“修行”であり、『一』へと向う大道を歩む者の義務であり責任なのです。質素倹約、感謝なくして食事をする資格は無いのである。
そして、『一口為断一切悪、二口為修一切善、三口為度諸衆生、皆共成仏道』と続く。
 これが、毎回の食事において150億年を自覚する礼儀なのである。
慧智(050309)ああ、腹減った。でも、今日は働いていないな~。・・・・・。

 

2005年03月08日

野狐禅和尚のお応えします『質問:上司や経営者にカウンセラーの技術を持たせたいが、どうすれば良いか?』 №690

 最近、注文の多いレストランの如く、小生への質問が多い。実に個人的な内容は質問者のみに返信しているが、より多くの人に知ってもらいたい内容は、ここで応えるように心がけている。しかし、小生は釈尊ではないので、全ての質問に応え切れているかは甚だ疑問ではあるが、質問に対し無心に応えてはいるつもりなので、己の思いを纏める参考にはしてほしい。さて、今日の質問は社員の心の状態を案ずる心優しい経営者からの質問である。「最近、社員の何人かがメニュエル症候群や鬱症状で医者に通っていると聞いたので、部下を持つ社員には「カウンセリング」の勉強をするように指示しようと思うが、どんな勉強をさせれば良いか」というものである。
■この質問に対し、私は『お止めなさい』と申し上げたい。理由は以下の通りである。
◆理由:厚生労働省から心因性の病で休職している労働者は大企業で0,5%、中小企業で0,8%という数字が発表されている。人数で言えば47万人である。これは、健康保険にナイナスインパクト、企業には賃金の過払いが生じ、日本全体では1,5兆円の損害となる。勿論、医療機関は収入となるので、GDPレベルで判断すれば1兆円のマイナスとなる。これらに公衆医学医学の論理を加えて判断すると、心因性の疾患予備軍は500万人となり、労働者の10人に一人は、近い将来には通院する可能性がある。言い換えれば、国家と産業の潜在リスクなのだ。さらに、興味深い数字がある。昨年の自殺者は34427人。分類は、病いによる苦痛を原因とした者は14500人(私もこの数字に入っていたかもしれないが、悔い留まったている)、失業や倒産等の経済的な苦痛を原因とした者が8900人。3万人を超えようになり今回の最高数に達するようになったのは98年の「銀行の貸し渋り」が行われた年からである。「お金があれば死を選ぶことはなかったろうに…」という軽率な風評が流れて、単純な連中は『金が家族より、社員より、況や国家や郷土より大事』ということが強まった。実は金が問題なのではなく『金に依存する弱い心』であり経済問題ではなく『教育問題』なのだ。ところが、近年は経済苦より『心の病』が自殺の原因の主流になっている。何故だろう。だから、上司にはカウンセラーの勉強をさせる、というのも危うく肯いてしまいそうになる。しかし、それは絶対に止めるべきで、企業は『風土改革』を先行すべきだろう。
社員の『健康』は、常識外に過剰でない限り、労働時間や環境の問題ではなく、一人一人の社員の“働き方”の問題である。言い換えれば“やりがい”と“何でも話し合える企業風土”が大事なのである。人間は、それ程“やわ”ではない。1日12時間、300日働いたとしても、心身とも健康でイキイキしている社員は山ほどいる。その秘訣をインタビューした経験があるが、ヒアリングした全ての共通する話もあれば、何組かにグループ分けした方が良い話もあった。勿論、経営者としては、従業員を安全で健康な環境のもとで働かせるという安全配慮義務、健康配慮義務の認識は前提である。社員は“奴隷”ではないし経営者は“君主”ではない。前にも書いたが“経営とは、営みを経て目的・目標を達成させることである。言い換えれば、利害関係人の全てに対し奉仕するのが経営者の役割であり、労働者に甘く、株主にキツイとか、納税をしないとかは経営者失格である。勿論、納税を“誰に委ねるか”は経営者の裁量、戦略判断である。
さて、ここいらで“質問”に対し“反対”を唱えた具体的な理由を述べよう。
先ずは、病人や半病人を作り出す原因を潰しましょう。つまり、『企業組織』の問題として取組むべきで、個人と組織がWIN‐WINの関係構築をしましょう。つまり、個人と組織で目的を共有し、一人一人の目標達成を組織成員全員で助け合える構造と“その価値”を利害関係人の全てに共有させましょう。これは、『従業員満足の高い職場においてはストレス症候群にある患者が少ない』という事実があるからです。言い換えれば、一人一人のストレスマネージメントに配慮した『風土(文化)』を創造することです。
 次に、上司をカウンセラーにしない方が良いという背景には、『利害関係が構造化しているヒエラルキー社会では、上司は部下のカウンセリングは出来ないからである。言いたい事が言えない。上司は上司であるが部下でもあるという階級構造では、上司が部下の心身の健康に気を配るのは当然だが、『心因性の疾患の原因の多くは“上司”だからである。
 ですから、社員のカウンセリングは利害関係に無い“社外”の専門家が宜しい。もちろん、“偽”は困る。本物か偽物かは簡単にチェックできるので覚えておいて欲しい。先ず『社員は、人間は、部下は、上司は・・・』というように個性があり目的・目標が異なる社員を抽象化する専門家は“似非”と考えて間違いない。
少々脱線したが、社員一人一人は、異なる個性があり、其々に強味・弱味がある。言い換えれば、それを活かす仕組みが重要であり、企業が選択枝を用意し、社員に選択権を与えるのがベストだが、社員の多くは自分の強味・弱味に気付いていない場合が多く、先ずは、“それ”を気が付く事が出来るようになる“教育”が必要だろう。人と仕事のベストマッチングは、生甲斐と生産性を向上させ、個人にも組織にも有利に働くのはことを思い出して欲しい。具体的な指示が必要な個性もあれば、目的や目標を与えるが方法については自分で考えたい個性もある。とにかく、組織は個性を殺させて生産性を下げるのではなく、個性を活かして生産性を上げなければ、何れに対する“貢献”も出来ないのだ。小さな会社であれば毎日が教育の機会ではあるが、教育すべき経営者に教育者としての能力が無ければ、欲深な社員の思いのままになる組織が出来上がり、遠く無い将来には崩壊し、最終的に悪は滅びるとしても、その前に善が崩壊する。
最後に付け加えるが、一過性のニュースに対し、流行に乗るような判断をする経営者こそ問題であり、上司をカウンセラーにしようなど言う前に『風土改革』と『経営者自信のレベルアップ』をすべきだろう。理想は『一人が皆の為に、皆が一人の為に働ける補完組織であり、一人一人の個性・能力を活かして採用・教育・配置・評価・処遇し、目を共有し、理念を枠組みとして、全員一丸となれる生産性の高い編成を行ない、利害関係人全ての満足度を上げられる組織』の構築が経営者の仕事だろう。
慧智(050308)

 

2005年03月07日

慧智和尚の経済学者的な日本の見方『日本丸が沈没する前に救え』№689

西武の堤さんは逮捕され、事件は小泉さんの母体である自民党森派へと火の粉が飛びそうである。また、国土計画や西武鉄道の危機で、正常債権にしていた銀行が不良債権にせざるを得なくなるかもしれない。つまり、メインバンクである「みずほ銀行」への影響は大きいだろう。まあ、それに比べて「フジテレビ対ライブドア」の実況中継は、野球人気の上を行っているから面白い。
しかし、私に言わせれば“どっちもどっちも”である。経済問題の本質は、幕末に似た「外国船討ち払い令」のような「外資排斥現象」が日本国内に起きたり、“ハゲタカ”が新生銀行の買収で2千億円以上の儲けを出した金への課税問題(勿論、ハゲタカファンドがライブドアの黒幕であるリップルウッドなども含む)、その余波を受けてストックオプションを給与所得とみなす最高裁判決、シティバンク排除、追っ付け始まるリーマンブラザーズ虐め。しかし、そんな世相であっても“ハゲタカファンドの守護者である竹中大臣は、ひとり気を吐き、その弁護と小泉さんの郵政民営化などの弁護に大忙しで、年金だ、北朝鮮だは眼中に無いし、挙句の果ての発言は、『景気は踊り場』と嘘まで言っている。日本のGDPが第三、四半期連続マイナス成長ということは、景気は後退している以外の何ものでもない。しかし、嘘は上塗りしていなければ政権がもたない。竹中大臣の思惑は外資への応援歌を歌い、株式市場にカネを流して株価をつりあげるための資金を市中にバラ撒くこと。しかし、浅はかな経済学者の知能では思惑通りには行かない。竹中氏の自己矛盾の投影が銀行に対する金融庁の検査を厳しくし、貸したくても銀行は貸せず、逆に引き締めている。その上、財政引き締めで、長期金利は上がりだし1,5%は目前。言い換えれば国債価格は下落する。しかし日銀の特権から、日銀の資産評価法は“取得原価法”で時下ではないので、堂々と粉飾決算が出来る。ご存知の通り、日銀が持っている国債は150兆円で価格が1割下がれば15兆円の損が出るので、社会保険だ郵政だ、道路公団などと言って国民の目を他に引き付けようとしても、近い内にそれも出来なくなるだろう。しかし、このような時に政府にには“神風”が吹き、巷は面白ネタでイッパイ。資本金1億円、準備金5兆円の日銀が“10兆円”の増資が正当だという声が大きくなれば、間違いなく『インフレ』を仕組むしかない。人口が減り始めたという事実は年金が破綻することに通じるが、それを誤魔化すには市中に金をばら蒔く『インフレ』しかない。言い換えれば、日本の憲法の精神である“本来あるべき姿”とは180度違う、“浪費家時代”へ国民を誘導するしかない。昨日まではデフレ、明日からはインフレだと狼少年が走り回る。走り回わっているのは“アメリカの傀儡政権である小泉・竹中、そしてKO大学グループの学者だ。『金』は何のために存在するのか。国家経済、国際経済に対する利便性を高めるための手段としてのはず。言い換えれば、国民・人類の幸福の確実性を担保する手段だ。しかし、世界を博打場にして胴元で設けようとする株式会社アメリカは、ごく一部の勝ち組を作るために、多くの負け組を必要としており、日本の入るグループは見えている。だから、私は、『競争の時代』という悪魔の囁きから『協奏の時代』という菩薩の助言を聞くべきだと言いあるっている。利益主義の会社や産業は、諸業無常を知らない。企業25年説は言うまでも無く、物は巷に溢れ、家には不用品の山。土地だって都合の良い所は“ハゲタカの棲家”になっている現在。インフレを仕込んで何に金を使かわそうとするのか。
 私は、今こそ原点に帰り考えるべきと主張し、極論的に言えば『輸入大国から自給自足』へと言いたい。最低限の住まい、食料、そして“生甲斐”となる趣味と“正しい教育”だ。勿論、鎖国をしろなどとは言わない。ブータンを見習えとも言わない。日本に必要なのは“真実を見抜ける眼と行動力”を養う本物の教育を行うことに注力さえすれば良い。それで『無対立・無犠牲・自主独立』の国作りは可能だ。
 欧米の対立は利害相反が原因。パンダの縫い包みを着たタヌキツネの国である中国の騙しは「今年は元を切り上げない」というがドルに連動している元は、ドル安で必然的に下がることは噯にも出さない。中東は宗教戦争と石油の争奪戦で、戦争状態は続くだろう。その上にガメツイ胴元の国アメリカは負債を国連(日本の負担が世界一多い)に押し付けて撤退を始めている。北朝鮮の応援団であるロシアは風見鶏、韓国は民族主義、何をするか解らない。されど、どう騒いでも4~50年で化石燃料は枯渇する。
という状況では“インフレと政権混乱”は必至であり、子供達は元気を無くし、ニートは増大し、年金生活者が潰れる。
そこで、私なりに、近未来の生活スタイルを予想すると、『教育+農業+観光+製造+中古住宅流通』が生残る。
 つまり、『菜根譚』なのだ。“質実剛健・質素倹約、物を大事に使う使い回しを推進する平和主義の国”、それが『日本』へ向うべき方向なのだと思う。言い換えれば、競争より協奏。互恵と個性の尊重が重要なのだ。金や物に幻惑されない心の豊かさを標榜する国なのだ。
今こそ、『禅』思想を世界に叫ぶべきだ。禅寺よ、禅坊主よ、風流な参禅者よ。今こそ、発言し行動しよう。袈裟・衣で抗議しよう。無抵抗主義のデモを見せよう。
新聞を読んで我慢の限界を少しだけ越えて過激になっている慧智(050207)
今夜は朝まで坐るぞ!!!!

 

野狐禅和尚の辻説法『菜根譚・前集132からの警告』№688

昨日、偶然に出会った釈宗演老師の菜根譚訳本の、偶然に開いたページに、以下の教訓があった。私と宗演老師では経験や生きた時代が異なり、受け取り方に多少の違いはあるものの、皆さんにとって大事な内容だと思うので、2年ぶりに掲載します。
■前集132項
善人未能急親、不宜預揚。
恐来讒譛之奸。
悪人未能軽去、不宜先発。
恐招媒蘗之禍。
◆訓読
善人、未(いま)だ急に親しむこと能(あた)わずば、宜しく預(あらかじ)め揚(あ)ぐべからず。
恐(おそ)らくは讒譛(ぎんしん)の奸(かん)を来(まね)かん。
悪人、未(いま)だ軽(かる)がるしく去ること能(あた)ずば、宜しく先ず発(あば)くべからず。
恐(おそ)らくは媒蘗(ばいけつ)の禍(わざわ)いを招(まね)かん。
●解釈
相手が善人と解っていても、本当に親しくなるまでは、相手を褒め称えてはならない。
さもなければ、それをやっかんで、陰口を使って仲たがいをさせ、利益を得ようとする下衆な輩が現れるだろう。また、相手が悪人と解ったとしても、近付かれた以上は、悪事を働く前に排除してはいけない。それをすると、恨み妬みを買い、悪さ以上に大きな被害を受けるだろう。
つまり、活人は、何事にも時期があり、処し方があることを知って、実行している人間なのだ。
言い換えれば、一寸先に明かりを灯せる心の眼をもった人なのだ。
とは言え、禅では「善を思わず悪をも思わず」と説く。自他一如に二心無し。短期的に騙した騙されたという考えは嫌うし、相手の意見を定数とも変数とも思わず、あるがままに受け止めて、決して無理をせず出来る事はする。そして、自利利他に徹するように教え、何が起ころうと結果は自然に成るので、足るを知るように教える。さて、善悪が分かれる前には、何があったのだろう。実は何もかもカラッポなのだ。善悪は分別。巷では善を行い、悪を為すなというが、その真理は善悪などに囚われず、拘らず、偏らず、無心に淡々と生きよということだ。
慧智(050307)

 

野狐禅和尚のお応えします『質問:和尚は“神”を否定するのですか?』 №687

 短いが的を射た質問を受けましたので、私なりの考えを述べます。
■質問:慧智和尚は“神”の存在を否定しているようですが、私は交通事故で3日間の間意識不明でしたが、その間に臨死体験をして、無限の光の中で父なる神に会い、神が居なければ“人間”も自然も存在しないことを知りました。勿論、それまでの私は死に対する恐怖を抱いていた無神論者であり、他の宗教の影響は受けていません。つまり、純粋な意味で神に会ったのです。つまり慧智和尚も“神の作品”の一つなのです。和尚の文章はほぼ毎日読んでいます。同感するところもあれば、間違いだと解るところもあります。特に、和尚の神に対して理解は、完全に誤りです。何故、和尚ともあろうひとが全知全能の『存在である神』を否定しているのですか?」
◆応え:私は“神”の存在を否定していません。ですから、実は質問には応えようがあるいません。しかし、私と貴方で『神』という言葉に与えた定義が違うので、それはお互いに知っておいた方が良いと思い、『否定していない』という回答で十分だとは思いますが、あえて付け加えておきます。
さて、“神”という概念は人間が想像し創造した“内的存在≒ワイルドカードのような内的存在”の最高傑作であり“理想モデル”でもあり、“道徳的”意味では大変な価値があり、人類の成果の一つであるということは『真理』に気付いた私を含めた多くの方々の解釈であります。反面、『唯一』であると主張する個人や団体が、“唯一”なるが故に対立し“唯一の椅子取り争い”をしている状況は、人間の世界にとって大きなマイナスもあります。さて、応える前に、あなたの主張を整理してみましょう。
あなたの質問の背景には『神は“絶対的な一人(唯一)”である。絶対的な一人の存在が全ての物質や生物を作った。人間の肉体と精神は別物であると臨死体験で解った。過去あなたは無信仰者であった。そして私の説法を読んでいてくれる。』
禅が分別(情報や知識による取捨選択)を否定するのはご存知でしょう。勿論、私も同様です。しかし、『井の中の蛙が大海を知らないように、大海の鯨は井の中を知りません』から、井戸のなかの話は井戸の中で通じる話であり、井戸の中にいる限りは『井戸の中での限定合理性』を前提として考えるべきでしょう。また、人間は物理的肉体を構成する宇宙にありふれた物質の集合であり、各要素間で電気的信号により化学反応が連続する有限である時間的存在であり、解釈という幻想を“自我”ないし“事実”としている生活体です。また、物理的と思われる現象世界での“価値(神もその一つ)”は多種多様で、誰一人として、“神”が物理的存在であることを証明した人はいません。禅語に“壷中の日月は長い”という言葉がありますが、物理学上の変化の単位である“物理時間(時計が示す時間)”と心理学的な時間とは相関関係がありません。言い換えれば、一生は一瞬だとも、一生は無限だとも言えます。しかし、“一生”が他者を観察して語ったものでなく“自己の認識”であれば無限です。私達は己の受精(物から命への転換点)の認識もなければ“死”の体験も出来ません(“自分が死んだ”という認識を生物ができません)。禅では“父母未生以前の本来の面目を見よ”というのがそれで、“全てが二つに分かれる以前の姿”なんでしょうと入門の時に問われ、何年も“それ”を見ようと挑戦しますが、結局は“無”であり“空”であることがわかります。ですから、死はいつでも他人事であり、臨死体験とは“死んでいない人の夢、幻であり、神経や内分泌系が一時停止したり暴走したりしている異常な状態”ですので“生”であります。つまり、貴方が出会った“神”は、あなたの“神”なのでしょう。ですから、人生の宝として大事にしてください。と同時に、あなたが自分の神、自分自身を大事に思うように、他人も自分の神や自分を大事にしたいです。言い換えると、“あなたの神”以外にも多くの神が存在しているので宜しいのではないでしょうか。しかし、それらが“唯一”であると言って、それに拘り、囚われ、偏った見解を流布して自己への利益誘導を行なえば“対立”が起こるのです。あなたはあなたの神を信じて生きなさい。そして、他人にもそれを認めなさい。そして、少しづつでよいから『井戸』の外も見てみましょう。過去、何回も書いていますが『釈尊は“発見者”であり、キリストはじめ一神教の中心人物は“発明者”である』というのが私の考えで、物質循環論からすれば釈尊は私の一部であり、私は釈尊の一部ともいえますし、あなたも同様ですし、キリストと釈尊を100%別人とはいえませんね。なお、私の少ない知見からすれば、『万法帰一(全ては相対的現象であり実体は“無(一)”の変形である)・一切皆空(全ては相互依存の現象である)』というのは、科学的な真理であり、全的な真理であります。勿論、“真理”と主張する意見は、無限にあって差し支えありません。しかし、相互に排他的となり対立するのは不幸なことです。大事なのは『無対立(互いに相手を尊重し対立しない)・無犠牲(犠牲にしない・されない)・自主独立(徒党を組んで対立しない)』ではないでしょうか。
ですから、私は貴方の“神”を否定しません。貴方が会ったということ否定しません。あなたには“それ”が内的な事実でしょう。ただし、それが『井戸の中の出来事』であることは認めましょう。そして、“自分の神”を“唯一だ”と“押し付ける”行為は危険なことだと知ってください。『八百万の神々』は仲良くやれるのではないでしょうか。それとも、一国優位、一人優位の独裁が必要ですか?。己の外に仏なし。人間万事塞翁失馬。60億の自由な民。共有する神ごとの文化。・・・。大事なのは“神”がいようと、いまいと、余計な殺生殺戮はせず、全ての存在に畏敬の念を抱いて他への犠牲を極力強いずに“安心”して暮してゆける世界、一人一人の人間が尊重される世界が大事なのではないでしょうか。
蛇足:快慧さん!祝:一級小型船舶免取得
慧智(050307)

 

2005年03月05日

野狐禅和尚の報告『中年ダッシュ村≒ベテランズビレッジ構想』№686

●日本人の原点、心身自適、互恵の村『南伊豆・菜根譚(さいこんたん)』
平成17年5月から、静岡県賀茂郡南伊豆町の農業生産法人(私が代表)が所有する約18万坪(約60万平方メートル)の土地において、自然と共存しスローライフを目指す人々が集える“一流の田舎”を目指し、『一人が皆のために、皆が一人のために』を合言葉、『菜根譚』を村名に、質実剛健、質素倹約の創村活動を、仲間を募って開始する。
金だ物だと世知辛い世の中であり、一寸先はデフレかインフレか全く読めないし、モラルの低いインテリは“金儲け”に奔走し日本を性悪説の国であるアメリカに売り渡そうとしている現代。理想は“金や物”から独立した『心と事』で繋がる“一流の村”の建設だ。しかし、物から事、金から心へという極論から極論に振れるのは、極論を助長し強化する結果を招くだけで、自然が誘導する“正しい結果”は出ないだろう。
そこで、これから開村する『菜根譚(仮称』では、“出来る限り自然に暮そう”を合言葉に『極論を排除した両忘思想(中庸)』で暮せる環境を整備する。それは、個々に独立しながら、イザとなれば助け合う“相互貢献”が自然に起きる村だ。言い換えれば、必要以上に近付かない必要以上に離れない人間関係が保たれていることであり、多種多様な個々の意見は止揚され上位の概念に統合される文化をもつ村だ。意見が右左に分かれたら右左の両論を包み込んで“上”に統合される文化だ。つまり、男か女かと意見が分かれれば“人間”と読みかえられる文化だろう。有罪か無罪かと分かれれば“罪は補償し人は成長する”ということだろう。
『菜根譚』は、出来る事なら“自給自足”が望ましい。しかし、現実には難しい。となれば、“物々交換”や“結(ゆい)による協働(それぞれの得意を活かして相互に貢献する)”ということになるだろう。そして、誰も偉くない。誰も諂わない。其々が行動責任を担える村だろう。
私が、こんな思いで創村するからといって仙人ではない。現実から逃避することでもない。事実は事実、現実は現実として認識し、謙虚に受け止め、本来の意味で“理”に適った暮らしを実現したいだけだ。電気の無駄使いはしないが蝋燭生活を強要もされない。移動には車を使うが出来る限り歩く。贅沢はしないが赤貧に甘んじない。言い換えれば“創意工夫”が尊重され、活かせる村なのだ。
●『菜根譚』の場所は、伊豆急・下田駅から車で20分ほどの周囲を山に囲まれた盆地状の土地で、進入道路は走雲峡ラインから一本、入口を入れば恰も独立国のような風情がある。
●村民になってもらいたい人は、現在退職準備中の方、退職された方、週末だけでも自然に帰りたい方、都会育ちで田舎の無い家族など、物質文明と拝金主義に違和感のある方で、評論家ではなく、自ら進んで汗を流す率先垂範が出来る人だ。
●現状は、土地と果樹園があるだけ。全ては開村してから建設される。つまり、創村活動にこそ“志”が活きるからだ。言い換えれば、相互貢献の機会はあるが、何のサービスもない。縁があり村で知り合った方々と自由に語らい、アイデアを出し、自ら率先して村創りをしたい。村には週末に帰ってくるも良し。平日に帰ってくるも良し。場合によれば住まいを移しても良し。『菜根譚』を利害の対立のない“新しい故郷”にしたいだけなのだ。
●想定される人口は、300人程度。村の共同施設(役場・温泉・農地など)を利用して田舎生活を楽しむ為には、世知辛いが最低限の費用は必要なので、10年分の村民株一人150万円を募る。また、多少のプライベートのために自分専用の農業小屋を作りたい方は村民株300万円をお願いする。つまり、集められた資金で村の華美にならない最低限の施設を建設する。
●『菜根譚』憲章:一人が皆のために、皆が一人のために。
注意:村民の一人一人が利他の心で『結(ゆい)』という村の暗黙の約束事(基本理念)を守ることで、対立や諍いの無い、脱都会、脱文明の自適な生活を楽しむことが出来る。勿論、現在進行形の果樹園農業に参画することも、土地を開墾して農地を作り無(減)肥料農業、無(減)農薬という約束事さえ守れば、花や野菜、果物などの露地栽培や水耕栽培などが出来ますし、村の世話役が手伝ってくれるので、趣味の農業や園芸も楽しめるのだ。
●寝泊りは、不特定多数ではなく特定少数に限定されているため、立派な施設は考えていない。基本的には村役場とその分室(小屋)を生活の場としていただく。また、温泉施設はあるが村の共同浴場と考え、利用者は“入った時より出る時”の方が綺麗と言われる使い方をしてもらう。
●小屋掛:農業や開墾に必要な場合は、“作業小屋”を建てることが出来る。
●開墾:村民の希望を、村議会で話し合い、村の土地であれば自力で開墾し、耕作地や広場などを作り、村の理念を逸脱しない限り、どんな活動でも可能です。なお、農作業は、村役場の世話役(近隣の農家)の応援が受けられるので、週末のみの素人でも本格的農業を楽しむことができる。
●永住派も歓迎するが、質実剛健、質素倹約、利他の心は失わないで欲しい。
●疎開の村:諸行無常。過去は確定し未来は未定。一寸先は解らない。だから、東京が新潟の山古志村のようになる場合もあるだろう。そんな万が一の災難を想定して『自分の田舎』をつくっておく人の為に、非常時の衣食住には万全をきしておく。
●愛すべき中であるペット達のためには、多少の費用はかかるだろうが、ケア付きのホスピス、老人ホームも用意する。
●また、『菜根譚』には、終末の棲家である墓はないが、縄文時代の遺跡がある地域に『散骨の杜』の用意があり、村民が亡くなられても、永住するもできる。
●勿論、坐禅やメディテーションなど心身の健康を維持する場所には事欠かないし、現代風の“禅的生活”の場となるだろう。
以上、第一報。詳しくは keichi-k@tkh.att.ne.jp へメールをしてください。
慧智(050305)

 

2005年03月04日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第四『得牛』(牛をつかまえる)』№685

頌曰
■竭尽精神獲得渠
■心強力壮卒難除
■有時纔到高原上
■又入烟雲深処居

◆竭尽精神獲得渠
読:精神(せいしん)を竭尽(けつじん)して 渠(かれ)を獲得す。
意味:精神の限りを尽くして牛を掴まえてみると、この牛は快・不快、好き・嫌いに代表される二項対立の分別を求める心が強く、自我という虚空の己を主張し影響を受けた“外の世界”にとらわれ、明らかにした中空の手綱が、油断すると切れそうになる。戦争や競争の権化である自他対立の悪習性は、長い年月で身に付いたもので、“心の空性”はわかっても、なかなか云うことを聞かない。
◆心強力壮卒難除
読:心(しん)強く 力(ちから)壮(さかん)にして卒(にわ)かに除き難し
意味:長い間野放図にされた己の心は、野生化した牛のように力が強く、そのバカ力を無くさせるのはなかなか難しいので、急ぐことはできないので、ますます熱心に坐禅に励まなければならない。
◆有時纔到高原上
読:有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り
意味:云うことをなかなか聞かない有様であるが、『ある時は悟りの頂上に立って衆生を度せんとするが、その対象としての衆生が無く、その世界に執着して独りよがりになり『悟ったという心』に執着し融通無碍な自由な心が曇るときがある。この状態を『禅病』と言い、利他を必要とする世界の無用の長物となってしまう。
◆又入烟雲深処居
読:又烟雲の深き処に入って居す
意味:もう一つの問題は『烟雲』という一元論を二元論で説明するような二項対立の魔境に、すぐに戻ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまうことがある。まあ、自分はは他人が容易く持てないような“悟り”を開いたという自信に漲り、それが高じて、悟らない人より頑固となり、自己主張が強くなって、手に負えない状態となってしまう。(慧智はこの傾向を未だに具しているのは否めない)
昔から、この状態を『禅天魔』と云い、このようなケースは過去にも山ほどあり、この世界を抜け出すには、乞食などに徹して、ますます謙虚になり作務と坐禅に没入することである。


さて、『得牛(とくぎゅう)』のレベルは、“眞の己”のアナロジーである“牛”を、しっかり掴まえた段階である。つまり、“牛の正体=本来の面目”が明確になり得心を得た段階である。つまり、己を頭で理解した段階である第3の「見牛」段階とは格段の差があります。言い換えれば、第三段階では本来の己に会ったという見性経験はできたものの、まごまごしていると直ぐに見失ってしまい、『悟り』の経験を頭と口で話せる程度で、しばしば己を見失い、安易な生き方への執着を捨てられず、酒や異性や遊びに流され、自堕落な人生と聖なる人生を往復することになる一番苦しい段階である『見牛』を抜け出し、頭と心と体が一体となっている本来の己として生きられようになった“人生道”を初心者マークを付けて走れるようになった段階です。
ところが、この“己”という牛は、長い間、路上駐車していた車のように未整備で、なかなかスムーズには動きません。つまり、快楽を追い続けていた二項対立の世界の自堕落な味が忘れられないのか、どんな道でも快適に走れるというわけにはいかないのです。しかし、『色即是空』という語を観念を媒介にせずにハッキリと確信できるので、己が無限の能力を備えていることへの自信が湧いてきて“形式的に作られた思想や観念”などの方便モデルの力を必要としなくなることから、ここまで来ると牛(本来の己)を見失うことはなくなります。
慧智(050304)
★報告:TOPページの下に『十牛図』への入口を用意しましたので、参照してください。

 

 

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