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2005年4月

野狐禅和尚の辻説法『人間の思考』 №741

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №740

野狐禅和尚の辻説法『言葉の限界』 №739

野狐禅和尚の辻説法『如何なるか幸せ』 №738

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:坐禅は、それ自身が目的であり手段だということが和尚の過去帳に書いてありましたが、どうしても理解できないのでヒントを下さい(中学2年生)』 №737

野狐禅和尚の辻説法『禍は慎家の門に入らず』 №736

野狐禅和尚の辻説法『眠い時こそ断崖絶壁』 №735

野狐禅和尚の辻説法『丈夫面上に紅粉をつく』 №734


野狐禅和尚の“お応えします”『質問:法律を守ることが最低の道徳なのですか(中学2年生)』 №733

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №732

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:先生は、何を目的に、何を目標に生きていますか?』 №731

野狐禅和尚の辻説法『多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し』 №730

野狐禅和尚の辻説法『一日不作一日不食』 №729

野狐禅和尚の辻説法『好事不如無』№728

野狐禅和尚の辻説法『質問:方便は“嘘”ですか?』№727

野狐禅和尚の辻説法『無理会』№726


野狐禅和尚の辻説法『足るを知れ』№725

野狐禅和尚の辻説法『麻糸は、1、8キロ(麻三斤)』№724

野狐禅和尚の辻説法『神と仏、そして、禅』№723

野狐禅和尚の辻説法『色即是空、空即是色』』№722

野狐禅和尚の辻説法『転迷開悟(てんめいかいご)』№721

野狐禅和尚の辻説法『4月8日の灌仏会について』№720

野狐禅和尚の辻説法『8歳の夏の思い出』№719

野狐禅和尚の辻説法『澗水松風悉説法』№718


野狐禅和尚の辻説法『其の白を知り、其の黒を守れば、天下の式と為る』№717

野狐禅和尚の辻説法『人生の起・承・転・結』№716

 

2005年04月29日

野狐禅和尚の辻説法『人間の思考』 №741

一人一人が個性的である人間を其の抽象性、不確定性を超えて断定する表現はナンセンスであるが、それでも“人間”という表現を使う場合、多くは生物学的共通性に起因した生理学的存在として人間を見据えた場合である。『人間は考える葦である』と言ったのは哲学者で数学者、物理学者のパスカルであるが、そのキーワードが何を言わんとしたことかは、その前後の言葉から感情を排して推し量るしかない。ここで“感情を排して”と付け加えたのは、電車事故を素材に視聴率を上げようとするために、被害者を“哀れ”の対象、加害者を“悪”の対象として強調して、裁判をする以前に“リンチ”を楽しむ大衆に迎合し、大衆を煽動する卑劣なマスコミへの警鐘を鳴らしておきたいからである。話を戻す。
パスカルは『人間が葦の如く弱い存在であることを知っている人間は、“考える葦”として“知らない宇宙”より偉大であり、全てを知り尽くしていることより“小さな愛”の業の方が更に偉大である』と発言し、『物体→精神→愛』の連関を通じて“秩序の三段階”を明らかにした所謂“実存主義”の先駆者と言われている。勿論、パスカルの考えは釈尊に比較すれば明らかに稚拙で非科学的ではあるが、そこから欧州型道徳(モラール)に言及しその後の教育者の愛読書となる著書『パンセ』に昇華できたのは評価できる。ここで活人禅会会員に考えてもらいたいのは、『人間と物』を二元として捕らえていることである。それは何故なのか。
 人間の生理メカニズムの知覚的現象の一つは、皆さんが日常的に経験するように、『動いている時は考えられない・動かないでいるときは考えてしまう』ということ。『肉体的に疲れ果てている時は何も考えられない・(精神的な)悩みに苛まれているときは動けない』ということです。そして“坐禅”の初歩段階では『止静』の状態になると“雑念”が景色を隠す雲のようにモクモクと湧き出してくるということ。山作務で全力を出し切っている時は、考えようとしても“その考えや思い”も消え失せてしまっているということです。そこから、禅では畑にしても山にしても“作務”の効用が積極的に利用されています。このような説明に馴染めない方もいるでしょうから、『紅茶ポット』をイメージしてください。ポットに茶葉を入れ、90度の湯を指すと茶葉はダンスを始める。そして1分もするとポットの中で踊っていた茶葉は、静かに底に沈む。そして、それを持ち上げてカップに注ごうとすると茶葉は巻き上がる。この風景を居間のテーブルで目撃すると、人間の思考と行動の関連に気付く人は多く、有る意味で“自然”を感じるだろう。そして、それを感じると多くの禅者は、『碧厳録』の「魚行きて水濁る」という言葉を連想するようだ。ところが、この句は、『己が動いた後に己の道は出来る』という暗示であり、動かなければ360度全てが道だとも暗示しているので、連想が、どのようなニューロンのスナップから起きたのかは修行を積んだ師家なら直ぐ解る。
 考える事は“雨”に似て、思う事は“雲”に似ている、といわれる事があるが、『思+考』を切り離して“考えられない”のが現実である。
まあ、パスカルは、“人間は考える葦だと思った”と考えるのが妥当だと私は思う。
さて、活人諸君。電車事故の周辺から学べ!。それが出来なければ、無くなられた方は“犬死”だ。過去は変えられない。過去に執着したり、未来の囚われていると“苦”しかない。やり場の無い悲しみや苦しみは“やり場”をつくり上げ、認知的不協和を作り出して抽象的な不安や苦しみを、具体的な怒りに転換して、心を整理しようとするが、傍目には“気の毒”としか思えない。亡くなられた者は決して帰らないし、魔女狩りでの腹いせは、生きている己を更に悲しみへと向わせ、“大安心”という幸福から遠ざけてします。つまり、不幸の悪循環が始まってしまう。人生は諸行無常。時は人を待たない。大事なのは『全力で生き、全力で死ぬこと』。いつ何時旅たっても後悔しないし、残すものに悲しみを贈らない生き方がある。今日は連休の入口。時間が有るときこそ無為に時を過ごさず、日常の『事実』から坐禅を通じて何かを『発見』し、それを『教訓』として脳細胞に刻み込み、今この場の己の生き方を『宣言』してみてほしい。それが“活人4行日記”という、文字を使わない“ハイパー4行日記”なのである。因みに、私は“これ”で生きている。それ故に『一日一生』と断言できるし、死ぬ覚悟と生きる覚悟を止揚した生死一如を体現できるのであり、末期癌と共存する体質を作れるのだと思う。
慧智(050429)

 

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №740

 『真玉泥中異』は、「しんぎょくでいちゅうにいなり」と読んでください。この句は、景徳伝燈録にでてきます。『本物は何処に居ても異彩を放っている』というもので、己の不遇を嘆くことに警告を発しています。転じて、『他責的になるな』という警告でもあります。
 人間は須らく“縁”により生じ、縁あって居場所がきまります。つまり、何処に居ても“そこ”が晴れの舞台です。ですから“そこ”で輝いて居なければ“本物”ではないのです。言い換えれば、与えられた境遇をイキイキと生きて居る人が本物です。自分の評価は自分では出来ません。“今の境遇”に不満を抱かず全力を出していれば、自然と『随所で主となる』を実践していることに他なりません。随所で主となる心をもっている人を“主人公”といいます。舞台で馬の足を演じていても光るし、会社ではどんな制裁人事に遭おうと、配属先で輝きます。Sさん、4月の人事異動はショックだったのでしょう。しかし、それこそがチャンス。貴方の本物をだしましょう。これまでは部署が貴方を飾っていたのでありあなたのアウトプットはバブルだったのではないですか?左遷されたと思う、被害者意識や他責的な発想に変るようでは、馬子が衣装で殿様と勘違いされ、殿様という椅子の権威で評価されていただけではないですか?。本物の殿様は裸になっても殿様です。つまり、本当に実力が有る者は、どこに居ても主人公です。そして実力者に「あなたは何故輝いているのですか」と訊ねると、「そうですか。有難う御座います。しかし、どこにあっても全力で生きて居るだけですか、他人の評価を気にしたことはないので、輝いている自覚はありませんね」というような反応でしょう。つまり、『何処にあっても全力』『どこにあっても“足るを知る”』、それが出来ている人が“真玉”であり、泥の中でも輝いている人だと思いますよ。
 「暗いと嘆くより、自分が明かりになりましょう」それが“伝燈”の心です。
Sさん、手紙を頂けたこと嬉しく思っています。気が向いたら禅会に来て下さい。
慧智(050428)

 

2005年04月28日

野狐禅和尚の辻説法『言葉の限界』 №739

 昨日、参禅者から「悟りとは無を知ることですね」と雑談の中で聞かれた。“問われた”のではないので、言葉の限界に挑戦するなどとは思わないが、言葉で伝えようと次のように話した。
「少なくとも“無”を知ることではなく“無になり切る”“一切を無に帰せること”が悟りの一面ではある。つまり“思い込む”ことではない。そしてそれは自分を無意味な“有”として感じられる程度ではなく、理性は元より、あらゆる感情、あらゆる情動、あらゆる意欲を無くし、尚且つ“空しさ”をも無くした経験を持たない者は、悟りを“概念”としか捉えられず、言葉を知っただけで、実際には“悟り”に至ってはいない。そして、そこに至るには、言葉や記号を以て極めようとすることを完全に断念するまで、己の力で思考を停止させる、つまり“我”は言うに及ばず“己”を殺せない限り、“無”を知ることは出来ないし、従って“無”になり切ることはできない。そこが『竿の先』であり、菩薩はそこの更に一歩先に居る者であるが、それは同時に、“それ”を求めて精進して居る者でもある。故に“悟り”とは“何か”なので、無になり切れたと自覚することではなく、“それ”を知った者により“感じられる”ことしか“それ”に達したか否かは解らないのである。即ち“それ”が悟りであり、悟りとは“それ”以外には無い。そして、“それ”という言葉も捨て、“それ”と不可分不可同となった状態が“それ”なのであり、“それ”を『糞箆』と言おうと、『麻三斤』と言おうと『“それ”は“それ”』なのである。『仏は仏でないから仏と呼ばれている』、もし“それ”が仏なら、呼称に縛られない自由があり、表現に限界の有る言葉には依存しないのである。」と話した。
 以上から、禅に於ける悟り、真理の探究など、どんな表現でもかまわないが、言葉の体系で有る“学問”、感情の体系である芸術など、無限と評される限界を極め、究極の一歩手前で知った限界を超えて始めて“悟り”を体験できるだろう。助言的に言えば、“何かを極めて、それを捨て去ったところに“それ”を体験する瞬間があると言える。
 過去、何度このような虚しい試みをしたか忘れたが、“坐禅”であれ“悟り”であれ、『体験しなければ解らない』ことを言葉に依存した『頭から頭へ』という“以頭伝頭”は虚しい限りである。つまり、その空しさを脱却し捨て去れるのは『心から心へ』“以心伝心”しかないのである。正に『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』。今、私が“仏”とは何か、と詰められれば「ローマ法王の屁」だとでも応えよう。
慧智(050428)

 

2005年04月27日

野狐禅和尚の辻説法『如何なるか幸せ』 №738

 大事故が起きた。死者や怪我人が多数でた。何とも痛ましい。謹んでお悔やみを申し上げます。
最近、天災や人災の多くが記憶に残っている。視聴率至上主義のマスコミにとっては痛ましい現実もチャンスであることは否めない。キャスターやコメンテータと言われる輩は、“ここ一番”の顔つきと声で弔意を表現する一方で、恰も裁判官か検察官気取りで“魔女探し”を嬉々として勤しんでいる。何とも情けない。
事故があったのは事実。事実を受け止めるには“心”を動かしてならないのは人間としての基本。心が動けば事実は解釈され、“情動や感情”を動かして、事実が心象と化し、正しい理解や対応が出来なくなる。人間は情動・理性・感情を錯綜させて生きて居るのは事実で否定しようはない。確かに、情動や感情(俗に“心”といわれている)を動かす事から喜怒哀楽が生まれ、それが人間らしさだという考えもある。しかし、同時に、喜怒哀楽がストレス反応を引き起こし、“苦”の源泉になっていることも事実。生理学的に考えれば『苦楽一如』、“苦”はハイパーストレス状態を加速させ、“楽”はアンダーストレス状態を加速させ、共にディストレス状態を招いている。俗な言い方をすれば、笑うこと、泣くことは、共に同じ作用をするストレス因子として健康にダメージを与えることは広く知られているし、無表情はアンダーストレス状態に繋がることも知られている。そして、ニコヤカに微笑んでいられる状態こそが、健康を促進する状態で、心が動かず安定した状態でる心身がバランスの取れ、“至福感”の源泉であることは常識のはず。にも拘らず、“知って意味の無い情報”、無智な者に先入観を持たせるような動きが、何の疑問も無く社会のシステムに組み入れられている。悲しい者の悲しみを煽る、苦しい者の苦しみに油を注ぐ“マスコミ”という暴力装置は困ったものである。
私達は、正しく見る、正しく聞く。正しく理解する、正しく行動する、正しく反省する、正しく成長することを理想(道徳)としているはず。勿論、正・誤は相対概念であり、絶対的では無く、それに拘り、囚われることことは厳に慎むことも同時に教えられてきているはず。だからこそ、無縄自縛に注意し、諸行無常を念として臨機応変に暮らすことを、社会のありとあらゆる機会で教えられてきたはず。『他人の振り見て我が振り直す』ことを北朝鮮や中国の教育から洗脳の怖さを諭されたはず。
過去は変える事は決して出来ないし、未来は可能性しかない。そして我々は“今・此処”を通過している現象である。
“幸せ”とは何か。心が落ち着いて動かず、如何なることも素直に受け止められる冷静な状態が続いていることだろう。言い換えれば“大安心”の状態ということだ。
坐禅は“流言蜚語”に踊らされることを減らすな、と最近の参禅者から見て取れる。
さて、“幸せ”とは、どんな“心”の状態か。被害者に哀悼を捧げるとともに、他人事に終わらせず“自分事”として、幸・不幸、事実と解釈など“二項対立・二律背反”について考えてみよう。
慧智(050427)

 

2005年04月25日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:坐禅は、それ自身が目的であり手段だということが和尚の過去帳に書いてありましたが、どうしても理解できないのでヒントを下さい(中学2年生)』 №737

 答えではなく“ヒント”を求めるのは最高の質問者です。ですが、君は坐っていますか?頭で解ろうとしていませんか?それともゴールが見えないと行動できませんか?君のように智慧の回る若者なら、教えなくても坐れば解るはず。坐禅に来たくなった来なさい。でも、今は学校に耐えなさい。
さて、ヒントが欲しいというなら“六波羅蜜”の説明をしましょう。
 六波羅蜜とは、布施・忍辱・持戒・精進・禅定・智慧の六つ。この六波羅蜜こそが実践的菩薩道(生き仏になる道)で、戎・定・慧の三学である実践的精神と対をなすものです。
「布施」とは“貪欲の心”を捨て不特定多数(僧侶や寺という解釈が一般的だが私は拡大解釈している)に財を与え、真理(法)を説いて完全な恵みを施すこと。
「忍辱」とは“瞋恚の心”を捨て去り艱難辛苦、迫害を耐え忍ぶこと。
「持戒」とは“悪業の心”を捨て去り身心を清浄にすること。
「精進」とは“懈怠の心”を捨て去り自分自身で自分の身心を励まし全力で生きること。
「禅定」とは“心の動揺や散乱(不安と言ってもよい)”を捨て去り、心身を統合して集中し安定させること。
「智慧」とは“愚痴の心”を捨て去り、迷いの心から離れて、諸法の“究極的の実相(真理)”を見極めること。
そして、「波羅蜜」とは、“完全無比の完成”ということ。
付け加えると、禅では六つの波羅蜜の中で最も重要なのが『智慧の完成』とされています。言い換えると,“智慧”は“波羅蜜の根拠”とも言えます。そして、“智慧の完成”こそが『無執着の完成』です。如何なる物や事、言い換えると“全ての現象”に囚われることなく、完全に執着しないという“融通無碍・自由自在”は、自利の完成であると同時に利他の完成であり、智慧の完成というものです。
 付け加えますが、君には知識などという相対的であやふやな情報に頼らずとも、君は解るはずだよ。何故か。それは人間として生き物として、現象している状態として“当たり前”のこと以外はないからです。中学生には少し難しいが、私ですら14,5で“坐っている内”に自然に解ったんですから、君なら必ず“答え”に出会えるはず。それが私の“応え”です。
追伸:高校には進学してみなさい。教師に疑問があれば、“己の先生は己”と決め、学校は“場所貸し”程度と思えば良いんです。先入観で決めるのだけは止めよう。焦ることは無い。君ほどの力があるなら大学院を出て本山の管長を目指して10年坐るのが世間のためだ。それが本当の功徳だよ。
慧智(050425)

 

2005年04月24日

野狐禅和尚の辻説法『禍は慎家の門に入らず』 №736

『禍は慎家の門に入らず』、慎みを忘れない家には禍は起きてこない、という意味です。正に、と思いつつも難しいな、とも思えます。自分としては“厳に慎み深い”と思っていても、“慎み”という意識は相対的で、慎んで居るつもりでも相手はそのように思わないということもあります。『長者の家は暗い』という戒めがあります。周囲の者から“妬まれない”ように、富める家は夜になれば早々に雨戸を閉めて外から見えないようにして余計な嫉妬の対象にならないようにすると良い、というのが表面的な意味で、背景には「禍は慎家の門に入らず」という心が伺えます。しかし、富む者と貧しい者にどんな違いがあるのかと考えると、なかなか難しいものがあります。一般的には地位や名誉などなどが思い起こされますが、それは貧者の発想で、富める者、長者の発想では地位、資産、収入などでは貧富を決められないというのが標準的な考え方です。それは高学歴なものは学歴の意味を知って意味が無い事を実感できるが、そうでない者は、それを信じられず、高学歴者の学歴無用論に疑心暗鬼を持つのと同じです。仏法が規準とする貧富は、資産、地位、名誉という相対的なものではなく、“心”であり、“与えられる者は豊か”と考えられています。何を与えるかは、与えられる物・事は全てです。言い換えれば、不特定多数のために役に立つ者が豊かな者です。言い換えれば、何事にも囚われず、拘らず、偏らない利他の心を持つ者が“豊か”と言っても過言ではありません。そこには地位・名誉・資産は関係ありません。しかし、“偽善”は困ります。偽善者ほど“貧しい心”の持ち主はいないからです。
つまり、『禍は慎家の門に入らず』とは、“慎み深く暮らす事”を言行一致で実践できる者といえるでしょう。現代的に言えば、どんなに社会的に評価されても“驕らない人”ということでしょう。勿論“だからこそ”不愉快だと思われる嫉妬心を抱かれる場合もありますが、それに耐えてこそ真に“富める者”と言えるでしょう。
なお、禅では以上の話の“まだ先”を教えています。『本来無一物』という言葉に代表されるように、人間は最初から全て備わっているので、それに気付き、実践している者が“富める者”だということです。しかし、これの悟りに達する道は厳しいが、また本当に豊かな気持ちになるのも事実です。この道を一緒に歩きませんか?
慧智(050424)

 

2005年04月23日

野狐禅和尚の辻説法『眠い時こそ断崖絶壁』 №735

嘗て、師匠に「眠いなら岩の上で坐っていろ」と坐禅中に居眠りをしていた私に“喝”がとび、警策が唸りを立てて方に食い込んだ。
今日、暁天で久々に禅堂の前の“張り出した石”に坐った。顔に差し込む日の出は眩しい。しかし、素晴らしい。鶯は鳴き、山桜の花びらは朝日を浴びて薄桃色。若葉は勢いがあり、足下は百花繚乱。眠さが残っていた故に、石坐(当禅堂の居眠り者御用達の単)に坐ったが、余りの風景に、二重の意味で目が開いた。その時、思い出した禅語が、『無賓主(むひんしゅ)』という言葉。通常は、山岡や宮本などの武芸者が“剣禅一如”と敵と己を合一して戦わずして勝つというような場合や茶室での“決闘”に似た主客など、人と人の関係に於いて使われる。意味は「主は主に徹して、客は客に徹することにより、主客の対立を超越する境地」のことで、意外と理解し辛い。易しく言おうとすればするほど難しくなるが、まあ、「自分の立場と相手の立場を瞬時に見極め、阿吽の呼吸で相手と自分を相互浸透させて一体にとなり、“相手が自分であり自分が相手である”という心境になること。二項対立を瞬間に止揚した境涯と言ってもよいだろう。また、“無心”への昇華と言っても良いかもしれない。
 目に朝日が飛び込み、鳥が鳴き、青空を静かに雲が流れ、少しヒンヤリとした微風が竹を戦がせ、我が頬を撫でる。其の瞬間、私は“自然の一部であり、自然は私の一部”であることを感じ、次の瞬間、己と自然の区別が無くなり、大声で“喝!”と叫んでいた。
 何気ない日常に、真理が生きている。“無心”とは、心の完全なる拡散。何ものにも拘らない、囚われない、実に清清しい自由な気分だ。
慧智(050423)『自然の声は辻説法』。春の大子にて

 

2005年04月21日

野狐禅和尚の辻説法『丈夫面上に紅粉をつく』 №734

この句を何故覚えているかは定かではないが、『男の顔に紅を差す』ということ転じて『いらぬ細工をすれば余計に見苦しくなる』という意味だろう。
先日、東京原宿の喫茶店で、辻説法をしていたところ、“スカート”をはいた20才程の“男の子?”が私の前に坐り、熱心に私を見ている。決して話を聞いているのではないようだった。そこで、「何か聞きたいのか」と訊ねると「その“前掛け”みたいな物はどこで買った?」と聞かれ、「どれ?」というと、どうやら『絡子(らくす)らしい。『絡子』っとは、修行僧や住職が普段に掛けて“平式の袈裟(五条袈裟の小さいもの、大袈裟でないもの)”で、禅宗の僧侶が行雲流水の如く所定めずに行脚する際に墨染(すみぞめ)の直綴に墨の手巾(しゅきん)、丸ぐけの帯を締め,白脚絆に草鞋(わらじ)に『絡子(らくす)』を肩に掛けその上に頭陀袋(ずだぶくろ)を吊している“それ”だ。「これか?」と訊ねると「そう、それ、どこで売っている?」と。「何だ、欲しいのか」という「カッコイイ」という。「それじゃ、寺に来いよ。一つやるぞ」というと、「今、売ってくれないか」ときた。何やら“フリマ”の店主の気分になった。そこで、「いくら出せる」というと、「触らしてくれ」となり、「300円で買う」と言われた。流石に“まいった”。そこで、「ところで、何でスカートをはいているんだ」、「衣と取り替えようか」と持ちかけた。すると「そんなボロじゃ、嫌だ」ときた。「良いじゃないか、俺のもスカートみたいなもんだ」と立ち上がると、「結構良いかも」だそうだ。こんなやり取りのなかで、フッと思い出したのが『丈夫面上に紅粉をつく』、人の振り観て我が振り直すか・・・。原宿では“雲水衣”もファッションにしかならないのかな?まあ、しかしだ、後で聞いたが、彼の姿は少々古いが“裏原宿ファッション”らしい、略して“ウラハラ族”と聞いたが、私には『裏腹(うらはら)』としか聞こえなかった。
何事も、要らぬ細工は見苦しい。今度の辻説法は“ホリエ門ルック”とするかな。
慧智(050421)

 

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