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2005年5月

野狐禅和尚の辻説法『活人禅会を終えて』 №765

野狐禅和尚の辻説法『葵花向日』 №764

野狐禅和尚の辻説法『癌センターの待合室で・・・』 №763

野狐禅和尚の辻説法『“仏”とは何ですか、という問いに応えて』 №762

野狐禅和尚の辻説法『至人無夢』 №761

野狐禅和尚の辻説法『神道と仏道』 №760

野狐禅和尚の辻説法『只管坐る』 №759

野狐禅和尚の辻説法『表裏一体』 №758


野狐禅和尚の辻説法『アリストテレスと禅』 №757

野狐禅和尚の辻説法『覚宗教とは』 №756

野狐禅和尚の辻説法『質問:どのように勉強した?』 №755

野狐禅和尚の辻説法『無象無私春入律』 №754

野狐禅和尚の辻説法『教育について』 №753

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常』 №752

野狐禅和尚の辻説法『一心不乱に坐る』 №751

野狐禅和尚の辻説法『不思議なこと』 №750


野狐禅和尚の辻説法『一苦一楽 一疑一信』 №749

野狐禅和尚の辻説法『“無心”を感じさせる』 №748

野狐禅和尚の辻説法『理事=事理=止揚の姿』 №747

野狐禅和尚の辻説法『先入観は“愚行の源”』 №746

野狐禅和尚の辻説法『“利行”という生き方』 №745

野狐禅和尚の辻説法『謙譲の美徳は死語ですか?』 №744

野狐禅和尚の辻説法『まあ、お茶でも一服』 №743

野狐禅和尚の辻説法『大器晩成』 №742

 

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2005年05月09日

野狐禅和尚の辻説法『一苦一楽 一疑一信』 №749

 菜根譚などに代表される徳に敬意が払われていた時代の中国や我が国の『処世訓(≒道徳体系)』では、苦しみがあって楽があり、疑があって信があると人間の“あるべき姿”を説いていた。例えば、『一苦一楽相磨練、練極而成福者、其福始久。一疑一信相参勘、勘極而成知者、其知始真』、「人間は苦楽により磨かれ、磨き切って幸せとなった幸せは長く続くし、時に疑い、時に信じることで磨かれた勘は智慧へと昇華する」というようなものがある。正に“俗”における処世術、教訓として得心が行く者が多い示唆であろう。
 しかし、禅の発想では、それを更に一歩進め、“苦楽一如”と表現されるように、道徳の“それ”を『百尺竿頭』と位置付け、そこから更に歩を進めた地点の境涯の修得こそ悟りの境地としている。当然、我ら活人禅でも同じで、苦楽は不可分・不可同であり、『苦楽一如 疑信一如』、苦楽も疑信も紙の裏表と捉えうることとし、苦と楽、疑と信という相対概念を排した“一如”の体得を目指し、更に更に歩を進めようとしている。では、“そこ”はどんな世界か。それは言わずと知れた『不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏』と言うしかない。
 話は変わるが、最近、各マスコミは“不幸な大事故”をドラマチックに伝えようと、相も変らずの“魔女狩りとリンチ”に終始し、その対象となった愚か者は“その”挑発に乗って“世論”と称される無智な群集の声の一翼を担っている。冷静に合理的に考えれば、事故の日に宴会をする・しないは、“当事者”の価値感の問題で、我々が当事者の話も知らずにマスコミのシナリオに乗って、その善し悪しに関与すするのは如何なものだろうか。我々が大切にしなければならないのは、他人への軽率な糾弾ではなく、知る限りの事実を踏まえ、そこから“私”なら“どう”するかを自身に問い、“私の心”を知り、何かを学び、それを教訓として自分を成長させることではないだろうか。“それ”を『常識』という個人の勝手なローカルルール(価値感)を、公共性を謳い文句にするマスモミの挑発に乗ってインタビューに子供のように感情向き出しで応じているのは“目糞、鼻糞を笑う”が如きの軽薄さである。そして、原因探求も済んでいなければ、裁判も始まらない事件に対し、その関係者を感情だけでリンチ断罪するような風評をつくるなど、大人のすることではない。そもそも、他人の不幸をこれ見よがしに題材として視聴率を上げようとするマスコミの下衆な態度は、“宴会やゴルフ”に参加したと言われる者と大差ないだろう。
 それが“不幸な出来事であれ幸福な出来事であれ”、起きてしまった事故は『事実』であり、それを変えることはできない。問題は、それに対して当事者・関係者が“どのように”受け止め、行動するか、傍観者である非当事者は“それ”から何を学び、如何なる教訓をつくるかである。そうでなければ、“亡くなられたり怪我をされた直接の被害者”の不幸な経験は“無駄”になってしまう。
電車事故の少し前にあった“ホリエモン騒動”はスッカリ影を潜めているが、『過去は確定・未来は可能性』と言われ、“今・此処”こそが現実であるように、世は“諸行無常”、全てが“今・此処”という瞬間以外は全て“変数”であり、それらを我関せずの“他人事”として傍観するのではなく、己以外、森羅万象の全てを師として“自分事”として受け入れ、それに学び・昇華し・教訓として凝縮し、一瞬先の思考・行動に反映することが大事だろう。
 考えてみて欲しい。この世の中は、誰でも例外なく、一寸先には加害者となることも被害者となることもありえるのだ。その時、“如何に対応するか”が“その人”の価値を決定するということを。
 『覆水盆に返らず・・』、『死んだ子の年を数える・・』といった過去への囚われ、己の信じる常識への過度の拘りは、我々の悲しみや苦しみを助長強化するだけであり、先の事件の犠牲者の平成化を妨害したり、置き石事件や被疑者となっている会社の社員に対する暴力事件など第二次第三次の事故を引き起こすのだ。
社会でも企業でも、平時においては『公私混同するな・感情を仕事場に持ち込むな』と叫びつつ、有事となれば『公私混同を要求し、“動機付け”と証して仕事場に感情を持ち込む』ように圧力がかけられる。活人禅会のメンバーなら理解できるだろうが、『公私一如』であり、平時有事も一如であり、目の前にある『出来る事+すべき事』に自分に恥じることの無い方法で全力を尽くせば良いのだ。
ここで、もう一つ考えて欲しい。最近の“お騒がせ”を子供達にどのように説明し教訓とさせるか。それが我々“大人”の使命ではないだろうか。ところで、皆さん、振り返ってください。身近な子供達には今回の出来事を“どのように”解説し教育の素材にしていましたか?
慧智(050509)
●お願い:体調が不安定なので“辻説法”が間欠するかもしれませんが、私は生き抜きますますので、時々は覗いてください。

 

2005年05月08日

野狐禅和尚の辻説法『“無心”を感じさせる』 №748

 坐禅をしていてもなかなか“無心”になれないんです、という参禅者がいた。
「本当に“無心”になりたいのか?」と聞くと「本当です」と返ってきた。そこで、「少し辛いぞ、我慢できるか?」と聞き返すと「耐えます」としっかりした返答があったので、私は、参禅者の鳩尾を思い切り打った。考えてみれば空手・柔道・合気道それと書道を合わせて12段の小衲の当身はかなり効き目があったらしく、暫らく声も出ずに蹲っていた。暫らくすると、「何をするだ!」と烈火のごとく怒った。そこで、「無心を感じられたろ」と言うと、「冗談じゃない、痛いだけだ」と。すかさず、「それで良い、それが無心だ」と言ったが、禅堂には二度と現れない。
未知数Nを知りたければ(N-1)を知ることだ。(N-1)は(無心-痛さ)なのだが、解ったかな~。“痛い”という事しか感じない一瞬こそ“無心”なのだが・・・。
慧智(050508)

 

2005年05月07日

野狐禅和尚の辻説法『理事=事理=止揚の姿』 №747

 今日、午後遅くからハンデのある子供達を支援する団体の会合に呼ばれ、“理事”を依頼された。そこで就任に際し、“理事”の使命について話させてもらい、“その”認識で良ければ引き受けると話した。そこで気付いた事は『理事』という役割が寄附行為に示された法律上の権利と義務については衆智なようだが、『理事』という呼称が本来持つ使命について知らない人が多いのには驚いた。
 そもそも“理事”とは、仏教用語であり、“理”+“事”=理事または事理である。“理”とは『万法帰一』の論理で一元論を代表する『絶対的本質』のこと。“事”は表面的現象で相対的・差別的現象のこと。つまり、“理事”とは、二元論、一元論を止揚した“無”を司る役割で、表面的な損得、良悪、道徳的な善悪などを超越して、真理を探究する道の目的目標を失わせないようにする役割と考える事が出来る。正に“禅”の実践者なのである。つまり、理事会は、判断機関ではなく決断機関であり、団体の代表である理事長の執行を監視して助言する役割があり、それを委託することは“目的達成”の番人になることでイエスマンでは絶対にありえないし、執行役である理事長の部下ではないのである。
 まあ、平均年齢60歳を超える“大人”に対してお話しするようなことではないとは思いつつ、ついつい強い言葉になってしまい、反省している。
 それにつけても、日本人が日本語を知らないという現実は怖い。漢字は表意文字であり、単語は固有の意味を伝承してきている。そして、熟語、文節、文脈を構成して“意思・意図・意味”を伝えている。つまり、文中、話中の登場するキーワードの一つでも意味を取り違えれば、話し手・送り手と聞き手・受け手の間には大きな認識のズレが生じるのである。「“こう”言ったつもり」、「“そう”聞いたつもり」が大事件を生むこともある。
 日本語は美しいし、意思疎通には素晴らしい潜在力を持つ言葉。大事にしたいものである。
慧智(050507)

 

2005年05月05日

野狐禅和尚の辻説法『先入観は“愚行の源”』 №746

 『無心帰大道』、無心なれば大道に帰す。無心とは、先入観の無い心を言うし、禅はそれを平常心という。つまり、平常心とは一切の先入観を持たない心の状態で、心が自由自在に動き、大道(真理)に統合された、父母未生以前の在り方そのもので、一切の創造の源となる心です。そして、それが“本来の心”であり隻手音声を聞くことが出来る唯一の心です。
 しかし、人間の神経系には、過去の成功事例をパターン化して認識し、高速で情報処理できるような単純化システムがあり、“先入観”を持つことにより表面的には“便利”に生きて行ける部分があるのは事実です。つまり、赤信号は止まれ、車は左・人は右。雨の日には傘を差す。睡眠時間は8時間必要。魚や野菜は買うものだ、というようなことです。つまり、反射に神経に入れて良いほど単純な情報処理の結果としての行動を、一々“何故か”と考えていたのでは時間がいくらあっても足りないというものでしょう。しかし、同時に、“それ”を思い込んでいれば、パターンから外れた現象が有る以上、事故に見舞われることもあるし、心気症になる確率は高まるし、発見のチャンスを逃すこともあるだろう。
 さて、あなたは本当の自由を取りますか?目先の便利を取りますか?このような聞き方をすれば、大半の方は「自由」を選ぶと言うでしょう。しかし、その質問と回答にも“先入観”が作用しています。解りますか?ヒントは“言葉”です。次に、一般に言われている“先入観と固定観念”の意味の違いを意識して使っていますか?それとも無意識ですか?先入観ですか?。その答えのヒントは“する前”、“した後”、経験の結果か、体験の結果という違いにありますが解りますか?
『禅』は、“二元論”という目先の便利である先入観を捨て、『万法帰一』である本当に自由な“一元論”を説き、先入観や固定観念などの“無縄自縛”を“拘り”、“囚われ”、“偏り”と呼び、過去の経験に拘り、常識にという幻想に囚われ、理か情とい二項対立の片方に偏るなどが“苦”の源泉と説いています。
 我らが精進している『活人禅』では、“苦”は“愚”の結果ではあるが、“楽”への過程と解いています。ですから、『一切皆苦』は同時に『一切皆楽』であり、それを『一切皆空』と説いています。つまり、『諸行無常』の此の世に先入観は危険極まり無い無用の長物なのです。現代において必要なのは、臨機応変の行動を支える“自由な心”であり、一切の先入観を捨て去った心なのです。なお、先入観は、別名『選択肢の制限』と言われてます。それは何故だと思いますか?言葉を使わずに思いを集中して坐って観じてみましょう。きっと気付くでしょう。
慧智(050505)

 

野狐禅和尚の辻説法『“利行”という生き方』 №745

 “利行”とは、道元禅師がしばしば使われている『利を生み出す行為』のことです。道元さんは、“利行”を“一法”と述べ、大乗仏教の“自利と利他は一如”と同じです。
「愚人(ぐにん)謂(おもわ)くは“利侘(りた)”を先とせば、自(おのずか)らが利省(はぶか)れぬべしと、爾(しか)には非ざるなり。“利行(りぎょう)は一法”なり、普(あま)ねく自侘(じた)を利するなり」と修証義にあります。
意味は、「愚か者は、相手を利すれば、自分は損をするのではないかと考える、と普通の人は“そのように”考えるが、それは間違いで、本物の“利”は相対的なものではなく、絶対的であるから“利”は全ての人々に向く」と言い切っている。
 このことは経験した人間ではないと解らないだろうが、エジソンやベルの発明を想像してみると何とは無く追体験できるのではないだろうか。彼らの発明や発見は自分の利益を目標にしたのではなく、結果として莫大な利を得て、それを社会へと循環させたのである。勿論、莫大な特許料を得て“大儲け”したのは事実であろう。それで得た金が、社会の解釈から有意義に使われようと、仮に浪費に使われようと、結果的には社会を循環し、不特定多数の者の財布を経由したし、一つの大きな発明が産業の勃興に関わり、不特定多数の人の利となったことは事実なのだ。そこで、忘れてはならないのは“利”とは何か、ということである。前出したように我々活人禅では『自利利他一如』が説かれている。その“利”は、『無心からの創造の結果』であり、自分を利するとか、他人を利するとかを超えて、不特定多数への貢献意欲に基ずく行為です。それが“菩薩行”です。お解りですよねKさん。「したいこと」とは、『不特定多数の為に“したいこと”』というのが、真意で、“自分勝手な思い”ではないのです。しかし、それを理解出来る方は少ないのです。もし理解出来ていれば、『したいこと』=『すべきこと』で、必ず『できること』になるので、大願は成就するのです。小願は、自分のための小さな願いで、成就するのは難しいのです。しかし、大願は小願を含んで成就してしまうのです。ですから利行一法、自利利他一如なんです。
慧智(050505)

 

2005年05月03日

野狐禅和尚の辻説法『謙譲の美徳は死語ですか?』 №744

 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害は其の身に至る。己を責め、他人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」は、戦国時代を締め括った徳川家康の遺訓です。そして、天下取りの時間に大きな差が出た戦国3武将には、彼らを評した連句があり、それぞれに感ずるところがあるでしょう。
信長を評して「鳴かぬなら 殺してしまえ 不如帰」
秀吉を評して「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう 不如帰」
家康を評して「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰」
 自己肯定を望む多くの人は、自分と似ているように感じる武将を贔屓目に観るようです。
あなたは、3人に内で誰を贔屓にしますか?
 さて、家康の遺訓を眺めましょう。彼は、幼少の頃から“人質”として肉親と離れた“不自由”な生活経験があり、また、戦国の世を最も長く経験し、中年になって“天下”を取り300年の徳川時代の祖となり、その経験から子孫に伝えたい事を言葉にしたのでしょう、かなりの重みが感じられます。遺訓のポイントは『焦らず、足るを知り、無事を最良として、他責的にならず、一歩を譲って、淡々と生きる』ということでしょう。信長も秀吉も家康も、茶道を通じて『禅』と交わっことは衆智ですが、禅者らしいのは家康のような気がします。
 競争に勝つ事が“美しい”ですか?負けることは“醜い”ですか?“勝ち負け”は所詮は相対的で、勝っても負けても、競い争うことでの弊害は内包しています。一方、一歩を譲る生き方、“謙譲を美徳”として生きる事は、情け無いですか?カッコ悪いですか?
「すべき事」の中に「出来る事」を発見し、淡々と実行してゆく。ふと気付くと“それ”が「したい事」だったという経験はありませんか?「したい事」を優先すると対立が起るが、「すべき事」を優先すると協調が生まれるとは思いませんか?何れにしろ日々精進。「出来る事」を拡大する必要があるでしょう。自分の人生を振り返ってみる、僅かな選択肢しか無かったが、出来る事で、すべき事をして、その成功が、それらを徐々に“したい事”に変身させてきたようにも思います。勿論、如何なることも“決め付ける”事はせず、“縁”に随い、条件の範囲内で“工夫”して“川の流れに乗る”ように生きてきたように思います。もし、この命が保てれば、今年の暮れには55歳になります。さてさて、明日は新しい日。一日一生の今日は、明日も目が覚めることを期待して終わらせることにします。
慧智(050502)

 

2005年05月02日

野狐禅和尚の辻説法『まあ、お茶でも一服』 №743

 良寛さんの戒語の一節に「悟り臭い話、学者臭い話し、茶人臭い話、風雅臭い話しは頂けない・・・」と言われるのに得心が行く。利休百首での『守り尽して破るとも離るるとても・・・(守破離)』は忘れられている。互助は競争に、慈悲は執着(愛着)に、楽は苦に、布施は略奪に・・・、表層は深層の流れに逆らうこともある。分別臭いことはナンセンスだが、最近の日本を眺めると“振れ幅”が大きいのは事実。仕事は誰にとっても修行だろうが、何のための修行だろ。諸法に実相あり。大道の先は“大安心”。無対立・無犠牲・自主独立。いつもニコニコ、自他ともに虐めず、一歩を譲りながら協調しながら中庸の道を歩むことが処世術のはず。まあ、ジタバタせずにボチボチと歩くこと。
 さあ、お茶でも飲もう。寝る時間が無いほどバタバタしている病持ちは、今日もバタバタ。反省!
慧智(050501)

 

2005年05月01日

野狐禅和尚の辻説法『大器晩成』 №742

 Xさん、近況メール有難う。連休は、迷いを吹っ切るために坐禅三昧のXさんに贈ります。以下は、2年前の7月に『超訳・菜根譚・前集222項』で書いたものを再掲し、言葉を加えています。
■前集222項 原文
桃李雖艶、何如松蒼栢翠之堅貞。
梨杏雖甘、何如橙黄橘緑之馨冽。
信乎、濃夭不及淡久、早秀不如晩成也。
■読み下し
桃李(とうり)は艶(えん)なりと雖(いえど)も、何(なん)ぞ松蒼栢翠(しょうそうはくすい)の堅貞(けんてい)なるに如(し)かん。
梨杏(りきょう)は甘(あま)しと雖(いえど)も、何(なん)ぞ橙黄橘緑(とうおうきつりょく)の馨冽(けいれつ)なるに如(し)かん。
信(まこと)なるかな、濃夭(のうよう)は淡久(たんきゅう)に及(およ)ばず、早秀(そうしゅう)は晩成(ばんせい)するに如(し)かざるなり。
■超訳
桃やスモモの花は艶(あで)やかだが、松や柏の常緑の強さには及ばない。
梨やアンズの実は美味しいが、黄色のダイダイや緑のミカンの芳香には及ばない。
何はともあれ、艶やかでない物は、さっぱりして長続きするものには及ばないし、早熟は晩成に及ばないのは事実だ。
つまり、世間の評判がよい早熟で表面的な知識や技術を実力と勘違いした頭脳派は、たっぷりと時間がかかった実質的で内容の充実した“経験者”には及ばないということ。
言い換えれば、現代は、早熟・軽薄短小が持て囃されているが、晩成・重厚長大の素晴らしさこそ本物だろう。他人に何と言われようと、コツコツと地道な人生を歩むことが“本者”の人間の道だろう。仕事か、会社か、帰属を問う“自利”も良し、不特定多数の最大幸福を支援する“利他”も良し。真の自利と利他は、不可分不可同。過去は囚われないこと、未来に拘らないこと。“今”を無心に生きてください。自分の決断を信じ切ってください。何処に居て、何をしていようと、貴方は貴方なんです。貴方は貴方を磨き上げるんです。それが利他に通じるのです。“未知数”は外にあるのではなく内にあることを忘れずに。そして“外”も“内”も、貴方を含む宇宙の従属変数(これを“縁”といいます)で、世の中には相互浸透(因果といっても良い)から逃れた“独立変数”などは無い、ということも忘れずに。
なお、『大器晩成』という言葉は『老子41章』に出てきます。時間があれば『老子』も一読されると良いでしょう。
慧智(050430)

 

 

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