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2005年6月

野狐禅和尚の辻説法『常行一直心』 №793

野狐禅和尚の辻説法『仏性と法性』 №792

野狐禅和尚の辻説法『“主”として生きる』 №791

野狐禅和尚の辻説法『身土不二(しんどふじ)』 №790

野狐禅和尚の辻説法『把手共行(はしゅきょうこう)』 №789

野狐禅和尚の辻説法『尋常茶飯(じんじょう・の・さはん)』 №788

野狐禅和尚の辻説法『別無工夫(べつ・に・くふう・なし)』 №787

野狐禅和尚の辻説法『驢年(ろねん)』 №786


野狐禅和尚の辻説法『賊知賊』 №785

野狐禅和尚の辻説法『禅と神道』 №784

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №783

野狐禅和尚の辻説法『無心と如何に、と突然、聞かれて』 №782

野狐禅和尚の辻説法『ストレスと心』 №781

野狐禅和尚の辻説法『愚直なほどに素直』 №780

野狐禅和尚の“経済”説法『経国済民そして分相応』 №779

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常・無常迅速』 №778


野狐禅和尚の辻説法『見掛けと実体』 №777

野狐禅和尚の辻説法『人生には“旬”、一年にも“旬”、一日にも“旬”』 №776

野狐禅和尚の辻説法『見返りを求めず』 №775

野狐禅和尚の辻説法『葬儀そして埋葬を思う』 №774

野狐禅和尚の辻説法『梅雨入りしました』 №773

野狐禅和尚の辻説法『夜坐は目をカッチリと見開け』 №772

野狐禅和尚の辻説法『戒+律=???』 №771

野狐禅和尚の辻説法『自画自賛』 №770


野狐禅和尚の辻説法『悟は、理と情が止揚された状態』 №769

野狐禅和尚の辻説法『一切の現象に囚われない≒安住しない≒自由≒無心即心』 №768

野狐禅和尚の辻説法『人生の意義』 №767

野狐禅和尚の辻説法『辻説法の展示会』 №766


 

2005年06月30日

野狐禅和尚の辻説法『常行一直心』 №793

 「常に一直進(じきしん)を行(ぎょう)ず」と読み、六祖壇経の言葉です。意味は読んで字の如し。“どんな事でもどんな時でも直心(直向な心)で励め”という意味です。流す、適当にやる、そこそこにする、ボチボチでんな・・・・日常には手抜きを肯定するような言葉が多い。また、『過ぎたるは及ばざるが如し』という表現もある。さて、どういう意味だろう。我々の行為は何事にも“目的”がある。その目的が大きければ、通過点に“目標”を置いて、目的が振れないようにする。つまり、目標は目的ではないし、目的は目標ではない。表題の『常行一直心』は、“常行”とある以上“目的”達成の心を表わしている。
 先日、受験を前にした高校3年生に『受験の心構え』について話した。その時のこと、一人の生徒が「先生、人生の目的なんて解らない。それより大学受験をどうすれば突破できるかを話して欲しい」と言われた。そこで「君は大学に入る事が目的なの?」と聞くと、「勿論」と返事が返ってきた。「では大学で何をするの?」というと「入ってから考えるんだよな~」と他の生徒に同意を求めた。「では、受験する大学や学部はどうやって決めたの?」と聞くと、「偏差値」という返事。・・・・。正直、彼の論理は全く理解できなかった。しかし、彼の入試に対する必死さは理解できた。問題は“そこ”にある。簡単に言えば「入れそうな大学で一番のブランド校」に入りたいので、自分の得意を見つめ、将来を見つめ、将来の仕事に必要な知識や人間関係を獲得する為に学部や学校を選んでいないことだ。正直、受験だけを突破するのは簡単である。しかし、“簡単さ”が解るには“その学部”に精通しなければならない。精通する為には“その学部”が好きでなければならない。好きであれば“肝”は見えてくる。肝が見えれば、出題の傾向は自ずから解る。つまり、学部で必要な基礎の基礎が出題されるのが“入学者選考試験”なのだ。つまり、目的から大目標、中目標、小目標と落とし込んだ結果で学部や大学を選ぶことが、入試を突破するために最も合理的なのである。翻って言えば、「自分はこんな仕事をして、こんな人生を送る」と聞ける事が、合格の肝なのだ、と教えた。ところが、理解できないようであった。海外へでようとしなければパスポートは要らないし、車を運転しなければ運転免許は要らない。何とも不思議な生徒であった。その後、校長と懇談すると「今の生徒は皆、そんなものですね」と。「我々も、人生なんと教えられないし、それは自分で考えることで学校の役割だとは思いませんね」と。疲れた。何かが狂っている。そう、子供達に“大志”が無い。『大志を抱いて大志に拘らず、囚われず、常行一直心、縁に随え』と祖父に叩き込まれた。今更ながら、在り難さを実感した。今度は私が偉大な“祖父”になろ。それしか考えられなかった。
慧智(050630)

 

2005年06月29日

野狐禅和尚の辻説法『仏性と法性』 №792

 『長者長法身 短者短法身』という言葉を知っていますか?これは意外と知られていませんが、仏教の根本教義を知るうえで大事な言葉です。元来、仏教の宇宙観では、「山川草木悉有仏性と言って、全ての現に仏性が宿り、物我一如ではあるが、人間に宿る宇宙原理を仏性、人間以外に宿る宇宙原理を法性といい、全ての存在・現象は、“それ自身、そのまま”で円満と考えています。この根本教義、真理から、背の高い者は背の高いままで立派な仏であり、低い者は低いままで立派な仏という意味から『長者長法身 短者短法身』という表現が使われます。それを解釈すれば「不可分不可同」であり、現象には例外なく仏性法性が宿るのだから、全ては“一の如し”であり、男女、貴賎、老若・・・・を差別区別せずに、それぞれの“個性”を歪めることなく“活かす”ことが大事であると説いています。竹は竹で立派、松は松で立派・・・。つまり森羅万象は“あるがまま”である事が“個性的”であり、本来本性、仏性法性を活かしているのが完成されている状態として尊び、己を分別し、己以外を分別して他の個性を真似るような自己否定を問題視します。ですから、どんな状態でも、それが自然≒仏性であるのが根本ですか、自己否定をする人も、その状態が織り込まれた個性なので、それはそれで立派ということになります。
 つまり、人間が“己を知る”という場合、その根本は“仏性”であり“無個性”なのですが、仏性の見え方(報身)、機能作用(化身)、それらが統合された姿(如)を法身により『個性』があると考えています。
 そして、無個性(無差別)である本質を知って、現象している個性を活かし、他を活かしている者を『活人』と呼んでいます。ですから活人の目で世の中を観れば、好嫌、賢愚、損得、美醜、強弱、男女・・・・の差別は全く無いのです。ですから、活人の修行レベルを自己診断するには、嘗て“我”ゆえに好きだ嫌いだ、怖いだ可愛いだと差別していたものが薄らぎ、無くなっているかをチェックすることです。お解りかな?KKさん。
慧智(050628)

 

2005年06月28日

野狐禅和尚の辻説法『“主”として生きる』 №791

 “主”という文字は、燭台の上に置かれた灯火を描いた象形文字。文字をジット見ていると、土や台の上の平皿が炎を上げる様子とも思える。今日の一日は東奔西走、気温は30度超え、湿度は80%であった。今日は公立学校の教員・管理職に“経営と管理”、教育の心についてお話をする予定。その他重要な会見などがいくつもあり、昨夜からメールの返信、原稿書き、今日の講演のレジメ作り、**法人の申請書類作成、**法人の事業説明書・・・と寝る時間は無かった。『忙』という文字は“心を亡くす”という事態で、『主』となっていない事の証、と早朝のおつとめの後、坐禅をしていると蝋燭の灯(火)が『随所作主 立処皆真』、随所に主となれば、りっしょ、皆、真なり」という臨済録の示衆にある偈が心を過ぎった。臨済大和尚は私の中では生きているし、私の外でも生きている。そして『生死一如』を示してくれている。和尚の『主』の解釈は、主体性があるとか、悟っているとか、そんな訳のわからない意味で使っているのでは『自然の其処に在る』と意味だろう。禅の心は“計らいの心を捨てる事”、今・此処で全ての事実を事実として全面的に受け止める“野の草”のような在り方を真実の生き方として捕らえている。その心が体に表れれば“無事”、心は“平常”。臨済和尚の心を解釈した大応国師は「立処皆真なれば、方に随って主となる」というのがある。意味は、真(理)は、固定されたものではなく縁に随い変化するので、今・此処の一瞬一瞬が真実の場であり、場が真実」といことだろう。
それを受けて、小衲が思うに「全力で生き切っている今・此処こそ真理の具現であり、そこ、それは自ずから然るべくある」。どんな処でもどんな状態でも、それらをドンと受け止め自然体で生きているのが“主”なのだ。主となってい生きるには難行苦行など不要。今・此処を無批判に受け止めて、気張らずに全力を出し切って生きるだけのこと。
 そろそろ外出時間なので筆を置くが、今日も『日々是好日、随所作主 立処皆真、無事是貴人、松樹千年翠』と行こう。
慧智(050628)

 

2005年06月26日

野狐禅和尚の辻説法『身土不二(しんどふじ)』 №790

 朝は粥、昼は一汁一菜、夜は雑炊。これが修行僧の日常食。その上、全ては自給自足、とは言っても托鉢で米などは頂いてくる。自給自足も、畑で作る以外に寺周辺の山野を歩き野草を摘み、根を掘ってくる。正に「菜根譚」そのもの。Roots & Leaves Story、Equal Life & Nature. 最近の表現ではスローライフだろう。その心が、身土不二。物我一如の心である。「不許葷辛酒肉入山門」、くんしん・しゅにく・さんもん・に・いる・を・ゆるさず、とは言え、草木も生命であることにかわりはない。山川草木悉有仏性である。つまり、命は、他の命を殺生してしか生きられないという宿命がある。それ故に、最低限を守り、感謝と謝罪の気持ちを忘れない故、食事の前後には“偈”を唱える。
 ファーストフードとスローライフが対峙するなら、スローライフはファーストライフ(生き急ぎ)と対峙しているのだろう。
禅の生き方は『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』を“板”に書いて、毎日毎日、心に刻み込む。「生死、即ち日常は常ならず、過去も無く、未来も無く、一瞬一瞬が連続するのが日常ゆえ、一瞬たりとも無駄にすることなく、時の流れに遅れをとるな」というニュアンスだ。即ち、「急ぐなよ、でも遅れるな、ゆっくりな」ということか、“自然体”、自ずから然るべく在れ、ということ。スローライフやスローフーズが、ノンビリ生きろ、ユックリ作れという今風とは些か違いがあるだろう。禅寺の修行僧は走り、動中の静を知る。そして黙して坐り、静中の動を知る。そして何時しか『静動一如』、『心身一如』、『物我一如』、となる。『身土不二』、重みのある表現である。
食糧需給率が50%を下回り、起業創業して淡々と企業活動をしてゆくことが軽視され、M&Aというハゲタカ流が世のトレンドだが、一方で、それに嫌気がさした団塊世代が大量に退職する時期が到来しはじめ、スローライフが農業、林業、漁業、ノンビリ旅行を連想させるらしく、退職後のセカンダリーライフでは“スローライフ”を目指しているようだが、少々軽薄ではないか、と感じている。機会があれば、第二の人生、後悔することにない半生とするためにも、一度は立ち止まり、心の声をしっかりと聞いてから動いても遅くは無いだろう。それがファーストからスローへの転換なのではないだろうか。それには一時、『坐禅と作務』に励むことが大切だろう。
慧智(050626)

 

野狐禅和尚の辻説法『把手共行(はしゅきょうこう)』 №789

 この禅語は、無門関第一則『趙宗狗子』に対する無門和尚の評語を出典とするとあって、余りにも有名であり、しばしば表現を替えて多くの公案、書物に引用されている。
『賊知賊』の項で書いたと思うが、“賊”同士は、その究極の目的を無言で共有し、釈尊が、達磨が、その目で見て、その耳で聞き、その全身で感じたものと同じ心象風景を得て、共に、“無”の体得を目指して大道を歩む。そこには切磋琢磨はあれど、競争など無い。あるのは“己という幻想”との戦い。二項対立、二律背反という幻想にみが敵となる。「犬にも仏性があるか」、“無”と応えようが、“有”と応えようが、表現された言葉に意味は無い。“有無”を超えた本来の面目世界、言葉が生まれた20万年前以前、AはAではなくAと呼ばれ出した時を超えて観れば解る世界を体得する。更には行住坐臥と大自然を分離してしまう以前、父母未生以前の本来の面目と一体化し、不可分不可同を知り、無対立・無犠牲・自主独立を知り、我執の幻想からの脱却を体得します。その時、何を観るのか。正に“把手共行”の世界なのである。
去ること35年。学費を稼ぐために“フーバー潜水”で水中写真のアルバイトをしていた時、館山沖で無心に仕事をした時、過去も未来も、水中も陸上も、そして“己”も、全てが一つに溶け込んでいるという体験をした。酸欠でも、常軌を逸していた訳でもなく、たぶん、己が己という生命を意識する以前とでもいようか、生命以前の“記憶”が蘇ったような気になったことがあった。それは幻想では無い。厳しい訓練の果てに潜水士免許(厚生労働省の認定資格)、港湾潜水技士資格(社:日本潜水協会認定)という資格を得ていたし、すべき仕事も全て完了させていた。有る意味で“不思議”な体験だったが、その時、『把手共行』という言葉が脳裏に浮び、言葉と自然が体に染み込み、共に仕事をしていたバディと己の区別が消え失せ一体化したのを体験した。
最近、スキューバ、スクーバという遊びが流行っており、二人を一組をして“一つの命”として海中散歩を楽しむ者達が多いが、時として自己が起る。今日も、知人から知人がダイビング中の事故で肺を潰してしまったことを聞いた。仕事なら止むを得ないが“遊び”でも事故とは残念。因果一如。善因善果、悪因悪果。安全が安全を生む。バディが一つの心、一つの体とならずに危険を遊ぶなど考えられない。
夏、それは心身に油断が生まれる時期。遊びも結構だが、“把手共行”を感じられるような“修行”も必要だろう。もう直ぐ“雨安居、夏安居”、とことん坐る。公案と心身を一体化する、禅宗では臘八大接心に次ぐチャレンジャブルな時期となるが、今年はどのくらいの雲水が悟るのだろう。そんな思いを巡らしながら、山梨での山作務から戻った。
慧智(050626)

 

2005年06月25日

野狐禅和尚の辻説法『尋常茶飯(じんじょう・の・さはん)』 №788

 僧堂10年は中途半端な修行歴だが、坐禅と公案の日々は“禅脳思考”という貧弱な脳を完全に使い切る訓練となった。しばしば、人間は脳の能力の20%以内しか使っていないと言われる。ところが、10年程度の僧堂修業をした禅坊主は、私の感覚で、一般の人の脳の活用量の2倍は使っていると思える。その原因というか結果というかは別にして『公案』は、賢愚一如に成り切らなければ透関できない。私は“それ”を禅脳思考と名付けている。水平思考と垂直思考を止揚した空間思考とでも言うものだ。一を知って十を知り百に活かせると言ってもいいだろう。常識人の多くが習慣的に行なっている垂直思考、発想が豊かとか創造力があると言われるアントレプレナー型の思考法である水平思考、そしてそれら二次元思考を超える三次元思考である立体思考。禅脳思考はそれに時間を加えて乗り越えてしまう四次元思考とでも言えるだろう。それを一言で表現しているのが、表題の『尋常茶飯』という言葉で、誰にでもある日常の事実に接して瞬間的に事実の背後にある法則性や真理を見抜き、それを一転語という『言中有響(ごんちゅう・に・ひびき・あり)』の短く単純だが言葉の中に言葉以外の妙意を持たせた短文(教訓のような表現)に表わし、そして、即其れに成り切る。正に達磨大和尚の二入四行の実践が“自然”に出来るようになっている。繰り返しになるが、一を知って百を知り千に活かすのは“朝飯前”という事。ローコスト・ハイパフォーマンスとは正に“禅脳思考”の為せる業。もっと今流に言えば、ファミコン並のCPUでスパコンのCPUをも凌ぐ“スーパーソフト『THE ZEN-KNOW』とでも言える。蛇足だが、スパコンにzen-knowソフトが乗っているのような人が“高僧”。
 活人禅会では、その“禅脳思考”を体得して頂いている。一つの事実から真理や法則性を発見し、それを最小限の記憶容量でハードディスクに記憶させ、それに無数のシナップスを付けて、汎用性のある知識ユニットとしてしまい、瞬間にテストランさせ、ニューロンの結束をしてしまうのである。勿論、その方法は“坐禅”と“作務”以外には無い。
 禅は“悟り”である。悟りとは“真理”の実感である。真理とは一切皆空である。一切皆空とは、全ては一瞬の現象であるということ。故に一瞬の現象に150億年を観る事が出来るのである。
■:林檎が落ちるのを見た・・・出会った事実
◆:全ての物体は大に小が引き寄せられる。・・・・その瞬間の閃き(悟り)
●:万有引力、人同士も引き合う。・・・・一転語
★:私は、引き合う力を増幅している人間である。・・・行動
終りに、禅脳思考、別に工夫無し。
以上が、今日、数年ぶりにお尋ね頂いた店舗開発の日本有数のエキスパートとお話している最中に、自分でも気付かぬまま潜在意識がパラレル処理していた内容で、NET禅会が終わると、無意識にキーボードの上を指が走った結果で、これが禅脳思考なのだ。
慧智(050625)

 

2005年06月24日

野狐禅和尚の辻説法『別無工夫(べつ・に・くふう・なし)』 №787

 この語は、『正念工夫、不断相続』を強く要求する“公案”の心構えに一見して反していると思われる夢窓疎石和尚(相国寺開山)の言葉です。禅が一般の方に理解され難いのはこの辺にあるのです。私が方便の混乱として時々使う川柳に「頑張れよ でも無理するな 遅れるな」とか、そのバリエーションで「無理するな でも頑張れよ 遅れるな」、更には「遅れるな でも無理するな 頑張れよ」・・・・、一体どうすれば良いのか。それは簡単。他人の言葉に迷わされるな、という事です。夢窓疎石和尚は「日々工夫せよ しかし特別な工夫は無い」というのは、日常的な行い(修行)をしていれば、公案を頂いたとしても特段の気張りなど要らないはず、と言っているのです。言い換えれば、一日一日を一生として生き切っている者は瞬間瞬間が工夫三昧なので、特別な事など無いということ。正に日常に全てが現象しているということ。『日々是好日』『無事是貴人』『万般存此道』に通じているのです。
 さて、学生であれば中間試験だ、期末試験だと徹夜騒ぎをするし、企業人であれば企画会議だ、予算会議だ、決算会議と、それが恰も特別な事、非日常としてバタバタする。実に嘆かわしい。今日出来る事を明日に延ばさなければ、如何なる日でも“日常”である。特別な工夫など不要。つまり、夢窓疎石和尚の言葉通りである。
 昨日の高校の生徒からメールをもらった。就職試験には“どんな勉強がいるか”という内容。その応えが『別無工夫』である。特別な事は必要ない。一日一日を完全燃焼していれば、特別な事は何も要らない。解ったね。今日という日は一生で一回しかない。
『論語の学而第一』は、
『子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不温、不亦君子乎。』
子(し)曰(のたま)わく、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う、
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)遠方(えんぽう)より来(き)たる有(あ)り、亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(うら)みず、亦(また)君子(くんし)ならずや。
孔子云う、
「学んだことを繰返し実践していると、自然に身について来る。これは何とも嬉しいことだ。
志を同じくする友が遠くから訪ねて来て、一瞬の内に意気投合する。これは何とも楽しいことではないか。人目や成果など気にせず、只管に励む。これは何とも立派なことではないか」と。
学生君、下心など持たずに毎日を全力で生き切れ。それ以外に人生が満ち足りたものにする方法は無い。
慧智(050624)

 

2005年06月23日

野狐禅和尚の辻説法『驢年(ろねん)』 №786

子丑寅・・午未・・犬亥、『驢馬』という歳は干支には無い。そこで、“当てにならない”ということを禅寺では言う。
今日の説法は千葉の高校。50人ばかりの来年は就職という形で社会に巣立つ若者である。しっかりと聞いてくれた者。寝ていた者。様々である。
“社会が必要とする人間とは”について話した。結論は『当てになる人間』。どこの世界でも同じ。改めて話す事でも無い。しかし、現実は、お寒い。今の日本には“当てにならない人間”が多すぎる。当てにすることの良し悪しは別にして、この世界を一人で生きれる者はいない。つまり社会とは“相互補完”なのである。言い換えると、一人一人が請け負う役割がある。請け負う役割は、一人一人違う。それが“個性”なのである。悟りは諸法無我を体得することであるが、『無我』への道の一里塚は『有我』だろう。捨てるべき“我”は“我”の正体を知らなければならない。“我”とは“仮の主”である。つまり、己を認識することであり、それは己自身の強味・弱味を知ることである。そして“強味”を活かして、他に貢献することである。強味を活かして利他に生き切る。それが“無我”である。
高校生には“当てになる人間”であれ、と力説した。何でも良いから得意を発揮して生きろと話した。出来る事から始める。出来る事は成功する。成功は向上心に結びつく。そして更なる成功を産む。振り返ると“それ”が好きなこととなっている。そして、それが“すべき事”と気付く。そして、それを意識せず、当然の事として生きる。“当てになる人間”の完成である。この当たり前の事が解らない者が“驢馬歳生まれ”なのである。
多くの高校生は“好きな事”に魅了されている。好きな事では無いから、出来る事でもしない。それが“ニート”である。我々は38億年を生きて居る。それはDNAという過去帳に記録されている。要らぬ人間なら“今・此処”に居る訳が無い。つまり、人間は“何らか”で“当てになる存在”なのだ。
さて、あなたは“当てになる人間”という自覚があるか。それが『自利利他』である。『自利利他』とは、WIN-WINの関係を言う。勝ち負けの世界の対極である。人間に“勝ち組”や“負け組”は本来は無い。随所で主となる主人公ばかりである。それは、己を知って、己を活かし、己を捨てて、己を生き切ることである。それは“無我”という完成された人間の生き方である。
蛇足だが、金や快楽を追う者は一生涯、金や快楽で苦しむ。金や快楽を追わずに己を追う。それを『回向返照』という。己を追えば、金も快楽も追いて来る。前者を有心、後者を無心という。そして有と無が止揚されると“空”となる。『一切皆空』とはそういうことである。
更に蛇に“お手”をさせよう。今日の高校生の中に36年ほど前の“自分”を観た。それは一人の女生徒だった。眼鏡越しにも目が輝いているのが見えた。彼女は必ず“跳べる”と直感した。拈華微笑である。そして、未だ“旬”の到来がない子供を含めて、周囲のオトナが『啐啄同時』を誤らなければ、必ず“役に立つ”人間として未来を担うだろうとも感じた。我々“オトナ”は彼等彼女等の踏み台とならねば、と感じた。
慧智(050623)

 

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