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2005年6月

野狐禅和尚の辻説法『常行一直心』 №793

野狐禅和尚の辻説法『仏性と法性』 №792

野狐禅和尚の辻説法『“主”として生きる』 №791

野狐禅和尚の辻説法『身土不二(しんどふじ)』 №790

野狐禅和尚の辻説法『把手共行(はしゅきょうこう)』 №789

野狐禅和尚の辻説法『尋常茶飯(じんじょう・の・さはん)』 №788

野狐禅和尚の辻説法『別無工夫(べつ・に・くふう・なし)』 №787

野狐禅和尚の辻説法『驢年(ろねん)』 №786


野狐禅和尚の辻説法『賊知賊』 №785

野狐禅和尚の辻説法『禅と神道』 №784

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №783

野狐禅和尚の辻説法『無心と如何に、と突然、聞かれて』 №782

野狐禅和尚の辻説法『ストレスと心』 №781

野狐禅和尚の辻説法『愚直なほどに素直』 №780

野狐禅和尚の“経済”説法『経国済民そして分相応』 №779

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常・無常迅速』 №778


野狐禅和尚の辻説法『見掛けと実体』 №777

野狐禅和尚の辻説法『人生には“旬”、一年にも“旬”、一日にも“旬”』 №776

野狐禅和尚の辻説法『見返りを求めず』 №775

野狐禅和尚の辻説法『葬儀そして埋葬を思う』 №774

野狐禅和尚の辻説法『梅雨入りしました』 №773

野狐禅和尚の辻説法『夜坐は目をカッチリと見開け』 №772

野狐禅和尚の辻説法『戒+律=???』 №771

野狐禅和尚の辻説法『自画自賛』 №770


野狐禅和尚の辻説法『悟は、理と情が止揚された状態』 №769

野狐禅和尚の辻説法『一切の現象に囚われない≒安住しない≒自由≒無心即心』 №768

野狐禅和尚の辻説法『人生の意義』 №767

野狐禅和尚の辻説法『辻説法の展示会』 №766


 

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野狐禅和尚の辻説法『賊知賊』 №785

 『賊知賊』は、「ぞく・ぞく・を・しる」と読み、碧巌録第八則「翠巌夏末」に由来する禅語。意味は、文字通り。賊の気持ちや手口は賊だからこそ解る、というもの。転じて「悟りの心境は悟った者同士では阿吽の呼吸で解る」、翻って言えば「悟った者の心境は悟りの無い者には解らない」と思って良い。私は、この語(評語)が導かれた“関”には思い出がある。釈尊が蓮の花を掲げて迦葉尊者がニコッとしたのと同じような経験をし、『正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏・・・』全ての公案がドミノ倒しのように連動し始めたことだ。
 無門関第一則『趙州無字』の無門和尚の評唱である『把手共行(はしゅきょうこう)』の境涯も、『賊知賊』も煎じ詰めれば同じだし『以心伝心』も同じ。しかも『類は友を呼ぶ』も類語。朱に交われば朱くなる、というのも類縁である。
活人諸君、師は弟子を選ぶべし。弟子は師を選ぶべし。入った学校を何事も思わず卒業するようでは情けない。言い換えれば、何処の大学に入ろうと、そこを惰性で卒業しようなどと考えず、自分の知的好奇心を満足させられる師を求めて学部も学校も替わるのは“自然(じねん)”だ。解るかなTさん。
慧智(050623)

 

2005年06月22日

野狐禅和尚の辻説法『禅と神道』 №784

 今日、然る会合の前、10年ぶりに元総理大臣のN氏と思い出話しから韓国問題を切っ掛けに『禅と神道』に関する雑談をした。ほんの2-30分のコーヒータイムだったが、彼の神道感は従前の理解に反して、靖国に代表される現在にような国家神道感ではなく、神話や自然感に基づくもので、彼のライフスタイルの一部である『禅』、彼の禅に対する理解と矛盾していない事が解った。また、“憂国の士”としての彼の懸念が『日本人の宗教心の希薄化』であることを聞き、多いに同感を覚えた。なお、“老兵は死なず~”ではあるが、青雲塾で共に語った頃より“マイルド”になった事は否めないが、見方によれば『悟無好嫌』、何ものにも縛られない心を得たのだろう。政治家や経営者の坐禅とは“そういう”ものなのだろう。それに接するに、現役の政治家は辛いだろうな、と思えた。前出の『悟無好嫌』は、信心銘にある言葉で「さとれば、こうお、なし」と読む。意味は“文字通り”。好き嫌などの感情に左右されないのが“悟り”と言っても言いし、悟れば、自ずから好き嫌いという二律背反、二項対立という幻想が消滅して世界が無辺となると思っても良いだろう。全ての現象は流動的で実体は無い。左右があれば二分、天地あ¥があれば二分。天地左右無きは無限なのである。言い換えれば好き嫌いがあれば世界を狭くする、ということ。即ち凡夫で、無ければ聖人ということだ。そして、この凡夫・聖人という区別を忘れた世界こそ、真に自由な“浄土”、此の世そのものが蓮華国で、“死して浄土へ、地獄へ”という方便からも解放され、“魂”などという訳のわからない観念からも解放され、靖国に参るも良し、参らぬも良し、“そこ”という場所には何も無く、全ては心の内にあるのだからとなり、世界は広がるだろうに。小泉君は気の毒だな、と・・・・。そして、多数決や量という“数”の世界が幻想だと思うようになったよ、と。正に“然り”である。最後に「しかし、彼は軽いな」という言葉は重かった。考えてみれば、“宗教心”の無い人間は確かに“軽い”。
慧智(050621)

 

2005年06月21日

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №783

 「しんぎょく・でいちゅう・に・いなり」と読みます。出典は景徳伝燈録です。意味は「本物(者)は、何処に在っても本物」ということです。本物(者)は、寡黙であっても随所で主となるでしょうし、主人公。大道を進むということは、多くを語らず、他人を気にせず、堂々と、そして勝手に輝いていれば良いのです。『今・此処』があなたの舞台。解る人は解るし、それに嫉妬し足を引っ張ろうとする下衆な輩もいる。しかし、『両忘』、その両方を忘れて、大道を歩む。それが大事なんだ。
 F君。心配は理解できるが、“君は本物”、何も気にする事は無い。本者とは、本来の己に忠実に生きている人であり、強味を活かしている人であり、弱味を隠さない人。つまり、分相応を知って淡々と、そしてイキイキと“今与えられている仕事”に全力を出し切って居る人。
F君、『オドオド、キョロキョロ、ギョロギョロ、ベラベラ、ヘラヘラ、モジモジ、カリカリ、ドタバタ、ソワソワ、ヒソヒソ、チョロチョロ、バタバタ、セコセコ、ウジウジ、ピリピリ、ショボショボ・・・』、そんな言葉は、君に似合わない。「サラサラ、グイグイ、グングン、ニコニコ、ノシノシそしてコツコツ」、それが“ピカピカ”の『真玉泥中異』。
大丈夫、大丈夫。心配御無用。私も活人禅者も、皆、君の味方だ。骨は拾ってやるから、信念を貫け。しかし、それに囚われるな、拘るな、偏った考え方はするな。どうしても困ったら、私を悪者にして火の粉を避け、体力気力を再生して出直せば良い。私は癌だが、防弾、防炎・防火・耐水構造だから大丈夫。
 出る釘として頭を打たれ、転職に迷っている青年からの相談を受けて
慧智(050621)

 

2005年06月19日

野狐禅和尚の辻説法『無心と如何に、と突然、聞かれて』 №782

 久しぶり知人が訪ねてきた。玄関先で、行き成り、ぶっきら棒に「“無心”とはどういう心か」と挨拶された。一瞬、怯んだ。「ムーーー」と言っても彼には解らないことは解ってたので、「主観的でも客観的でもない心だ」と返したが・・・「それは何だ」と。
 禅を理解する言葉に『両忘』という表現がある。そもそもの意味は『対立を離れる』ということである。しばしば『主体(能見の我)』と『客体(所見の彼)』は、表裏一体、不可分・不可同。即ち“一如”こそが全てということ。『能所両忘』と書いても良い。坐禅が求める境涯である。己と自然、我と仏、善と悪、好と嫌・・・何でも良いが、一般論として対峙する概念、其れが相互浸透し一体となる心境だ。まあ、それを『父母未生以前の本来の己』というんだが・・・。
 心とは不思議な現象だ、応えに対し更なる相対的質問を投げかねられると、所謂“フォーカッシング”という質疑応答形式から逸脱しているゆえに戸惑う。戸惑うと、考える。これは野狐の宿命。殴ってしまえば良いはず。何故なら、無心は消極的な戸惑いではなく、積極的な戸惑いに近い心境だからである。
 禅の心を言葉と頭で理解しようとする者は、禅を知ろうとしない者より、禅から遠ざかる、というのが私の実感だ。それ故、この手の質問は苦手だ。
 まあ、上がれよ。ところで、どうしたんだ。
 いや、昨日、お前達のHPでやっているネット禅会とやらで坐ったんだ。そうしたら、“宙”に浮くような感じで、気持ちよくて、気が付いたら1時間たっていたんだ。なるほど。その気分こそ“無心”なのかと、どうしても知りたくてな・・。なるほど。時間感覚が無くなるというのは正に“三昧”という状態で起こるんだ。しかし、“宙に浮く”というのは怪しいな。宙に浮くという認識が有る以上、主と客は融合していないだろ。確かに。じゃあ、『無心』とどういう気分なんだ。簡単に言えば、何かに“一心不乱”に打ち込んでいる状態だよ。だから「これが無心だ」と気が付くわけがない。言い換えると「無心」になった、と思っている内は、無心とは縁が無いんだ。ところで、何で無心を知りたくなったんだ。だって、お前、自分で癌を治したろ。まあ。実は・・・・。この先は割愛する。
 何かがあって“無心”を求めるのは、死後に戒名を授かるくらい滑稽。悟って旅立つのであり、旅立って悟れる訳が無い。そもそも皆、例外なく“仏”。自分が“仏”であることに気が付いているか、いないか。三昧、無心何でも良いが、それを体験するのが“悟り”と言っても過言ではない。何れにしろ、何処であれ、何時であれ、一日に一回、一日一生の締め括りに坐るのは素晴らしい。彼も近々、禅会の門無き門を通るだろう。
慧智(050619)

 

2005年06月18日

野狐禅和尚の辻説法『ストレスと心』 №781

 達磨大和尚の6世前に摩拏羅尊者(まどらそんじゃ)の偈に『心隋万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』というものがある。読みは「心は万鏡に随って転じ、転処は実によく幽なり。流れに随って性を認得せば、喜びも無くまた憂いも無し」と私は読む。意味は、ユーストレス状態の心は事実を事実として受け取り臨機応変に動いて喜怒哀楽に左右されずに流れを見失わない。つまり、ディストレス状態の心は拘り囚われ偏りが起こり自由を失い苦しむものと解釈すれば良いだろう。つまり、日常生活における私達の心で大きなマイナス要因はストレスマネージメントの失敗なのだ。
 坐禅は究極のストレスマネージメント手法と言われる場合があるし、ストレス耐性の高い心を実現する唯一の手法と欧米では言われる。まあ、目的・目標・手段を分けて考える文化の国の解釈らしく、我が国の解釈である『坐禅はそれ自身が目的・目標・手段』という理解には及ばないが、現代人の功利主義は満足できるのだろう。モントリオールのストレス研究所時代、ストレス学説の提唱者であるハンス・セリエ博士に何度も尋ねられたのも“この”部分である。彼は“坐禅”はセラピー手法として宗教と分離すれば世界的な方法論となり小林はノーベル症も可能だと言われた。其のたびに「坐禅と禅(宗教)は表裏一体で、人間から皮膚の全てを剥ぎ取りコートとして商品にしろというような考えは危険極まりない発想だ」と逆らい続けたが、今でも其の考えは変わらない。
 人間にとって重要なのは“真理”であり現象ではない。心の本性は前出の第一句である『心隋万境転』という心の本質の理解体現である。つまり『自由』と『自在』の心である。それが『無心』であり、『無我』である。この部分はキリスト教文化に汚染されていると先ず絶対に理解できないらしい。アイデンティティ(自我)という幻想を捨てた心が本性であり、それがアイデンティティであるというのは欧米人にとって公案以上のハードルなのだ。それが彼ら欧米人にとっては、そこにある“無”であり“空”が唯一の切り口なのだが・・・。
活人禅者よ、『日々是好日』にしても『平常心是道』にしても、ストレスマネージメントの成功した姿であることは機会ある毎に話しているが、それそのものが喜怒哀楽による心身
の自虐から解放され、自然体で生きていることこそが我々の目的で目標で手段であり、食事、呼吸、排泄と同じ次元で、坐禅が日常生活の欠くべからざる要素であることは容易に理解できているだろう。しかし、実践できているだろうか?一日20分で良いから坐れているだろうか。俗人は個性から逃れる事は出来ない。個性という自縛を乗り越えるには坐禅しかないが、一般的な社会生活では、個性を捨てる以前に先ずは活かす事が大切。自分の生得的な強味・弱味を知って強みにストレスをかける。するとそれは向上心・有能感へと向かう。しかし、誤って弱みにストレスが加われば、それは焦燥感・劣等感へと向う。活人は、達人への過程。菩薩道の助走である人間道と言っても過言ではない。その道を悠々と歩くには“ストレスマネージメント”の方法論が必要だろう。それは坐禅をおいて他には無い。兎に角、一日一回。しっかり坐ろう。
慧智(050618)

 

野狐禅和尚の辻説法『愚直なほどに素直』 №780

 禅の心は、愚直なほどに素直に生きる事、の一言に尽きるかもしれない。何に対して“素直”なのかと言えば、それは“自然”。即ち、自ずから然るべくある“自然”だ。暑い時は熱いし、寒い時は寒い。春は春。梅雨は梅雨。綺麗と感じれば綺麗。苦しいと感じれば苦しい・・・。つまり、“眼前に現象している世界”。言い換えれば、それを感じている心だ。ところが、同じ事実に接しても人により感じ方が異なる。“赤ちゃん”とは随分と違う。何んで変わったのだろう。そこれが知識や経験と言われる“解釈”だ。そして其の解釈が固定して“先入観”を構成したからだ。言い換えれば、“素直じゃなくなった”からだ。そして其れを“愚から賢へ”という勝手な解釈をしているからだ。
 『常行一直心』という禅語がある。「つねに・いちじきしん・を・ぎょうず」と読む。読んで字の如しだが、誤解が無いように“直心”とは『直心是道場』の“直心”と同じで「造作の無い心」のこと。言い換えれば、愚直なほどに純心な心、つまり素直な心のこと。あるがままの心のこと。知識・情報・経験により汚染される前の心。分別(≒先入観)する前の心。故に『常行一直心』とは、『愚直なほどに素直な心で日常生活』ということだ。
 マイナス6%運動の一貫で『クールビズ』なる言葉と軽装が政府主導で推奨されている。暑い時は暑いので、涼しくしよう。上着やネクタイは不要というもの。しかし、不思議だと思わないか?上着やネクタイを制服にまでした西欧カブレの日本で、春・秋・冬の仕事には必要で、夏は要らない。四季で仕事が違うのだろうか。そこに“素直”を無くした日本の姿がある。『何に対して素直』なのかを忘れた姿だ。しかし、愚鈍な政策が“自然”を思い出させてくれるかもしれない。暑い時は暑いように、寒い時は寒いように暮らす。それが“自然”だ。素直な心への回帰だ。流されたり、押し曲げ捻じ曲げることではなく、“自然の法則に従って流れる”、つまり自然体で生きるというのが大事なのだ。先入観・稚拙な知識や浅い経験を離れ、事実を事実として素直に受け入れ素直に暮らすことだ。
好きな者は好き、嫌いな者は嫌いで良いが、好きだから会う、嫌いだから会わないのではなく、自然の流れ(≒縁)に委ね、瞬間的で実体の無い感情(解釈された事実が構成する)に左右されず、『常行一直心』、いつも眼前の事実を素直に受け入れ、何事にも素直な心で対峙することだ。つまり『無心(先入観の無い心)』に生きるということだ。
活人諸君。“上手く生きよう”なんて考えるな!素直に生きよう。一日一生、一日一日を全力で生き切ろう。『隋縁』、それは本質から外れないとても大事な心。小泉さん、竹中さん、素直に生きようよ。素直な心(勝手な心ではない)こそが“本質”を見抜けるんですよ。★禅会ですので説法は“生”のみ★
慧智(050618)

 

2005年06月17日

野狐禅和尚の“経済”説法『経国済民そして分相応』 №779

久々に『政策金融委員会』に出席し、背筋が寒くなったので、内職のようにこの原稿を書いている。経済は、経国済民(くにをおさめ、たみをすくう)を語源とすることは衆智であり、経済≠金ではない。しかし、文化や教育を弄るには結果が出るまで時間がかかるので、政府や役人は、ついつい“金”を弄って仕事をしている幻想に陥る。困ったものである。
今日の日本の経済状況は、分不相応を追いかけたバブルの崩壊で1400兆円の“泡”である資産価値を喪失したが、1929年のアメリカ大恐慌の再来はなかった。理由は単純で、政府が無智ゆえに膨大な財政出動をしたからだ。つまり、無智に無智を重ねた偶然が恐慌を結果的に起こさなかっただけなのだ。先ず、それを記憶しておいて欲しい。現在の日本経済は、一部には“長期デフレ”とも、“構造問題”とも言われている。しかし、私は、米国拝金イズムという“病”にかかりながら、ホメオスターシス(恒常性維持力)とプラセボ(財政出動)の相乗効果で、瀕死の重傷でありながら基礎体力(実業主義→米国型虚業主義の反対)で何とか命を長らえている内に、基礎代謝を落として、健康を回復しつつある状態と見ている。そもそもインフレとデフレを区別しているのは何か。金(マネー)の仕入れと販売の関係値で、長い刀には長い鞘、短い刀には短い鞘という本来のスタイルを逸脱し、長い刀を短い鞘、短い刀に長い鞘という『分不相応』をおかしいと思わない連中、ないし悪辣な“刀鍛冶”とそれを取り巻く商人、悪代官の指標で、本来の実質重視経済を基調とする日本では不要な数値なのだ。英国や米国の嘗てのインフレは22%という短期金利を仕掛け、転んでも“ただ”では起きまいとする海賊の頭と、山賊の頭が“策士が策に溺れた結果”であり、謹厳実直で素直な仏教徒である大半の日本人は『晴耕雨読』の生き方を思い出し、質実剛健に徹したから恐慌にならなかっただけで、本来、経国済民を司るべき政府の力ではない。今、未曾有のゼロ金利が長く続いている。それにも関わらず、資金の流通量は増えない。言い換えれば、政府の中枢にある無智な経済学者が“構造改革”などと騒いで、資金の供給力を銀行に付けさせたところで“借手”は増えない。増えないから仕入・販売ともに金利は上げられない。エコノミストの中には日本国内は需要不振だと言うが、いつに比較して需要不振といっているか。『今』を否定し、バブル時を肯定しているという心理が背景にあるからだ。
話は少し変わりアナロジーになるが、チョットだけイメージして欲しいのは、『日本人の平均身長が150センチになれば、現在の50%を下回った食料需給率は解決する』ということ。江戸時代、食料需給率は農業技術が低いし人口も少ないが100%だったのだ。つまり分相応の大きさで生きることから背伸びをし、贅沢に暮らすことを欧米に教え込まれた結果の今日で、“経済問題”の本質は其処にあるのだ。言い換えれば、“分相応・質実剛健”そして『知足』という“日本の心”を思い出して暮せば、現在の経済状態でも十分に“豊か(餓死者を出さず、皆仲良く慎ましく安心して暮して行ける貧富の差の小さく妬みや恨みを抱くことのない社会)”なのだ。
さて話を戻そう。大隈先生の開校した立派な学校の縮小再生産が生んだ鬼っ子で、経営の“け”の字も知らず“日本の心”も知らないアメリカ拝金教の信徒である政治屋さんになった経済学者は、銀行屋に向かって「信用力のある大企業で素晴らしい企画を持っている会社が沢山あるのに銀行がカネを貸さないのは訳が解らない」と言うが、それは世間知らずの弁で、現実に資金の需要があれば、借入れは増え、仕入と販売が市場原理に連動して貸出金利は上がるのが当然。しかし、現実は違う。その証拠に資金需要があり、邦銀が貸さなければ、ハゲタカ銀行が貸しまくる。しかし、そんな気配はないし、邦銀・外銀とも貸出し量は下がったまま。其の上、外銀の対法人シェアは落ち始めている。つまり、T大臣は世間が見えていないのだ。
常識の目で、今を見てみよう。企業はゼロ金利にもかかわらず借金をどんどん返済している。何故?。受容性は高いが、保全性の高い経営者も国民も『マネーストレス』から学習したからだ。バブル絶頂から見れば株価が6割、都市不動産は8割も下落した。勿論、本来なら株価は9割下落でも不思議ではなかったが、“持ち合い”で救われた。覚えておきたいのは、政府が持ち合い解消を奨めている以上、“次”は耐えられないということを皆、本能的に悟っている。だから、金は借りない。しかし、現実問題、今でも中小企業の『不動産』は怪しい。簿価と実勢には全国平均で8対1。そして“借金”はそのまま残っている。日本の企業の9割が中小零細であることは衆智。つまり、株式会社日本のBS(バランスシート)は危機的状態に変わりない。しかし、本業に回帰してPLは健全、CFも大きな問題は無い。しかし、BSは“債務超過”だった。・・・これ修復するため日本中の企業が「早く借金を返そう!」と大合唱。そして、大企業から健康を取り戻した。しかし、中小企業はまだまだ。そして現実はバランスシートが綺麗にならないから、それまでは例え“ゼロ金利”でも借金はしないし、銀行も同様に貸さない。銀行が貸して万が一にも銀行のBSが悪くなれば破綻し、ハゲタカと其の手先であるT大臣に潰される。それが怖いのだ。現実に、日本の銀行には、今も何が起きても不思議ではない。世界的格付機関で合格を示す「ABC」をとっているのは銀行は一行もなく、揃いも揃って「DE」ばかり。学校の成績なら“2”と“1”ばかり、進級なんか出来ない。
 一方、企業の借金返済が昨年から急速に進み、有利子負債残高は大幅に減少しバブル前の86年水準を回復。また、恒常性維持力により都市圏での土地価格の下落も止まり、バブル崩壊の主犯である団塊世代の整理が進み、バブルで痛い目にあっていないホリエモン世代が、禁断の木の実に幻惑されている。つまり、07年あたりから、病気が再発し、先ずは熱があがり、浮かれ、疲れて、悪寒が続き、悪寒に慣れて、それなりの暮らし方を発見するだろう。正に、景気は循環なのだ。
 そういえば、小泉公約の「30兆円枠」は今何処に?まあ、今の政策をあと2年続ければ、大半の大企業は元気になりMAやMBOを進められ、日本の心を完膚なきまでに捨てた米国カブレの企業ばかりになるだろう。果たして、それが良いのか悪いのか。それでも多きな課題は残る。そのキーワードは『石油・中国・ドル・輸出とアメリカの一人横綱』。車社会のアメリカ、これから車社会にある中国。漁夫の利を狙うEU。そして世界が狙う日本の外貨。心臓が政府・日銀とすれば、中間ポンプが銀行というイメージで“経済”を国民と文化を無視して動かしている限り、日本の危機は去らない。今、日本に必要な改革は『日本式文化大革命』なのだ。ホリエモンに老子・孔子・菜根譚を読ませ、六本木ヒルズ族に坐禅をさせて週末は農業・林業に参加させることだ。
つまり、今の日本に本当に必要なのは、『経済改革・郵政改革・・』なんかより『教育改革』と『宗教心(禅)』なのだ。
 会議が終わるので、内職もここまで。
★★明日から活人禅会です。寺で待っています★★
慧智(050617)

 

2005年06月16日

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常・無常迅速』 №778

 中国、漢代の人間訓に『人間万事塞翁馬(にんげんばんじさいおうがうま)』という句がある。元東京都知事で作家にしてタレントの青島幸男氏は、この句をもじって『人間万事塞翁丙午(・・・・ひのえうま)』という本で、自分の人生を予言していたようだ。
さて、しばしば耳にする“この句”は、幸福は必ずしも幸福ではなく、不幸は必ずしも不幸ではないという意味。原書では「塞翁という男が飼っていた雌馬が逃げて落胆していると、暫らくの後、牡馬を連れて帰って来て、子馬が生まれてた。それを喜んでいると、塞翁の子供が馬から落ちて大怪我をしてしまった。その時、戦争が始まり殆どの若者は徴兵され、90%が戦死したが、体が不自由な塞翁の子供は徴兵を免れ、親子は命拾いをした」という内容だったと記憶している。
しばしば、二項とは表裏の関係だと話している。『楽中苦・苦中楽』という禅語の意味もしばしばお話している。そして“諸行無常”、常なるものは無く、全ては現象であり、解釈ひとつともお話している。『人間万事塞翁馬』にしろ“~丙午”にしろ、何事も決定的などということはない。良い時もあれば拙い時もあるし、それは不可分不可同である。つまり、哀しむ事なかれ、かと言って喜ぶことなかれ。今・この時こそ“全て”なのである。一瞬前は過去、一瞬先は不確定。全ては諸行無常。故にチャランポランに生きろというのではなく、善因善果・悪因悪果、因果応報。今・此処での己を一日一生と準え生き切ること。それが悔いの無い明日の今・此処となるのだから。
慧智(050616)

 

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