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2006年12月

脚下の道を見直そう

心配をかけました。辻説法を再開します。

 

2006年12月30日

脚下の道を見直そう

新年明けましておめでとうございます。
旧年中、体調を崩し1000本説法を中断しましたこと不徳の致すところ、心よりお詫び申し上げます。
年明けまして心を新たに、倒れても倒れても前へ前へと突き進む所存ですので、時折、この辻説法を除いて頂けるようお願い申し上げます。
さて、旧年中に“己の道”を見出せた方は幸いです。『大道無門』と言いますが、無門であるが故に足元の道には気付くことが難しいのかもしれません。時々、先ずは10年坐りましょうと話すことがありますが、日々に積もる塵芥を拭き払い、己の何たるかに気付き、己の道を無心に突き進むのは決して簡単なものではありません。人は迷うもの。迷いが大きければ大きいほど迷いから自由になったときは素晴らしい。正に大愚大悟といえます。
昔から、右を極めれば左に、左を極めれば右にというように、道は始まり無く終わり無く“円相”を描き、能所両忘、極論を離れば、そこが中心。随所作主。皆主人公。正に中庸こそ道です。拘ること毋れ、囚われること毋れ。偏ること毋れ。現実をあるがままに受け入れ、今此処を全力で一日一生として生きる。求める心に安寧なく与える心に安寧が宿る。強みだ弱みだ、勝った負けた、幸せだ不幸だなどの相対的な気分に実相はなく、所詮は紙の裏表です。相対的な価値観に実体はありません。
『碧巌録』に度々登場する「至道無難 唯嫌揀択(しいどうぶな ゆいけんじゃく)」。究極の真理(全ての原理原則は難しいものではなく、ただ好き嫌い、選好みを嫌うだけだ)と趙州和尚が弟子に示した通りです。揀択とは憎しむ心・愛する心によく現れます。キリスト教でも「愛から博愛へ」と自分を成長させることを善しとします。昨今の“いじめ”は愛憎という醜い心の投影が作り出す現象です。拘らず囚われず偏らず。選好みの究極の心が愛憎です。活人諸君は、愛憎を離れ慈悲の世界に無対立・無犠牲・自主独立の世界が広がることを知っているはずです。死ぬ時は死ねば宜しい。生きる時は生きるが宜しい。現実をあるがままに受け入れ、あらゆる幻想・妄想から己を自由にして生きてゆこうではありませんか。それには先ずは“出来る事”に全力を尽くすこと。それは“看脚下”。今・此処がある今歩いている道を知ったりと意識して一途一歩全力で歩むことです。『大道無門』。誰でもが大道という大自然の原理原則を生きています。それゆえに無門なのです。
さあ、今年も坐りましょう。
一日一禅。一日一生。悩む暇があれば寺に来て一緒に坐りましょう。来れない人は深夜12時に坐ってみてください。同じ心の人々と出会えるはずです。
では、今年も宜しく。
平成19年1月1日 両忘山活人禅寺 慧智

 

2006年12月26日

心配をかけました。辻説法を再開します。

 生前3回忌を迎える直前に、体調が悪化し、暫く寝たり起きたりの生活でしたが、坐禅の効果を引き出す“ご縁”の力で、徐々に回復し、年始から『次説法』を再開します。
 さて、辻説法が中断して3ヶ月。世間では物騒な事件が多発し、改めて“教育”の重要性が叫ばれています。教育は、知育・徳育・体育の上位概念であり、『頭と心と体』の調和的な育成から統合作用による人間的成長が期待され、主人公を取り巻く環境には、其々に責任と権限が付与されていまっす。ところが、昨今話題になっている“いじめ”やそれが要因として考えられる“自殺や殺人”は眼に余る状態です。その原因を想像するに、教育の場、特に徳育と体育の中核である家庭に教育力が弱く、責任を放り出してそれらを学校に“丸投げ”している家庭が増えているように思います。また学校における知育の責任は“塾”の成果を期待し、体育は責任者不在といった感があります。
 年始からの辻説法は、そこら辺に注目して書き続けようと思っていますので、宜しくお願いします。
両忘山活人禅寺 慧智

 

 

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