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2007年1月

●『教育』とは

●先ずは大前提から

●己事究明と修行

万法帰一 一帰何処

「内に一物も無く、外に求むる所も無し」

 

2007年01月24日

●『教育』とは

 昨今、巷での『教育論議』を耳にすることが多くなった。まあ、その大本が自らの教育が成功しなかった政治家であるこが滑稽ではあるが、今、日本人が“教育”を国民的な議論とすることは大事なことだろう。
さて、本日夕刻、体調に問題はあったが高校教師の集いに招かれ一時間程度の話をさせて頂いた。その折ひとりの教諭から、『そもそも教育とは何だろう』という素朴な質問が投げかけられた。勿論、彼らは“教育現場”の人間であり、『教育とは、知育・体育・徳育の総称で、頭に教え、体を鍛え、心を磨くこと」という常識的な答えを求めたわけではない。彼らにとって大事なのは、「成長過程において誰がどの部分の責任を持つのが正しいか」という意味合いが込められているということである。簡単に言えば“いじめ”の予防と再発防止の『責任』の全てを教師と学校に委ねるなら『権限』の全ても委ねられる必要があると考えていることに通じる。
なお、そこでの教諭と拙僧の遣り取りが面白かったので書き留めてつつ皆にも考えてもらいたいと辻説法の素材とした。
教諭:そもそも教育とは何だろう。
拙僧:安心を与えることだ。
教諭:安心とは?
拙僧:受け容れられる心だ。
教諭:何を?
拙僧:全て。
教諭:どこで?
拙僧:全身。
教諭:殴られても我慢すること?
拙僧:我慢という心を捨てること。
教諭:我慢しないとということ?
拙僧:我慢しないことも捨てる。
教諭:暴力であっても自然に受け容れるということ?
拙僧:受け容れているという心も捨てること。
教諭:唯我独尊となること?
拙僧:皆が主人公である
教諭:それが“愛”ですかね?
拙僧:“愛”とは執着であるから、捨てる。
教諭:となりと“憎しみ”しかないのでは?
拙僧:愛は憎しみと不可分ゆえ、両方を捨てる。
教諭:何が残りますか?
拙僧:何も残らない。
教諭:では教育の成果は?
拙僧:本来無一物を得心すること。
教諭:そんなことが出来ますか?
拙僧:その心も捨てなさい。
この後も続きそうであったが時間切れ。
付け加えてると。
拙僧:教育とは心の垢落とし、素っ裸になること。それを『経営』という。誰が誰に行なうかは、先ずは親と世間が心、教師が頭(教師も世間にある)、自分(自分も世間にある)が体。言い換えれば『教育は世間を構成する全ての者が権限をもち責任がある。だからこそ、教育の大前提は『己が手本となって生きる』こと。それだけ。
慧智(070124)

 

2007年01月12日

●先ずは大前提から

●仏教の基本
ふと気が付くと、我が国の多くの市民が、戦後の混乱と戦後の偏狭教育の結果として宗教・仏教・禅に関して多くの誤解や曲解が起こり、結果として宗教や道徳が少なからず軽視されているという事実がある。西欧型の一神教に根拠を置く西欧文明は、釈尊が発見した真理には遠く及ばない価値観を作り上げ、『原因と結果』は一対一の関係であるという論理展開をする合理性を生み一人歩きさせた結果、強者優先と自然征服主義、人間優先主義の世界を築いてしまい、戦争を肯定し、自然破壊を正当化し、自分達人間以外の生命を軽視し続け、結果として世界の持続性(サステナビリティ)にダメージを与えてしまいながら、それに気付きながら価値の転換が図れない状況にあります。そして、その流れは我が国の『自然との共存(征服の反対概念)と美徳(陰徳を善しとて卑劣な心を恥じる文化)』を汚染し、徳を捨てて“美しい日本”を作ろうなどという未知な政治家が現れ、“徳より得”を当然とする社会を正当化して、我が国が唯一世界に誇れる“美徳教育”の本質を根底から砕いてしまった。
私は、余命幾許も無い“下野した禅僧”であるが、聖俗一如を地で生きている者として、何とか警鐘を鳴らしつつ、一人でも多くの人間に“心眼”を開いて頂き、一人でも多くの人間に己の能力を活かして“美徳を実現する生き方”を選んで頂きたいと、今年は“仏教や禅、生命観や倫理観(生き方)”に関する考え方を、出来る限り解りやすく解説しつつ、“経営(目的目標を達成させる行為)”に言及してゆこうと思います。そこで、本日を第一回として書き始めます。
●釈尊の根本課題(命題)は、人生の一切の苦悩を如何にして超脱し、安心して寿命を全うするということは、どういうことかを考えつくしたことです。
そして、釈尊が発見した人間を含む世界の法則性(真相)は、次の通りです。
1、諸行無常:一切の現象は、刹那ごとに生滅し変化する。
すなわち、一切のものは、単なる時間的現象として生起し、同じ現象は一回限りである。だからこそ一期一会、何事にも全力投球が大切なのです。
2、諸法無我
諸法とは“一切の存在”、“無我”とは、固定不変の実体のないこと、即ち全ては“現象”であるという事実。
故に、全ての現象は、特定の原因により特定の結果があるのではなく、不特定多数の原因が縁により不特定多数の結果を結びつつ、それらが新たな原因と新たな関係性を生み続ける瞬間的な現象だということです。
3、一切皆苦
一般人は、変動に固定(無常に常)を求め、欲望が満たされないことを“苦”とする。つまり、私達を取り巻く一切の現象は、“苦楽”の対象として仏教的理解における“苦(不安)”として現れているということ。
4、涅槃寂静(1・2・3を前提としての究極の心境)
無常・無我・苦という法則性を如実に知見して己のものにすることで、一切の執着から解放された真に自由な境地(大安心)があるということ。
慧智(070111)

 

2007年01月06日

●己事究明と修行

日本の仏教には沢山の宗派があり、同じ釈尊の教えでもフォーカスする部分が異なると、経の解釈や修行方法が異なります。我らは『禅宗』という流れにあり、己の外に絶対者(神や如来など)を持って依存せず、己の内なる仏を覚醒させるために修行の中心を坐禅においています。宗派によっては護摩行と言って経木を燃やして呪文を唱えたり、オリエンテーリングのように野山を走り回ったり、只管に念仏を唱えたりしますし、他力を標榜して自らは決して動かないという宗派もあります。そんなところから考えると、一般の方々に、禅はおろか仏教そのものが誤解され怪しまれるのは理解が出来ます。
そもそも『仏道修行』とは何でしょう。例えば富士山を連想してください。山梨から見ようが静岡から見ようが富士は富士ですが、見る人の位置と時の変化し随い、今此処の富士は瞬間的な現象であり、不変でもなければ同じ富士山を見る事は今此処の己以外には誰にも出来ません。況や釈尊の悟りから2500年も経って4万8千と云われる経があれば、その解釈は無限と言っても過言ではありません。故に、歴史的変遷を無視して、“是こそが釈尊の意思だ”という妄想に囚われることは出来ません。言い方を変えれば、「どこから何時見た富士山が本物ですか」に答えるようなもので、どれが本物の仏道修行か、と聞かれても答えようがないのが真実です。勿論、明らかに怪しげな修行もあり、ある意味では玉石混交と言えるかもしれません。何が良くて何が悪いなどと言えば“分別”が起こり絶対受容である“無分別の境地”を目指すという修行の根本が崩れてしまいます。つまり、己に縁があり、縁に従って出会っている修行で、疑いが起きていなければ“それ”で良いとしかいえません。
しかし、歴史を紐解いてみると、出家者の修行には大きく分けて二つの流れがあり、一つは坐禅、もう一つは経学です。この二つの流れから類推すれば『坐禅により心を鎮めて無心を実現し、その状態で経の行間から智慧を学び取り涅槃寂静の境地を実現するのが王道であることは容易に理解できます。つまり、その基本の上に宗派別の個性が乗って複雑化しているだけです。禅宗でさえ坐禅+経学が少し変形して『作務』が加わっています。少しだけ付け加えれば、滝に打たれたり、火に炙られたりする修行は神道系の修験道がフューチャーされているのだということです。仏教の心は『己の事を探求しつくして心静かな境地に至ること』が大前提で、単純な話が、己の心を清らかにするのに、火に焼かれたり、水に冷やされたりすることは逆効果こそあれ効果は無いでしょう。勿論、生理学的観点から考察すれば“脳を暴走させる”のですから不思議な体験は得られるでしょうが、それでは“麻薬”を使うのと代わりがありません。心を安定させ己を探求するには非言語的な脳が覚醒し、言語的な脳が沈静していなければ無理なのです。現代科学はその状態をアルファー波状態と呼んで“絶対的覚醒状態”と考えられているようですが、科学の言葉を借りるまでもなく、この世に“神秘や奇跡”は無いと幻惑の正体を見抜いたことが釈尊の悟りの構成要素なのですからバタバタな方法は逆効果しか得られないと我々は考えています。火では温まり、水では冷やされれるのが大自然の理です。
 以上で理解できたとは思いますが、一般の社会で美徳を尊重し、善良に暮らしている皆さんは、先ず全力で不特定多数の人々に貢献しようとする志で働き、日々に己を鍛え、日々に心に被る埃を落としているのが大事なのです。『坐禅』は心を洗うことであり、毎朝毎晩、歯を磨くのと同じように『坐禅』をすることが大事なのです。そうしないと心が虫歯や歯槽膿漏になってしまい、弱肉強食と卑怯な裏切りの世界の住民になり、勝ち負け、高い低い、貧富などで物を考える下衆でさもしい“物狂徒”になってしまいます。
 さあ、坐りましょう。働きましょう。それが『己事究明に通じ陰徳に通じて美徳の人となる品が実現するのです。
惠智(070112)

 

2007年01月03日

万法帰一 一帰何処

 『万法帰一 一帰何処(万法は一に帰す。一はどこに帰すか?)』は、碧眼録45で趙州和尚に対する“質問”です。これに対しての趙州和尚の返答は「私が故郷の青州で一枚の麻衣を作ったが七斤(4,2キロ)もあった」であった。
「多即一 一即多」は「色即是空 空即是色」という般若心経を一度でも本気で読んだら解るから、即軽薄な雲水は、「万法帰一 一帰万法」という“正しい”常識的な返答をするだろう。また、未だ初関が通らない修行の浅い雲水は「麻三斤(碧眼18参照)」と頭で返答するかもしれない。しかし、趙州和尚は「私が故郷の青州で一枚の麻衣を作ったが七斤(4,2キロ)もあった」である。
 禅は単なる哲学や思想ではない。況や因果論科学などではない。質問が同じなら答えも同じという“演繹論”ではないし、文法論のようにA=BならB=Aではない。日本語や朝鮮語なら「山は春である≠春は山である」、即ちA=BでもB=Aは成り立たない。寧ろ、「AはAでないからBである」となる。それ故に禅は厳として禅なのだ。質問に対する応えは個々人の個性的で独自の体験の中で得られる真理(事実ではなく、事実の体験が誘発する真理の発見)の間髪を入れない返答であり、それから導き出させる日常の行動である。
さて、「あらゆる現象は一に帰しますが、全ての人間の解釈と表現は無数です。何故ですか?」
虚庵快紹慧智(070103)

 

2007年01月01日

「内に一物も無く、外に求むる所も無し」

「仏法の大意」即ち禅の修行を一言で言えば、坐禅を以って見性成仏に至り、己が即ち仏であることを自覚することにある。そこで、白隠禅師の『坐禅和讃』を読んでみよう。先ず冒頭に「衆生 本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷無く 衆生のほかに仏無し」とある。これは、我々は例外なく、自己(自ずからの己)と仏(智恵の具現・真理)とは別者ではないという根本的なことであり、真理なのである。続いての部分は以下のごとくであるが、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏を解りつつも意訳をしている心根を理解して頂き、これをそのまま鵜呑みにせず、坐禅の意味は坐禅することでしか解らないということを坐ることで感じて頂きたいのでヒント程度に読んで下さい。

衆生本来仏なり →私たちの本来は仏なのである。
水と氷の如くにて →それは水と氷のようなもので、
水を離れて氷なく →水がないと氷ができないように
衆生の外に仏なし →私たちでない仏はありえないのである。

衆生近きを知らずして →ところが、私たちがそのまま仏であることに気付かず、
遠く求むるはかなさよ →外の世界に仏があると思ってしまう哀れさは、
譬えば水の中に居て →例えば、私達が水の中にるにも関わらずに、
渇を叫ぶが如くなり →のどが渇いたと叫んでいるようなものである。
長者の家の子となりて →また、裕福な家の子に生まれたにも関わらずに、
貧里に迷うに異ならず →貧しい里をさまよい歩いているのと同じである。

六趣輪廻の因縁は →私達が迷いの世界から抜け出すことができないのは
己が愚痴の闇路なり →真実を知らぬ愚かさにある。
闇路に闇路を踏みそえて →考えてみよ、迷いに迷っているうちに
いつか生死を離るべき →本来から仏である私たちは死んでしまうではないか。

それ摩訶衍の禅定は →そもそも大乗の禅は、
称嘆するに余りあり →感動するに余りある大きな支えとなる。
布施や持戒の諸波羅蜜 →他人への施しや自分自身への戒め
念仏懺悔修行等 →念仏や反省、他力の信心、自力の修行など
その品多き諸善行 →数々の善行はあるが、
皆この中に帰するなり →それらは全て「禅定」の中に含まれている。

一坐の功を成す人も →喩え一時でも、心を落ち着けて坐った人は
積みし無量の罪ほろぶ →今までの迷いや不安は軽くなる。
悪趣いずくに有りぬべき →悪い出来事などはどこにもない。
浄土即ち遠からず →安寧の地は今正に目の前にある。

辱なくも此の法を →ありがたいことに、この教えを
一たび耳に触るる時 →一たびでも耳にして
讃嘆随喜する人は →感動して喜び、信じ、讃えて受け入れる人は
福を得ること限りなし →必ず幸せになるだろう。
いわんや自ら回向して →ましてや自ら積極的に修行して
直に自性を証ずれば →本来の己と出会えれば
自性即ち無性にて →自然と迷いや不安は消え
すでに戯論を離れたり →同時に欲望の下降螺旋から離れてしまう。

因果一如の門ひらけ →そして、原因と結果の境界が消え去り、
無二無三の道直し →たった一つの真実の道に全ては収斂する。
無相の相を相として →全ての出来事は瞬間的な現象であるという真理により
往くも帰るも余所ならず →どこに行っても、心は安らかなままとなる。

無念の念を念として →無心となって雑念を起こさなければ
謡うも舞うも法の声 →歌う時にも踊る時にも、仏の声が聞こえるはずである。
三昧無礙の空ひろく →拘らない囚われない偏らない心は、大空のように果てしなく広がり
四智円明の月さえん →真理を象徴するような美しく清らかな月が輝くだろう。
この時何をか求むべき →そんな時、私たちは何か求めるものがあるだろうか。

寂滅現前するゆえに →迷いや不安がなくなった心であるから、
当処即ち蓮華国 →今・此処が安寧の地であることに気付き、
此の身即ち仏なり →心身一如となっている己の此の身体がそのまま宇宙の叡智の凝集であることに納得が行くのである。

慧智(070102)

 

 

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