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私は釈尊・・(文殊)・・達磨・慧可・・・白隠・・・代々の祖師、大和尚に深く帰依するが、足跡を追う気にはなれなかった。つまり、伝統に連なることを嫌った。勿論、社会に認知されている“伝統”を踏襲していれば、表向きの『道』を外すことは無い、ということは十分に解っていた。また“禅堂(≒生きる事)”10年、『戒定慧(かいじょうえ)』の重要さは身にも染みていた。しかし、それでも伝統に“ぶら下ること”に“大疑”を感じていた。何度も何度も、何度も考えた『自灯明』と『法灯明』。そして昭和43年11月、忽然として“生涯一雲水”であること、歩歩是道場であること、独歩して己事究明に励むことこそ“禅”であると確信し還俗した。“本者”でありたい、“祖”となりたいと思った。しかし、本者であろうとすると、灯した明かりは絶やすことなく生涯に渡り灯し続けなければならず、常に伝統からは異端視される。確かに、伝統との決別はある意味で反逆行為なのだ。勿論、禅はある意味で“全てオリジナル(自灯明)”と考えることも出来た。だからこそ『法灯明』は“蝋燭を一本、一本、また一本と新しい蝋燭に火を灯して聖火リレーのように繋ぎ、時代時代と相互浸透しながら絶えず体制内で更新されてゆく自体『自灯明』であるという意見も十分に理解はしていた。その上、伝統には奇特な力があることも十分に体感していた。それでも『伝統』に生きることは己の成長を阻害すると思えての還俗だった。師と決別し、『戒定慧』と一冊の本を胸に還俗という形でゼロからの旅に出た。当時の私が解釈した『戒定慧』とは、『悪を制するを戒、心を無とする定、真実を証するを慧。つまり、『身を修め、あらゆることに先入観を持たず仏性の投影であるこの世の現象である事実を徹底的に体験して全身で学びつくせば、釈尊が発見した真理(宇宙の本質)を自ら検証し、先人と同じように完全無欠な智慧(知識・思考を超えた力)を得て成仏する』であった。そして、修行により完成した智慧を原動力にして“輪廻、因果そして縁”の本質を見抜き、迷い多き現世に小さくても良いからしっかりとした明かりを灯したかった。遡ること48年、龍澤寺を宗淵老師に任され、お体が弱り始めていた時期ではあったが、特別のご配慮で玄峰老師に就き得度、その後の10年の小僧・僧堂暮らしを捨ててから38年。今も心は“生涯一雲水”。師を持たず弟子を持たず“一人一宗一派こそ宗たる教え”を標榜しつつ今日もまたヨレヨレしながら行脚している。“逸れ坊主三十年”。花は紅、柳は緑という常識を放下し、“花は紅に非ず、柳は緑に非ず”という心境を経て、最近、なるほど、花は紅、柳は緑であると得心しているが、去りし日のことを思い出すことが多い今日この頃である。いやはや、困った未熟者である。
一日一生 慧智(070318)
昨日、“無宗教”を自慢されている方に出会った。不思議でならなかった。生命に貴賎は無く、他の生物や現象と差別をするつもりは無いが、宗教を持っているから人間なのではないだろうか。そもそも『宗教』とは“宗たる“教え”であり、考えの柱、よって立つ価値観であり、英語のreligion(レリジョン:有神論・一神教)とは異なり、faith(信条や教養)に近い概念である。であるから、日本語の宗教は、無神論である仏教は勿論、禅、神道、道教、儒教、キリスト教、イスラム教など“それ”を生き方の拠り所にする全ての宗教(考え出された“生き方”の体系)が入っている。しかし、“エコノミック・アニマル”≒拝金主義動物や個人崇拝、政治思想は入れていない。つまり、“無宗教”であるということは、自分教(ナルシスト)だということであり、「私は利己主義(自己中心の生き方)です」と言っていることに他ならない。それを自慢する人は、何を考えているのか興味があったので、暫く話を聞かせてもらった。概して言えることは、彼は「自分は宗教に頼らなければならないような弱い人間ではなく、自分の考え方を持った精神的に強い人間である」と言っているようであった。そこで「あなたの葬式は“何式”でやるのですか?」と聞くと、「私の葬式なんて縁起の悪いことを言うな」と怒り出された。それを聞いた時、彼は納得できる死の概念をもっていないからだな、と感じた。だから死という概念を忌み嫌うのであり、恐れているという弱い人間なのだと理解できた。弱い人間というのは“自分”を含めて何かを“信じ切る”ことが出来ない方で、軽度の不安神経症と言っても過言ではありません。さらに、彼の中にはお気の毒だが、何かを信じてしまえば盲従してしまう自分の弱さを自覚しているのかもしれないな、とも感じた。
考えてみると、彼のような人間が居ると言うことは、日本の“教育”に問題があるのではないだろうか。宗旨や宗派に関わりなく、積極的に社会に参加し、自分が大事であると同じように相手も大事な存在であることを自然に認め、助け合って生きてゆくのが人間であり、自分の考え(と思っているソーシャルマインドコントロールを受けた考え)のみを主張したり、自分の宗教を他人に押し付けるようなことをすることが、過去において紛争や戦争を起こして来たことを知らないのだろうか。私は“正しい宗教”とは、相手を尊重し、非生産的な対立をせず助け合って生きてゆく術を提供できる体系化した価値の体系であると思っている。
このところ、ユニークな人との出会いが多い。つまり“ご縁”に恵まれている。禅では『一期一会』を大切にしている。それは“全ての出会い”は一生に一回というのが根拠で、昨日会って、今日会っても、昨日は戻ることの無い過去の経験であり、“今”ではないということからである。『今・此処の己が全て』というのが禅の考え方で、一生は“今”の連続という考えからだ。だからこそ、“今”に手抜きをしない。
さて、『無宗教』を自慢している方、ないしは“自分は無宗教”と思っている方は“一日”を何と考えているのだろうか。過去と未来の通過点なのか、それとも何も考えずに“今”を過ごしてしまっているのか。
禅士諸君。君らは“今”を全力で生きているだろうな。今を大事に出来なければ、未来を大事にも出来ないし、過去も大事にしていないことになる。大丈夫だろうな。人間らしく『和顔愛語』で生きているだろうな。
一日一生 慧智(070316)
『道徳』は相対論を論じ『禅』は絶対論を論じている。故に道徳は“心”を整えることが肝、“禅”は“心”
を“無”とすることが肝だと、道徳的な動物園の狐が、野生の狐に語った。続けて、道徳的な動物園の狐は「自由になるには道徳を捨てるべきか」と野生の狐にたたみ掛けた。野生の狐は「何故“自由”になりたいのか」と動物園の狐に問うた。すると、動物園の狐は「“美しい国”を自由に歩きたいからからだ」と答えた。すると野生の狐は「自由とは腹は減るし、猟師には追われるし一時たりとも“安心”が無い。自由とは不自由のことだが、それが良いのか。オレはお前のように安心して暮らしてみたい」と。
そこに、話を聴いていた野狐禅和尚が登場し、「では、お前達は入れ替わってみよ」と。
暫くして、「『道徳』は相対論を論じ『禅』は絶対論を論じている。故に道徳は“心”を整えることが肝で、
“禅”は“心”を“無”とすることが肝だ」と檻の中の狐が、檻の外の狐に語った。続けて、檻の中の狐は「自由になるには道徳を捨てるべきか」と檻の外の狐にたたみ掛けた。檻の外の狐は「何故“自由”になりたいのか」と檻の中の狐に問うた。すると、檻の中の狐は「“美しい国”を自由に歩きたいからからだ」と答えた。すると檻の外の狐は「自由とは腹は減るし、猟師には追われるし一時たりとも“安心”が無い。自由とは不自由のことだが、それが良いのか。オレはお前のように安心して暮らしてみたい」と。
明鏡(曇り無い鏡)は、外界を“ありれまま”に写し出し、何の造作もない。つまり差別がない。苦しみとは自我、我欲という“心”に執着することから始まる。『檻と名付けられた鏡』の世界に内外があるかな。産まれた時は、皆“無心”。恰も明鏡。自由とは明鏡無心。あらゆる価値から離れている。それが絶対的な自由の境地。人の個性(気質・性格・人格の統合概念)は容易には変わらない。それに、世俗的な価値か、知的な価値か、道徳的な価値が加わり人は評価され、己を判断する。
禅は「無念の念を念として、無相の相を相として、無住の住を住とする」。『念』とは情動・理性・感情の生み出す現象、つまり“心”。『相』とは体が置かれている状態、己を己としている環境とで言える。『住』とは正に今安住している価値の世界と考えれば宜しい。『自由』とは拘らない・囚われない・偏らない本来の面目の姿である。『本来の面目』とは「父母の生まれる前のあなたの姿」である。そして、衆生は本来仏である。仏こそ己である。己の外に仏なし。それが禅である。
一日一生 慧智(070315) 政府系の会議で対立している委員を眺めながら・・・・。
ネット禅会の禅士から、「如何なるか『菩提心』」と問われた。
拙僧は、「自分で答えてご覧」と返した。
続けて「自他一如」と。
坐禅をしている時、50%程度のレベルの禅士なら、自問自答という心の動きに出くわす。何故なら、聞く相手が居ないからだ。つまり、本当に己を無に出来ていれば、聞く人と答える人の区別はない中途半端だから、己の中に師と弟子が出来る。
母に会えば子供になる。しかし、禅者なら、母に会えば母になる。
それが、『単(一)』になること。頭で考えた事は『一切不是』。
禅士:「単(一)」になる術は如何に。
拙僧:「無を知る者と共に生きよ」・・・・「(0+2)÷2」=1(これは冗談)
拙僧:「余念を捨てよ」
禅士:「つまり・・・・」
拙僧:「カーーーーーーーーーーーーーーーツ」
「比較」する事なかれ。
比較とは、心の内に対象物があるから起こる。無心(余念を無くす)となれば、比較は無い。
それは、禅堂でなくても出来る。どこでもできる。歩歩是道場。
それが『菩提心』。
菩提の心とは、余念の無いこと。
一日一生 慧智(070315)
今日は、高校2年生に対して講演をさせていただいた。テーマは「社会が求める人」というもの。そして答えは「当てになる人」という一言でした。
私は、此の世に要らない人間など一人もいない。自分の強みを発見して、それを活かしてください。それには、今・此処で出来る事を完璧にして下さい。それが出来れば大丈夫。その人が「社会が求める人」なんです。ただ、その事に気付かないで、今・此処で、自分に出来る事に全力を尽くさず、キョロキョロと周り眺めて、うらやましがったり、嫉妬したりして、肝心な事が出来ない人が、周りから“不要な人”と言
われてしまうんです。勿論、本当は“要らない人”など一人もいないんですよ。でも、言われてしまうんです。悲しいでしょ。悔しいでしょ。
皆、大事な“命”だし、自分が大事なように、相手も自分が大事。だから、お互いに大事にし合うんだ。それって普通でしょ。普通のことを普通にする。それが大事なんです、というような内容の話をさせてもらいました。しかし、時間の都合で話しきれなかったことがあるので、今日は此処に書いておきます。いつか、キット読んでくれる人もいるでしょうから。
夢も結構、理想も結構。「したい事」をするのも大いに結構。でもね、それが、誰かの迷惑にならなければの話。偉くなりたい。それも結構な事です。でも、誰かの足を引っ張らないこと。金持ちになりたい。勿論それも結構なこと。でも、貧しい者から奪わないでください。それだけは忘れないで下さい。
さて、君達は「したい事」が出来ないと、どうだろう。「すべき事」が出来ないと、どうだろう。辛いだろ。苦しいだろ。悲しいだろ。だから、今は先ず、自分に『出来る事』を確実にすることなんだよ。それは平凡な事に思えるが、実はとても非凡な事なんです。何故って、続けることは大変なことなんです。出来る事をキチンとして毎日毎日を大事に生きる。出来る事を繰り返し続けるとどうなるだろう。実はね、“達人”と呼ばれる人になるんだよ。つまり、毎日を大事に生きる事こそが“達人への道”ということなんだ。そして、“達人”とは本当に“当てになる人”のことなんです。そして、達人といわれる人、当てになる人は、何があろうと、今、自分の居るところの眼の前の“道”を淡々と進む人なんです。出来る事を完全にするんです。すると、徐々に出来る事が増えてゆくんです。簡単なことでしょ。それを禅では、『平常心是道(へいじょうしんこれ“どう”)』という言葉で表します。この言葉は、唐代の南泉普願(なんせんふがん)が弟子である、後に『喫茶去(きっさこ)』という言葉で知られるようになる趙州従諗(じょしゅうじゅうしん)の「道とはどのようなものですか?」という問いに対して発せられた言葉で、詳しくは『無関門』第十九則を読むと良いが、少し難しいかもしれないな。まあどんなに難しい内容でも同じところを100回読めば自然と解るよ。人間の頭は凄いんだ。試してごらん。そこが解ると、『臨済録』に出てくる『無事是貴人(ぶじこれきにん)』という言葉が、今・此処で出来る事に成り切って全力で、結果など考えずに事に当たること、とうことが解り、それが、社会が必要としている『当てになる人』のことであり、「無事是れ貴人なり。ただ造作することなかれ。ただ是れ平常なれ。」という真理が解るんだよ。
繰り返しますが、『当たり前の事』をあれこれ考えずに『当たり前』にする。それが“平常”であり“無事”
ということんなんです。それは、如何なる場合でも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく受け入れ、瞬間瞬間で処置して行くことなんです。当たり前の事ですね。
『真理』とは、実に平凡な事の中にあるんです。しかし、それは極めて非凡なことなんです。言い換えれば『平凡は非凡の中にあり、非凡は平凡の中にあるんです。というと、数学好きな人がウズウズするでしょう。実はね、私の場合は中学時代だったけど、般若心経、ガモフ、アシモフ、アインシュタイン、ガストン・バシュラールに夢中だったから、今の君達の中にもそんな人が居ると思うので、ヒントをあげます。『真理』を解き明かすために『事実』を追って追って追い続ける“科学”という入り口もあることを覚えておいてください。それを“禅”では『大道無門(だいどうむもん)』と言います。“道(真理に繋がる生き方)”は何処からでも入れるんだということです。科学好き、数学好きな人なら、『平常心是道・無事是貴人』を複雑系数理論で証明してごらん。ヒントはカオスとフラクタル、マンデンブロー集合。真理とは“青い鳥”のように実に平凡で身近なところで見つかるよ。哲学好きなら、先ずはデカルトを読んでごらん。音楽好きなら、青空の下で鳥の声が言葉として聞こえるまで聞いてごらん。美術が好きなら、目の前にある粘土を熱くなるまで捏ねてごらん。芸術全般が好きなら先ず「ゲーデル・エッシャー・バッハ」を読んでごらん。どこから入っても良いんだよ。『何が正しいのか、何が間違っているのか』。それを解るために真理を探究するんだからね。答えは簡単だからここで僕が答えておきます。『この世の中に、絶対的に正しい、絶対的に間違い、などということは無いんだよ』、あるのはね、『正しい考え方』があるだけなんだよ。さあ、僕が行ったことが本当かどうか、考えてごらん。君達は未だ2年生だから、少しは時間があるはず。受験勉強に入る前に、1週間で良いから、深く深く考えてみてごらん。実はね、それが受験勉強の頭のウオーミングアップになるんです。
一日一生 慧智(070313)
昭和47年某池袋の左翼組織の書記局で活動していた時期、老師から電報が来て、数人の“胆の据わった連中”が来るから会いに来いと呼ばれた。その時は「ハイ」と言えるような境涯になく無視するつもりが、何故か寺に引き寄せられ、気が付けば末席に坐らされ、正に“茶坊主”になっていた。その一人が、日本農士学校を創立者で東洋思想の研究と後進の育成に従事し財界リーダーの啓発・教化につとめ『平成』の年号考案者として知られている安岡正篤(やすおか まさひろ)で、他に小佐野賢治、檀一雄、金丸信など意味不明の集まりだったと記憶しているが、本堂で酒を飲んでいる様子から“怪しい奴等”という感じはあった。彼のことは後に知ったのだが、本当に胆の据わった男。明治生まれの哲人で、多くの名言名句を残している。その中で拙僧が気に入っているのが、『六中観』というもの。
●死中有活(身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある)
●苦中有楽(苦中の楽こそが本当の楽
●忙中有閑(忙中に掴んだ閑こそ本当の閑)
●壺中有天(確かな内面世界こそ壷中に天を持つ)
●意中有人(いつでも人材逸材を心に留めておく)
●腹中有書(腹の中には哲学、信念が体系化されてある)
と、拙僧は『六中観』を勝手に解釈している。その中でも『死中有活』は、今の心境・境涯にピタッとくる。
人間誰しも必ず死は来る。否、死ぬために生きるのが人間かもしれない。だからこそ、時間を無駄にせず一日一生の如く生きるのである。また、寺の名前である『活人禅寺』の由来は、碧巌録の「活人剣 殺人刃」の行が繋がる大慧語録に出てくる『活人何必剣(かつじんかひつけん)』、「活人は何ぞ必ずしも剣ならん」とも読み、意味は「人を活かすのに(悪心を切る)剣が必要とは限らず、本当に優秀な者は、何もしないでも人を作る」というものなのだが、何故か安岡正篤が“その人”を連想する。
一日一生 慧智(070307)博多にて
南院和尚が「諸方の師家は啐啄同時の眼はあるが、用(はたらき)がない」。そこで僧が「啐啄同時の用とは何ですか」と尋ねた。すると「作家(さっけ:やり手の事)の禅者の出会いは啐啄しない。すれば同時に失う」と。
僧「その答えは私の質問の答えではありません」と。
南院和尚「では、お前の質問はなんだ」。
僧「失いました」
素晴らしい遣り取りですが、僧は独り善がりで、和尚の心が通じなかった。僧の行脚の折、似た様な遣り取りをしている他の師匠と弟子の話を聴いて(人の振りみて我が振り直す)、南院の和尚に帰ったが和尚は遷化されていた。そこで、南院の後継者である風穴(ふけつ)和尚に、経緯を話すと風穴和尚は「啐啄同時の用は解ったか」と尋ねられ、「あの時は、“燈火の影”を歩いていて、ハッキリと照顧できませんでした」と。風穴和尚はそれを聞いて「啐啄同時」を証明した。
さあ、今日は燈火の影を示すので、坐ってください。
一日一生 慧智(070307)
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