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2007年3月

●『雨奇晴好(うきせいこう)』

●『応無処住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』

●『悟』と『悟後』の連続性について問う、とカナダのネット禅士から迫られた。

●活人禅寺(慧智)流の“癌封じ”法

●ゆっくりと味わって欲しい“和讃(日本で日本語で作られ経の一種)”の一つ『菩提和讃』

●『百尺竿頭進一歩(百尺竿頭に一歩を進む)』を解りやすく、と問われて。

●『活きる生き方』を教えてというネット禅士からの質問に応えて

●“癌(ガン)とともに生きる


●『戒定慧(かいじょうえ)』

●『無宗教』を自慢する人に出会って

●『“美しい国”に必要なのは道徳?、教育?、それとも禅?』に関する無駄話

●如何なる化『菩提心』に応じて

●真理は平凡に宿る(高校生に言い残したいこと)

●『セレンディピテイと“禅”は不可分不可同』

●六中観を思い出して

●『啐啄同時用(そったくどうじのよう)』伝統録


●歩歩是道場(ほほこれどうじょう)

●可惜一杯茶(惜しむべし一杯の茶)

●悠々閑々灑々落々(ゆうゆう・かんかん・しゃしゃ・らくらく)

直心是道場 歩歩是道場

 

【前の記事】

 

2007年03月05日

●歩歩是道場(ほほこれどうじょう)

托鉢.JPG

托鉢.JPG

どんな山中の閑静な処にあっても、心に妄想や邪心があっては、其処は“道場”とは言えない。
『歩歩是道場』とは、正直な心、素直な心で己事究明(己の本性をトコトン知ろうとすること)にあたれば、そこが何処であっても『道場』、即ち修行の場であるという意味です。
つまり、修行の場とは、己の内にあり、環境に求めるものではなく、真摯な態度で暮らす“行住坐臥(日常)”の一挙手一投足、歩みの一歩一歩であり、如何なる入り口も仏道(智恵)の完成への入り口であり道であり、一歩なのです。
さて、調布の勝さん、出家を考える前に、騙されたと思って、服装など何でも宜しいから、雨の日に、少しだけ遠出し、見知らぬ土地をカッパ(レインコート)姿で、何も考えずに涙が自然に出てくるまで歩いてごらん。己の本性を垣間見ることができるよ。先ずは、それから出家得度を考えても良いのではないだろうか。坊主は世捨て人の終着点ではないんだよ。
●ネット禅会に参加してる禅士からの質問に答えました。
一日一生 慧智(070305) 

 

2007年03月04日

●可惜一杯茶(惜しむべし一杯の茶)

一昨年、銀座で拙僧の“手慰み”の展示会を開いて頂き、沢山の方に見ていただいた。墨蹟だとか作品などとは程遠い、本物の“手慰み”なのだが、先ほどファイル探しをしているとふとしたタイミングの悪戯からその画像ファイルに出くわした。この写真である。誰が撮ってくれたのか、誰も居ない開館前の手慰みの写真に眼を奪われていると、ふと、五燈会元にある投子和尚(とうすおしょう)の行と我が師匠と拙僧の遣り取りが思い出された。

IMG_0822.JPG
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「森羅万象は全て這裏に在り」と投子和尚は弟子に茶を出した。すると弟子は、この茶を飲めば境涯の一つも言わなければならないと舞い上がり、咄嗟にその茶碗を跳ね飛ばして「森羅万象、甚麼処にかある」と和尚に迫ると、和尚は「可惜一杯茶」と静かに応えた。
 師匠と弟子とは24時間365日真剣勝負。写真の中に写っていた一枚、「円相」は師匠との思い出であった。師匠「何を書いたか」と、14歳の拙僧、悪戯に坊さんの絵を書き始めたそのときで、未だ頭の部分である○しか書いていなかった事をよい事に、「円相ですと言うつもりが瞬間的に言い換えて」、「森羅万象です」と。すると、師匠は即座に「良く燃えるから焚付けに使いなさい」と。そして、薬石の為に湯を沸かす時、それを竈にくべてマッチで火をつけた。確かに良く燃えた。火を見ていると『力』の意味が見えた。どんな物もどんな人も分相応の役割があり、役割が終わると役割が変わる。それが『生死(しょうじ)』であり、山川草木悉皆成仏なのだと気付いた。一休和尚なら「円相は煙相だな」とでも和ましてくれるだろうが、暗い土間で一人きりの拙僧には煙が目にしみて涙が頬を伝うだけだった。
一日一生 慧智(070304)

 

2007年03月02日

●悠々閑々灑々落々(ゆうゆう・かんかん・しゃしゃ・らくらく)

 禅者の姿の手本となる『悠々閑々灑々落々』とは、老子の道徳経の『和光同塵(わこうどうじん)」、十牛図なら十番目の『入塵垂手(にってんすいしゅ)、巷にあって衆生を直接に済度する』・・・の姿、生き方を表して、同義語は沢山あります。
禅者であれば『悠々閑々灑々落々』といえば布袋和尚を連想する人が多いでしょう。布袋和尚は七福神に『布袋さん』として描かれていますから、皆さんも達磨和尚や一休さんに次いで見知った顔でしょう。腹を出し裸同然の格好で杖と生活用具の一切を入れた大きな袋を持った実在した方です。
 禅の悟りに至った者は、法だ道だ悟りだなどと言わず、況や説法だの、仏だの、善だ、悪だなどという道徳じみたことも微塵も見せず、馬鹿か利巧か、偉いのか世捨て人なのか、仏なのか乞食なのか、まったく判らない境涯で、巷にあって、衆生にやすらぎや安寧を与え続けられることを理想としています。
 天真爛漫で無欲、無一物。食べられる時は食べ、食べられない時は、それを受け容れます。地位も財産も名声も安寧も求めず、利口ぶることも、威張るでもない。その上、誰に会っても笑いかけ、会った全ての人が“幸せ”を感じる。それが布袋さんであり、百尺竿頭に歩を進めた禅者です。拙僧も、と思うのですが体型にこそ不足は無いが垢だらけの身で説法など書いているようじゃね。『悠々閑々灑々落々』には程遠いな。トホホホ・・・。
一日一生 慧智(070302)

IMG_0763.JPG
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2007年03月01日

直心是道場 歩歩是道場

「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」(趙州録)の語は、もとは維摩経の中の「直心是道場」という維摩居士の言葉に由来している。修行は山中の閑静な処にあっても心に妄想や邪心があっては修行とは形だけで其処は“道場”とはいえないし、素直な心で一日一日を一生に準えて修行をするならば、そこが病院のベットの上であれ、事務所や街中のような喧騒の場であれ“道場”、即ち修行の場です。言い換えれば、ビジネスの世界に身を置いていようと、心掛け次第で一日一日が成長の過程となり修行の場となります。例え、満員電車に乗っている時でも、風呂に入っている時でも、心がけ一つで、そこが道場、修業の場です。縁の快川紹喜和尚の遺偈にも「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」とあります。
因みに、「歩々是道場≒直心是道場」で、「光厳童子という修行者が、騒がしい城下を出て、閑静な修行場所を探していた時、維摩居士に出会ったので、「どちらから来られましたか?」と訊ねると「道場から来た」という答えが帰ってきたので、空かさず「その道場は何処にあるんですか」と問い直すと、維摩居士は「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」と返答をしたことに由来し、「直心」とは素直な心、我見、我執のない真っ直ぐで無雑な心のことです。 
一日一生 慧智(070301)

 

 

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