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どんな山中の閑静な処にあっても、心に妄想や邪心があっては、其処は“道場”とは言えない。
『歩歩是道場』とは、正直な心、素直な心で己事究明(己の本性をトコトン知ろうとすること)にあたれば、そこが何処であっても『道場』、即ち修行の場であるという意味です。
つまり、修行の場とは、己の内にあり、環境に求めるものではなく、真摯な態度で暮らす“行住坐臥(日常)”の一挙手一投足、歩みの一歩一歩であり、如何なる入り口も仏道(智恵)の完成への入り口であり道であり、一歩なのです。
さて、調布の勝さん、出家を考える前に、騙されたと思って、服装など何でも宜しいから、雨の日に、少しだけ遠出し、見知らぬ土地をカッパ(レインコート)姿で、何も考えずに涙が自然に出てくるまで歩いてごらん。己の本性を垣間見ることができるよ。先ずは、それから出家得度を考えても良いのではないだろうか。坊主は世捨て人の終着点ではないんだよ。
●ネット禅会に参加してる禅士からの質問に答えました。
一日一生 慧智(070305)
一昨年、銀座で拙僧の“手慰み”の展示会を開いて頂き、沢山の方に見ていただいた。墨蹟だとか作品などとは程遠い、本物の“手慰み”なのだが、先ほどファイル探しをしているとふとしたタイミングの悪戯からその画像ファイルに出くわした。この写真である。誰が撮ってくれたのか、誰も居ない開館前の手慰みの写真に眼を奪われていると、ふと、五燈会元にある投子和尚(とうすおしょう)の行と我が師匠と拙僧の遣り取りが思い出された。
禅者の姿の手本となる『悠々閑々灑々落々』とは、老子の道徳経の『和光同塵(わこうどうじん)」、十牛図なら十番目の『入塵垂手(にってんすいしゅ)、巷にあって衆生を直接に済度する』・・・の姿、生き方を表して、同義語は沢山あります。
禅者であれば『悠々閑々灑々落々』といえば布袋和尚を連想する人が多いでしょう。布袋和尚は七福神に『布袋さん』として描かれていますから、皆さんも達磨和尚や一休さんに次いで見知った顔でしょう。腹を出し裸同然の格好で杖と生活用具の一切を入れた大きな袋を持った実在した方です。
禅の悟りに至った者は、法だ道だ悟りだなどと言わず、況や説法だの、仏だの、善だ、悪だなどという道徳じみたことも微塵も見せず、馬鹿か利巧か、偉いのか世捨て人なのか、仏なのか乞食なのか、まったく判らない境涯で、巷にあって、衆生にやすらぎや安寧を与え続けられることを理想としています。
天真爛漫で無欲、無一物。食べられる時は食べ、食べられない時は、それを受け容れます。地位も財産も名声も安寧も求めず、利口ぶることも、威張るでもない。その上、誰に会っても笑いかけ、会った全ての人が“幸せ”を感じる。それが布袋さんであり、百尺竿頭に歩を進めた禅者です。拙僧も、と思うのですが体型にこそ不足は無いが垢だらけの身で説法など書いているようじゃね。『悠々閑々灑々落々』には程遠いな。トホホホ・・・。
一日一生 慧智(070302)
「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」(趙州録)の語は、もとは維摩経の中の「直心是道場」という維摩居士の言葉に由来している。修行は山中の閑静な処にあっても心に妄想や邪心があっては修行とは形だけで其処は“道場”とはいえないし、素直な心で一日一日を一生に準えて修行をするならば、そこが病院のベットの上であれ、事務所や街中のような喧騒の場であれ“道場”、即ち修行の場です。言い換えれば、ビジネスの世界に身を置いていようと、心掛け次第で一日一日が成長の過程となり修行の場となります。例え、満員電車に乗っている時でも、風呂に入っている時でも、心がけ一つで、そこが道場、修業の場です。縁の快川紹喜和尚の遺偈にも「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」とあります。
因みに、「歩々是道場≒直心是道場」で、「光厳童子という修行者が、騒がしい城下を出て、閑静な修行場所を探していた時、維摩居士に出会ったので、「どちらから来られましたか?」と訊ねると「道場から来た」という答えが帰ってきたので、空かさず「その道場は何処にあるんですか」と問い直すと、維摩居士は「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」と返答をしたことに由来し、「直心」とは素直な心、我見、我執のない真っ直ぐで無雑な心のことです。
一日一生 慧智(070301)