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2007年4月

●良寛和尚の『我生何処来』を思う

●自由とは“即今日眼前聴法底”の己の姿

●『長者長法身、短者短法身』(長者は長法身、短者は短法身)

●『無差別 無分別』って神を冒涜する和尚のような“悪者”のことです、という高校生からメールで受けたので、少しだけ説明をします。

●『一切皆空』故の『行』

●日系アメリカ人からの回答「アメリカ人であることは誇りです。」

●質問「和尚はアメリカという国が嫌いなんですか?」と27歳の日系アメリカ人。

●山花開似錦 澗水湛如藍(碧巌録第八二則 大龍堅固法身)


●坐禅の要諦は『無我実現≒自己実現』

●『毒薬変作醍醐(どくやくへんじてだいごとなす)』

●禅は、事実を『みる』、『きく』ことが先ず第一。

●『帰到家山即便休(かざんにかえりいたって、すなわちきゅうす)』碧巌録六十四頌

●『日月雖有清明 不照覆盆之下(じつげつにせいめいありといえども、ふぼんのしたをてらさず))』

●『不許夜行 投明須到(やこうをゆるさず、みょうにとうじてすべからくいたるべし:碧巌録41本則より)』

●『飲水貴地脈(みずをのんでちみゃくをとうとぶ:虚堂録)』

●薬師の十二請願(薬師本願功徳経・薬師経)を『企業経営者の使命』に投影する。


●禅は、己の外に願わず、己に誓うことを『四句請願』を通じて学ぶ

●『空』『不』『無』について

●『信じる事、疑う事』の意味

●『ことばにも色に出して候ては、用心になり申さず候』と沢庵和尚が言った。

●“生きながら仏になる道(菩薩道)”を教えてくださいという必死の声に応える。

●言葉の怖さ故の『不立文字』か。

●聞声悟道、見色明心

●競い、争うこと毋れ


●年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず・唐詩選)

●愚かなほどに素直に生きると幸せが・・・。

●“禅”と“悟”のノウハウ

●今日は“憲法記念日”?

●『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』

●”七歩歩んで天上天下唯我独尊”とお釈迦様は生まれて直ぐ歩いて喋ったと聞きましたが信じられません。本当ですか。(墨田区・中学生)

 

【前の記事】

 

2007年04月13日

●禅は、己の外に願わず、己に誓うことを『四句請願』を通じて学ぶ

 坐禅の前に、自らの誓いを口から発して耳にフィードバックさせて、意志を再確認させるのが『四句請願』です。今日は、“四句請願とは”について話します。
なお、明日は拙僧が魅了される薬師の十二請願を講話を予定します。
今日は、取り立てて説明をしません。
ネット禅会で実践してください。

■四句請願
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん・せいがん・ど)
煩悩無盡誓願断(ぼんのうむじん・せいがん・だん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう・せいがん・がく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう・せいがん・じょう)
4句を最低三回は繰り返す。

■四句請願の慧智流の“超訳”(何を、誰に誓っているのか)
生きとし生けるものを救い幸せに導くことを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。
己の尽きることの無い邪な欲望(邪心)には負けないということを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。
釈尊の発見した真理(宇宙の法則)をあらゆる場所の体験を通じて学び尽くすことを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。
正しい智慧、正しい生き方を獲得するために生きることを、私は宇宙の一部であり全てである己の全身に誓います。

一日一生 慧智(070413)
★追記
起きぬけに書いた部分に誤りがありましたので、修正しました。

 

●『空』『不』『無』について

 般若心経に限らず、『教』を後世に確実に送るための『経』、仏教経典には、『空』『不』『無』という言葉
が沢山出てきます。何とは無く“似たような”考え方に基づいているのだろうな、と多くの方は思っているようです。そこで、今日はそれらについて話しましょう。
 先ず『空』とは、『一切皆空』の“空”であり、釈尊が発見した真理を示し『全ては実体が無く、全ては現象である』ことを意味します。恰も『量子力学』の中心概念のようです。「実体が無い」ものは「無常」、変化しないものはありえません。言い換えれば「全ては変化するが、増えもせず減りもせず、ということです。分子は元素、原子、核と電子、素粒子、量子と細分化され終には『4つの力』に帰着します。つまり“全ての物(者)は一時的な現象です。例え、それを我々の五感で現認していても想像がつく通り、永遠の存在(実体)ではなく宇宙の波動性と電磁性で一時的に現象しているに過ぎません。しかし、真実の実在ではなくとも現象しているのですから『色即是空であるが空即是色』と考えます。有るけど無い、無いけど有るという状況は“空”、“力”だから実現しているのです。つまり、物として確認しているのは“事(現象)”の仮の姿です。宇宙の本質こそ『空』なのです。以下『不』も『無』も『空』を前提として、経験的に確認できる“物”も“事”も一過性の現象という考えが下敷きになります。
 ですから、『不』は、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」などが代表的な使い方で、現代日本語の使われ方で「不自由」を“自由が無い”と解するか“自由でない”と解するかで微妙に差異が生じますが、仏教用語としての『不』は、「~しない」「~でない」のように使われていて、“実体が無い”という考え方の延長線上で使われています。つまり、不生不滅、不垢不浄、不増不減は、「生じるという事実はないし滅するという事実ははない、汚れるという事実はないしききれいになるという事実はない、増えるという事実はなく減るという事実はない」。つまり、“実は変化するという事実も無い”という考えが投影しているのです。
 となれば『無』は、“実体は無い”ことを意味し、日常経験の世界のもろもろの存在物は、実体が無い、ということです。在していないのです。これを「無」という語によって表しました。
 以上から、全ての“般若経典”に共通する概念で、智慧を伝え送る経においては、『一切皆空』という釈尊の“発見”を伝えているのですが、実は、『一切』という語は“例外は無い”ということから、釈尊と言おうが仏陀と言おうが、それもまた『空』であることが伝わって来ています。
諸君、トップぺージのある般若心経を、記憶に委ねて口をパクパクするのではない、今日はしっかりと読んでください。
一日一生 慧智(070413)

 

2007年04月12日

●『信じる事、疑う事』の意味

二見は危険であるが、極論を示した方が理解しやすいので、『信じる・疑う』すなわち禅で言われる『大疑大悟』について話します。 
西洋(キリスト教文化)の思考様式の特徴は、神を信じ、他人や事象(事実)を疑うことが基本。
東洋(仏教文化)の思考様式の特徴は、他人や事象(事実)を信じて、自分を疑うことが基本。
さて、皆は、この表現を信じるか。受け容れるか、拒絶するか。
仮に、“信じ”という部分を“受け入れ”と変えたらどうだろう。
『清心万能・邪心万危』という教訓がある。
これは、性善説の発想と理解するか、性悪説の発想と理解するか。
仮に、会社で上司に怒鳴られた。その時“悪い上司”と思うか、“自分が悪い”と思うか。場合により異なるだろうが、何れが“学び”が多いと思うか。
人には、外向型と内向型、他責的(型)と自責的(型)という心理学的傾向があるが、何れが成長にとって効果的か。
信じる事は愛すること、愛することは信じることか?
疑う事は拒絶すること、拒絶することは疑うことか?
デカルトが提唱した『方法論的懐疑』は、彼の言う“真理”に到達するために疑うという“方法論”としての懐疑であり、全てを事実を疑い、疑問が晴れたもののみが真理であるという考え方だ。
皆は、これに同意するか。
仏教の『懺悔(SANGE)』とキリスト教の『懺悔(ZANGE)』、読み方も違えば意味も違う。
皆は、理解できるか。
さて、本題である。
以下は、ご存知の四句請願と対となる懺悔文(さんげもん)である。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かうゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいそしょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

表面的な意味は、以下の通り。しかし、『悪の認識』は意識的か、無意識か。そもそも“悪”とは何か。また、“悪”の対極が“善”か。考えてみると良い。とは言っても、考えて解るものではない。本日の講話の内容は頭で解ってもの、それは生きる意味を見出せない。坐る以外にはない。暫くは、坐禅三昧でいて欲しい。少々体調が思わしくなく、辻説法が途切れ途切れになるかもしれないので。
『私の父母が生まれる前の私は沢山の悪い事をしています。それは真理をしらない無知が原因で、日常の動作や言葉や考え方を通じてのことです。己に降りかかる全ては己の心の問題であり、真理に目覚めていなかった事を悔い改めます』と意訳したが、誰に対しての言葉か。
一日一生 慧智(070412)

 

2007年04月11日

●『ことばにも色に出して候ては、用心になり申さず候』と沢庵和尚が言った。

さて、表題の句は誰に向けての言葉だろう。
ネット禅士であれば、そう考えてしまうだろう。
だが、そう考えた瞬間に、否、それは万民に向けた言葉だ、と考えられないと禅者としては半人前。
言葉は、発する側と受け取る側では意味内容が異なる。
だからこそ、禅では不立文字、直指人心、以心伝心・・・を戒める。
つまり、凡夫には「お前の警戒心は見え見えだぞ」。
菩薩には「心が顔に出ているぞ」。
聖人には「本当に捨てるものはもうありませんか」となる。
言葉というものには解釈の幅があり、六道を用いて方便的に解説すれば、
①「地獄界」では言葉は嘘の道具ゆえに言葉すら受け取らない。
②「餓鬼界」では言葉を笑い飛ばす。
③「畜生界」では意味が理解されない。
④「修羅界」では言葉の裏が読まれる。
⑤「人間界」では言葉通りに受け取られる(真意は伝わらない)。
⑥「天界」では、言葉が発される前に真意が伝わり、(拈華微笑)、真意は、その言葉を更に洗練させて一転語に翻訳されて後世に残される。(不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏)
お前さんたちは、どの様に受け取ったかな。
さて、後先になったが、沢庵和尚の言葉の表面上の意味は「言葉や顔色に出してしまっては用心にはならませんぞ」。人間的な解釈は「万一に備えて警戒するだけではなく、その「警戒心」を相手に気付かれないようにしなければ警戒の目的は達しませんよ」ということだろう。
 禅の教えにある修行中の菩薩(お前さんたち)は、「無念無想無住」の一歩手前,心が「空」の前の「無」のような状態にあれば「警戒心があるうちは無心ではないよ」と受け取れるはず。十年も坐っていれば「警戒心をも捨てて心が空っぽになっていれば如何なる場合でも最適な行動が取れる」と受け取れたはず。そして、そこから“在家のゴール”と“出家のゴール”の違いを悟り、在家が目指すは菩薩禅、出家が目指すは如来禅の意味が廓然無聖、カラッとはっきりと観えたはず。と同時に「不可分不可同」が浮かび、表裏一体の言葉が飛び出て、川の手前、竿の上と川の先、竿頭の一歩先の違いが観えたはず。このように解るのが“観音”、音が観えるという状態。この感覚は体験してみないと解らない。方便では(俗的な言い方)をすれば、“凡夫禅・野狐禅、秀才禅と天才禅”のような二見的な表現になるだろう。勿論、天才も秀才も凡夫も皆、人間。欠くべからざる宇宙の要素であることは真理。「不生不滅・不垢不浄・不増不減」。
一日一生 慧智(070411)
★追記
昨日、理由はわからないが4年間で最高数のアクセスがあったようだ。これもインターネットという地球の神経系が動き出している証拠かな。だとすると地球の内分泌系、免疫系も近い内に健全化するかな。まあ、100年は黙って見ていよう。

 

2007年04月10日

●“生きながら仏になる道(菩薩道)”を教えてくださいという必死の声に応える。

世俗の常識を全面的に受け容れると、人は夫々、夫々に夫々の人生の目的があり、当然に目標がある。
目的は、目標の集合で、目標の全部が達成された時、目的は自動的に達成する。
目的を達成させるための行為の全てを総称して、戦略という。
目的達成の節目ないしは重要な要素である通過点に合理的に置かれた目安を目標という。
目標を達成させるための行為を戦術という。
目標達成の手段である戦術は、標的単位で戦闘という行為が行なわれる。
つまり、『戦闘は標的を射止める行為、戦術は目標を達成させる行動、戦略は目的を達成させる活動』で、それらは階層化されており、論理学的に正しいことを要件として成立する。
そして、それらの知見の源泉は“軍事技術”が整理され洗練された結果“経営”の概念となっている。
つまり、国家経営も、企業経営も、組織経営も、家庭経営も、人間経営も、哲学という原点、思想という枠組みをもった上で、それらに対して論理的で合理的であることが絶対条件である。
なお、それらの哲学・思想・目的・目標・標的・活動・行動・行為に一貫性を互換性を担保しつつ進捗を計画し実施状況を調整して統合するもが“管理”であって、経営=管理、管理=経営は成り立たない。
また、それらの階層分化を設計する上での必要条件は、米国のコンサルティング会社であるマッキンゼー社が『Mutually Exclusive and Collective Exhaustive(相互に重なりなく、全部集めたら漏れがない)』がコンセプトとして提言した、と言うか論理学の世界では“当たり前のこと”をである、略称『MECE(ミシー)』という構造になっている論理構造図(ロジックツリー)が完成していなければならない。
更に、社会構造に言及すれば、目的達成をために編成されるのが社会組織であり、目的と規範がない集合は集団に過ぎない。このことは、全ての組織に共通する概念であり、家族という組織もまた同様である。
 因みに、家族とは最終的に解散することを暗黙の内に共有している核(単位)家族と、貴族や富豪一族のように解散を前提とせず拡大を前提とする形態を“家”ないし一族(華族ないし豪族ないし伝統的家族)という。故に、核(単位)家族は、相続を前提とはしておらず、従って資産形成が目的とはならないので、必然的に消費傾向が高まり、蓄財より費用対効果の確実な教育などのサービス消費が重んじられ、“家(一族)”に置いては、資産の継承を重視するために、耐久消費財への消費はありが、基本的には土地や金融商品などに関心が向けられ、蓄財傾向が高まる。
横道にそれたので話題を戻す。
上記のような論理展開を理解し、目的が決まれば、それに必要な戦略の大枠は決まり、戦略が決まれば自動的に組織構造が決まるというのは自明の理である。
そして、企業などにみられる組織構造は、目標単位で纏まりを作ることを要件としている以上、目的達成責任者である代表者と組織目標達成責任者である管理者が置かれ、目標達成責任者がその請け負った目標を全て達成すれば、組織の目的は自動的に達成することとなる。
故に、目的達成責任者は、部下である目標達成責任者の目標達成を支援するのが使命であると断言できる。
◆以上のような概要を詳細に解説し、個別の事例を調査研究し、クライアントの要求に従い、組織を設計したり、人材編成を行なってりするのが、在野での小林惠智の仕事のひとつである、ただ、現実的には『経営』という「仏教用語を語源とする統合的教育活動」の全般を担うことになり、在野においては、それらは“科学(方法が正しければ同じ成果が出る)”であることが当然のように要求されている。所謂“普遍性”の探求が、在野での私の仕事である。質問者は“それ”つまり、回答者が置かれた立場を理解して置いてください。
注記) 経営とは、『予め設定された目的・目標を日々の営みを経て達成させること』というのが定義である。

さて、巷で考えられている経営が完璧であったにしろ、それで“心”が満たされることはない。私は、それを全身で体験し知っている。解りやすく言えば、理科の実験室でレシピ通りに作られた料理を、シャーレやフラスコや試験管を食器として使う食事のようなもので、安全で安心故に、頭で考えれば最高の出来栄えであっても、それは味気なく、況や“心”が満たされることは決してない。況や、それを満腹な状態で食べたり、嫌いな食材が入っていたら“食糧”として、物理的エネルギー源としては十分だが、最も大事な要素が抜け落ちていることになるのは容易に理解できるだろう。
 そこで、頭と体、心身二元論が前提にある“科学”を幾ら寄せ集めても、人間を幸せには出来ないということ多くの科学者に理解され、二十年程前の『線形科学から複雑系(非線形)』という考え方が芽生え、同時に研究が始まり、結果として当時最も最先端の科学であった素粒子論、分子物理学、現在では量子論力学(量子論は科学と哲学が止揚された究極のアプローチ)は、“物”を中心に置いた二元論を疑問視することとなり、蹴った敵に二元論という“有無”の論理体系は無力化し、“力”を中心においた一元論の世界に足を踏み入れてしまった。その最初がサンタフェ研究所の前身であり、私がFFS理論を提唱する切っ掛けとなった戦略研究所の仕事であった。
 つまり、その時点から限界に達してしまい、限定的な合理性すら担保できなくなった科学が、無作法にも“頭で考える禅”、俗称でビート禅などと呼ばれている世界に足を踏み入れ、“禅の考え方”が、東洋思想から世界思想へ、思想のデファクトスタンダードに向けて動き出したのは事実である。ところが、一部の頭でしか理解していない修行体験を持たない一部の禅者は、それに気を良くして、有頂天となって『古い神が死に、新しい神が創造された』などという暴言を吐き、それがローマ法王庁の心を逆なでし、禅はバチカンから弾き出され、今日では嘗てのマイノリティの地位に後退してしまった。しかし、「それでも地球は回る」と言い続けているのが海外で修行を続ける“ZEN者”なのである。なお、その“新しい神”とは、“力”を意味しているのであって、父母未生以前の己であり、新しくも古くも無く、始まり無く終わり無く、減る事無く、増える事も無い“本質”なのである。その辺りは質問者が、本気になって般若心経を読めば解るだろう。
 話を進めるが、私は、前出の科学者同様に、『禅』を伝統サイドからのみ見ている禅僧ではない。禅の本来は全ての表現は固有であり、真似事を極端に嫌い、過去に固執し、師の言葉に拘り、偏った考えで自由を放棄することをもっと卑しむ。つまり、それでは禅僧ではないのである。『A≠AでないからAである』と書けば、聡明な相談者には類推できるだろう。ところが、既存の宗派は、自由闊達であることを伝統を危うくするものだとして嫌った。禅の伝統は生身の人間の成仏(生きながら仏になること)であり、革新であるはずなのだが、である。
 故に拙僧は“逸れ坊主”となり本山系からは異端扱いされ、禅僧であるが故に、現行法の中で法人格を必要となり、結果的に自身で宗派を立てざるを得なかったのである。勿論、それこそが“本物の禅僧”と確信しているし、葬式仏教との決定的な決別をも意味している。
 つまり、『禅』は今此処を生きている者が“幸せ(大安心)”に生きて行くための方法論であり目的論ということなのであり、“坐禅”は、その方法であって同時に目的なのである。
 更に付け加えて言えば、“禅”は、現代において最先端の知識を超えた“生きる智慧”なのである。なお、智慧は頭に蓄積記憶され再生される単純な知識ではない。しかhし、それらの知識は智慧を得るための通過点、捨て切る素材としては必ず必要であり、無知であってはならないのは事実である。例え話であるが、知識・地位・資産を得て、それを守ろうとする心こそが不幸であることを体験できないと、全てを捨て去り“大安心”の体験をすることは、本質的には出来ないのが凡夫の悲しさである。なお、誤解が無いように付け加えるが、出家得度して禅堂で最低でも十年暮らせば、如何なる凡夫であっても“本質を全身で悟り、智慧を得る事は無限である。
 話はまだまだ途中だが、質問である「生きながら仏になる道(菩薩道)」はに対する答えを、杓子定規に表現すれば、『本来無一物』を生きるなさい』としかいえない。
 しかし、その前に、一人ひとり、誰をも例外にせず与えられている個人固有の能力(強み)を発見し自覚し、今此処で活かし切り、自分に与えられた能力を出し切りましたか、と問いたい。
もし、未だに出し切っていなければ、俗世間で納得できる成果(大目標と言っても良い)は、実現できていないはずで、そんな状態を、禅を利用して脱出しようと考えるのは100年早い、と言いたい。
だから、逃げることではなく、先ずは、成功を勝ち取るまでは、在野の規範、“科学の世界(ニュートン力学の世界)から足を踏み外してはならないのである。
それは野球の試合は、野球のルールに従い、相撲は相撲のルールで行なわなければならず、野球に相撲のルールを適応させては野球にならないからである。そして、野球選手として技術的に秀でて、実力者として評価されても、野球は人生の一部であり全てではないのだかから、究極の幸せ(大安心)には至らないことを実感できるのである。
例えば、京セラの稲盛氏が、何故、得度し禅の世界に足を踏み入れたか、元総理の中曽根氏が・・・。成功を極めた人々、最先端の科学者・・・。彼らが何故“禅”の道に、在家であるか出家であるという分別差には関わりなく踏み込んで来た理由は、お分かりだろう。
付け加えるが、お金や地位は、使うためにある。ただ、自分の為に使ってはならないことを肝に銘じておくべきである。私は、師から、そのように教わってきたし、納得も出来ているので実行している。それが社会にどの様に映るかは、受け取り評価する側の人間の“心”次第である。
「素直に生きる」「社会の為に生きる」と松下幸之助氏は言った。成功したからそのような発言が出来るようになったのではなく、そのような心で働いていたから成功したということを理解しておいて欲しい。
◆拙僧が思う有質問への究極の答えは以下の通りである。
生きながら仏になるためには、『一日を一生に準え、謙虚に、真面目に、誠実に今の仕事を徹底し、一日30分でも良いから、静かに坐って(坐禅)、呼吸と姿勢を整え、心の乱れろ毎日修復すること』です。
当たり前ですが、己の体を風呂に入れのは誰ですか。心も同様です。心身一如なのですから。故に、場所は何処でも構わないので、風呂場でも結構です。安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もまた涼しである。
因みに、禅寺では、古来から“浴室(風呂)・東司(便所)・食堂(ダイニング)”は三黙堂と言って、坐禅と同じように厳粛に無言の修行の場となっていることからも“修行は日常に潜んでいる”ということは想像はつくだろう。
 
 以上、少々長くなりましたが、定年後の仕事と人生で迷われているというメールを頂き、結論は貴方が出すにしろ、団塊世代の大量退職の時代に、仕事と人生を考える方々のヒントになればと、同世代の人間として体験を書き残しました。
 最後に一言:“死ぬまで現役”、“死ぬまで全力”を心に、気張ることなく淡々と持てる能力を使い切りましょうよ!
一日一生 慧智(070410)

 

2007年04月08日

●言葉の怖さ故の『不立文字』か。

 今朝、テレビで“absolute(absolution)”を、“実体(実態かもしれない)”だと、わざわざコメントを付加して訳した大学教授がいた。その瞬間、私は“これだ!”と思った。
 そもそも“absolute”はラテン語に起源を持つ英語で、[ab+solute]で、 概念的には、全ての力から完全に解き放たれた絶対的独立であり、疑う余地の無いことを示す副詞ないし形容詞で、名詞的には『原理・原則』となる。そして、哲学用語では『何者にも依存しない』という概念を持ち、キリスト教の影響下にある思想用語では『絶対者、神、実体』という意味で使われる。
 この程度は高校生の英語の授業で出てくることで、取り立てて大騒ぎする必要はない。所詮、英語を日本語に、日本語を英語にするような意訳の場合は“曖昧性”が拭えないことは誰しもが知る大前提で、「経営をマネジメント」と訳すような的外れは日常茶飯事なのである。
 今朝、気付いたことは“無知を自覚できていない権威者(知識人・文化人を含む)”が、大衆に向かって“誤り”を述べ、大衆はマスコミを通じた権威者の言葉に強く影響を受けることであり、悪意の無い権威者が無知な大衆に対して送る言動が誤りを定着させてゆくということに危惧した。
 拙僧は、決して権威者ではない。しかも悪意も無い。ただ、拙僧の体験から得た“幸せ(≒大安心)に至る道”を『千日説法修行』として語っているだけで、如何に言葉を尽くしても“一坐の効”には及ばないことを感じて頂き、『坐禅』の素晴らしさを伝えているだけである。“ホッとする禅語”のような優しく思い遣りに満ちた言葉も、相田みつおさんのような心に響く素朴な“かな言葉”も提供できていない。否、“それ”をこの辻説法の使命としてはいない。
 しかし、考えてしまった。毎日100以上のアクセスがあったり、四分の三以上が新しい読者からのアクセスを考えると、そもそもネット禅会の禅者に向けて話から始まった“辻説法”が、今や私を直接知らない方々に読まれていることへの不安が芽生えた。
 『言葉』、それを書き残す『文字』は、便利だが危険な文化である。『以心伝心』『直指人心』・・・。それが禅会なのだが、インターネットを通じての禅会にどれ程の価値があるか。白隠禅師の坐禅和讃は、ネット禅会を前提にはしていない。しかし、釈尊や達磨、臨済の祖師は“それ”を含めて伝えてくれていたのだ。
 春になりました。ネット禅会の方々も、一度は寺の禅会に参加し、親しく同じ空気を吸い、同じ物を食べて雑談に興じようではないか。
 禅会参加や禅に関することは、info2@seppou.site にメールしてください。皆様の基準からすれば“愚か禅僧”かもしれないが、持てる全ての力を提供しようとしている意欲だけは信じて欲しい。
 “言葉の力”は両刃の剣。活人剣であり殺人刀。されど“両亡”。これを如何に言葉で伝えるか。それが拙僧の永遠の課題。
一日一生 慧智(070408)

★追記
アップロードしてから、ふと気付いたのですが、TVで発言した彼は、哲学では類似の概念を示すことから、「substance」を「absolute」と単純に良い間違いただけなのかしれない。とするなら、拝物主義者なのかもしれない。
★★追記2
一日中“水”を飲んでいた。痛みは激減し、体温は37度。すこぶる快調。明日は忙しくなる。それにしても土日祝祭日は、気が緩むためかダウンしている。もったいない。諸行無常、光陰可惜、時不待人、と時は金なり・・・。最近は坐睡をしていると太腿が鬱血し、腰に鉄板が差し込まれたようになるので、坐禅すら一炷がやっと。しかし、寝込んでいては“無駄死”になる。
★★★追記3
2003年4月7日が“虫(無私か、無死か)の知らせ”で書き始めた『辻説法』の始まり。今日から“5年目”に入る。
2003年12月24日が末期癌の宣告を受けた日。
2004年6月25日が、命日の予定日。
2007年6月25日を越えれば・・・・今日から、また“一日一生”を積み上げよう。

 

2007年04月07日

●聞声悟道、見色明心

 禅の世界に『聞声悟道 見色明心(もんしょうごどう、けんしきみょうしん)』という雲門和尚の言葉があり
ます。「声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らかにする」という意味です。勿論、連綿と続く生命38億年の歴史を踏まえ、全身で聞き、全身で見なければ『聞声悟道 見色明心』はない。
 我ら、高々数十年の狭い狭い個人的な意識体験では、数千年の“知の体系”である学問にすら及ばないのは自明の理である。
 もし、白隠禅師に問えば、「鐘の音な何て言っている、カラスは何と鳴いている」と教えて下さるだろう。もし、盤珪禅師なら「花の香りは如何なる色か」と言われるかもしれない。
 つまり、見聞きする日常を師として、先入観、決め付け、拘り囚われた偏った“頭”ではなく、150億年の宇宙の歴史、38億年の生命の歴史が刻まみこまれた“60兆個の細胞の共鳴”である“全身の智慧(無の心)”で聞き、見る時に『父母未生以前の本来の己』、即ちマクロ宇宙の部分であり、ミクロ宇宙の全体である己、正に“主人公”でなければならない。
 それには、どうするか。“坐る”こと、全身を“禅”にすることである。
 つまり、戒や律に従って生活を整え、身体を整え、姿勢を整え、呼吸を整え、深い三昧(脳はα波状態)に入り、一日一日を一生に準え、眼の前のご縁に全力で取り組む。すると、求めなければ『般若の智慧』に至る。求めない理由は、稚拙な知識や高々の体験や経験、世間の常識という先入観の源泉を“捨てて捨てて捨てまくる”からだ。すると、ある時に見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりする何かが、全てを気付かしてくれる。
◆表題の出典は『従容録第八十二則 雲門声色』。
衆に示して云く、声色を断ぜざれば是れ随処堕、声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。路に就いて家に還る底あること莫しや。
挙す、雲門衆に示して云く、『聞声悟道、見色明心』、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭。
頌に云く、門を出でて馬を躍らしめて讒槍を掃ふ。万国の煙塵自ら粛清。十二処亡ず閑影響。三千界に浄光明を放つ。
禅士よ。今日のネット坐禅の前に声を出して100回読んでみなさい。必ず何かに気付く。
一日一生 慧智(070407)
報告:本日、朝方から激痛(鼻毛を千本抜いた位)と高熱(体温計の目盛りの上限に近い)を楽しんでいる。何か宙を飛んでいるようで趣がある。
 品川五畳菴にて

 

2007年04月06日

●競い、争うこと毋れ

雲水時代の慧智.JPG

雲水時代の慧智.JPG

 無知で怠慢な者は、“社会的手抜き現象”と言われる行動を無意識にとる。どういうことかと言えば、スポーツなどを思い出せば直ぐに解る様に、自分より非力な人間と競争する時には全力を出さないし、明らかに技量が勝っている相手と競争する場合は、最初から諦め、これも全力を出さない。まあ、“兎と亀”の競争でも同じようなことがあり、それが屡のことであるから、長い間に“教訓”となっている。勿論、“環境や状況に合わす”というのが術語の本意であり、無意識の平均化である。『禅』はこれを徹底的に嫌う。
 私が師からトコトン仕込まれたのは、正に“社会的手抜き”はするな、ということ。それを『勉強や仕事、つまりは“修行”を通じてトコトン自分を磨き上げる』という表現が使われた。言い換えれば、昨日より今日、今日より明日、自分で解るように成長しろ。それが己事究明になる。お前はお前の人生の主人公である。他の誰とも違う。磨いて磨いて鏡になるまで磨け。その為には、今・此処を晴れの舞台としてしっかりと“主人公”を務めろ。掃除の時は全身を雑巾にしろ。坐る時は富士の様に坐れ。 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」だ。その上で“心身一如、物心一如、自他一如”を生きろ。他人と比べるということ、真似をすることは罷りならん。頼まれたことは決して断らず、己が納得した方法で必ず実行しろ。風当たりが強ければ強いほど凧は高く上がる。
 30余年、このように生きてきたつもりである。しかし、まだまだ納得が行かない。最近、病のためか6時間程度の睡眠である。以前は数十年、3時間睡眠であり、仕事・勉学を半々としていた。・・・。
 今、古い写真が出てきたためか、そんな思いが湧き上がり、涙が頬を伝う。まだまだだな。否、人生は一生修行だな。寝込んでいる暇は無いな。
一日一生 慧智(070406)

 

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