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2007年4月

●良寛和尚の『我生何処来』を思う

●自由とは“即今日眼前聴法底”の己の姿

●『長者長法身、短者短法身』(長者は長法身、短者は短法身)

●『無差別 無分別』って神を冒涜する和尚のような“悪者”のことです、という高校生からメールで受けたので、少しだけ説明をします。

●『一切皆空』故の『行』

●日系アメリカ人からの回答「アメリカ人であることは誇りです。」

●質問「和尚はアメリカという国が嫌いなんですか?」と27歳の日系アメリカ人。

●山花開似錦 澗水湛如藍(碧巌録第八二則 大龍堅固法身)


●坐禅の要諦は『無我実現≒自己実現』

●『毒薬変作醍醐(どくやくへんじてだいごとなす)』

●禅は、事実を『みる』、『きく』ことが先ず第一。

●『帰到家山即便休(かざんにかえりいたって、すなわちきゅうす)』碧巌録六十四頌

●『日月雖有清明 不照覆盆之下(じつげつにせいめいありといえども、ふぼんのしたをてらさず))』

●『不許夜行 投明須到(やこうをゆるさず、みょうにとうじてすべからくいたるべし:碧巌録41本則より)』

●『飲水貴地脈(みずをのんでちみゃくをとうとぶ:虚堂録)』

●薬師の十二請願(薬師本願功徳経・薬師経)を『企業経営者の使命』に投影する。


●禅は、己の外に願わず、己に誓うことを『四句請願』を通じて学ぶ

●『空』『不』『無』について

●『信じる事、疑う事』の意味

●『ことばにも色に出して候ては、用心になり申さず候』と沢庵和尚が言った。

●“生きながら仏になる道(菩薩道)”を教えてくださいという必死の声に応える。

●言葉の怖さ故の『不立文字』か。

●聞声悟道、見色明心

●競い、争うこと毋れ


●年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず・唐詩選)

●愚かなほどに素直に生きると幸せが・・・。

●“禅”と“悟”のノウハウ

●今日は“憲法記念日”?

●『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』

●”七歩歩んで天上天下唯我独尊”とお釈迦様は生まれて直ぐ歩いて喋ったと聞きましたが信じられません。本当ですか。(墨田区・中学生)

 

【前の記事】

 

●年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず・唐詩選)

大子の春の花.JPG

大子の春の花.JPG

 この漢詩は、唐の詩人、劉(りゅう)希夷(きい)の「白頭を悲しむ翁に代わりて」の第4節の『古人は復た洛城の東に無く、今人は還た対す落花の風、<年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず>、言を寄す全盛の紅顔の子、応に憐れむべし 半死の白頭翁』を出展にしています。
 昔の恋人はもういないが、若い恋人達同士は今も風に散る花を眺めてる。思えば、寒い冬が終わって春が来ると、毎年同じように花は美しく咲くが、嘗て花を一緒に見た人はもう此の世にはいない。若者よ、いつまでも若いと思っていると、すぐ年老いてしまうぞ!、というように意味。
 『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』、正に諸行無常。悠久の自然と生命のはかなさを対峙させた句から学ぶことは多い。生者は必ず死ぬ。それは定め。だから「死んでしまうかもしれない」なんて考えなくても大丈夫。必ず死ぬ。だからこそ、クヨクヨせずに思い切り生きよう。完璧な人間なんか何処にもいないし、だめな人間だって何処にもいない。人それぞれに個性がある。その個性が集まって“人類”や全ての現象が成り立っている。大丈夫。ひとりぼっちの人間なんかいやしない。知られてなくても君は君。少なくとも私は君の事を知っている。寺に来なくても良い。今夜、11時丁度。真北を向いて二人で坐ろう。20分で良いよ。死ぬなんて思うな。何れ死ぬ。だから自分に威張れる死に方をしよう。君を救えるなら、遠慮なく私の命を使いなさい。だから、子供は生かしてやりなさい。残すのが心配なら、私のところに連れてきなさい。
☆Kさん!毎日、読んでいてくれて有難う。読者が減るのは寂しいので読み続けてください。
一日一生 慧智(070406)

 

●愚かなほどに素直に生きると幸せが・・・。

「災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 <大愚良寛 和尚>
 人は誰しも“災難”や“死”から逃れたいと思うもの。拙僧だって例外ではない。強い人間などいやしない。ただ、強い弱いという“ふた心”が無い人はいるよ。それは“その心”に逆らい“~でなければならない”なんて精神論を振り回そうものなら、帰って肩に力が入り、さらに恐怖心が増すもの。
 だからね、何事も逆らわずに“今・此処”を素直に受け入れる。何があろうと『日々是好日』『和顔愛語』『無事是貴人』すると不思議なことに平静(平安・安寧・大安心≒幸せ)が得られる。それが妙法だよ、と良寛和尚は優しく語っている。
 では、“その心”になるには、それなりの方法があるんだよ。目的・目標は“恐怖心”を消滅させる何か。言い換えると“無心・無我”となる何か。それが“坐禅”なんだ。
 いつも言うだろう。『過去は変えられないし、未来は決まっていない』。今の全ては“縁起(無数の原因の相乗効果が今の結果という未来の原因をつくること)”によって現前している。それがどんな状態であれ、誰も“それ”からは逃げられない。つまり“因果をくらます”ことは出来ないんだ。
 方便に聞こえるかもしれないが「善人なおもて往生す いわんや悪人をや」と親鸞聖人が言っているね。それは、悪人正機(あくにんしょうき)という浄土真宗の教義の中心的な教えなんだが、本意は、人間の本来は善悪などを差別しない、善そのもの。だから“それ”を悟り、一日を一生として世間の決めた善悪などに囚われずに、拘らずに“本来の己”を素直に生き、しっかりと坐って自性すれば、己が“無性”であることを悟り、己が菩薩、此の世の仏(つまり仏陀≒真理を悟った智恵者)になりますよ、と白隠禅師坐禅和讃にあっあろ。だから、親鸞さんは“方便”として“善人は自らの力で成仏”できるんだから“悪人”だと思っている人は私の話を聞きなさいと言っている。素晴らしい。これが、本物の信仰だろうね。ヨーロッパで神様の椅子取りゲームを性懲りも無く何千年もしているレリジョン(一神教)が「私の支配下に入り“羊”として暮らさなければ皆とも地獄に落ちて苦しむぞ」なんてマインドコントロールを多用する世界的なカルトが教団があるが、それに比べると我が国の親鸞さんは素晴らしい。先日旅立たれた青島幸男さんじゃないが、「♪悪い奴は、俺んとこに来い♪」だからね。
 脱線してしまったが、“無心となる方法”は、難行苦行でも脳天気に生きることでもなく、“只管に坐る”こと。釈尊もそうだったし、慧可大和尚も達磨大和尚も、臨済さんも白隠さんも、良寛さんも、玄峰老師も宗淵老師も・・・・、皆『二見(相対的な考え)』を消滅させ、本来の己を発現させて生きることを体験し、体験させようとした。それは、二見がなくなると、不安や恐怖という相対的な幻想が消え失せ、本質、原理原則、真理が見えるからだ。すろと、みんな“良寛さん”になるんだ。すろと、いつもニコニコ。元気に生きよう、元気に死のうとなる。無理なんかしなくて良い。本来の己(父母が生まれる前の己)に素直になれば良い。それだけ。嘘みたいな本当の話。それが“坐禅”。死に損ないの私が言うんだから間違いないが、疑うんなら坐って自分で試してごらん。でも、ちゃんと坐るには寺に来なさい。教えてあげるから。
一日一生 慧智(070405)
*昨日の説法は“怖い”なんて、若い娘に言われたんでね。今日は・・・・・。
*これが、坐禅和讃の心。

 

2007年04月04日

●“禅”と“悟”のノウハウ

 禅は“信”ではなく“修”だと書いた記憶がある。つまり、盲目的に信じるのではなく、疑い尽くして体験して気付き、生き方を正すのが禅なのです。
現代風に言えば、禅は『事実』を価値観や先入観で汚染せずに、あるがままに受け止める。枝葉末節の事実の正しい認識が増えると機が熟し、一挙に本質、法則、原理原則などを発見する。それが“悟り”であり、引き金は極めて身近で単純な出来事が圧倒的に多い。例えば、ボタンが取れたとか、時計が止まっていたとかなど。禅では“発見(悟った)”程度ではまだまだ。小さな気付き、小さな発見が積み上がって初めて“大悟(だいご)”となる。大きな悟りであれば、その瞬間から行動が自動的に変わる。だから師家が弟子の悟りの段階を見抜けるのだ。
 つまりは、禅は『事実』→『小さな発見』→『小さな発見の記憶』→『大きな発見(大悟)→『生き方の発明と『実行』という流れであり、『発明』とは己ブランドのオンリーワンだ。全ての大衆は初期条件から全てが異なるのだから、姿が違うように悟も他人とは違うのが当然だ。そこからが本当の修行だ。そして、ある時、他人と自分の境界が消え、ミミズと己の境界が消え、全てに個性がありつつも全てで一つという世界に至る。そこまで来たら本物だ。そこから更に進めて、先ずは悟を捨ててしまえ。捨てて捨てて捨てて、捨てるものが無いという心も捨ててみろ。言い換えれば、その手法を“止揚の止揚”という。止揚とは、異なる、または対立する事象を上位統合すること。それを更に統合する。この矛盾を生きろ。まあ、悟りは最小公倍数と言っても良いかもしれない。そして、最大公約数が得られてから更に修行を進めて最小公倍数を大発見するのが『後悟』ということ。それが禅の全てある。ミクロとマクロを止揚するとどうなるか。
 さて、ここまで言葉・文字で親切丁寧に教えた以上、拙僧の定義する“悟り”をパクレば、悟りに達しないことになる。オンリーワンではないからな。格好だけで“片手の音”を聞いたようなことを言葉に出来るようなら、それは妄想、幻想、嘘ッパチの勘違い。無の一字に成りきりましたなんて言葉は出鱈目。頭が首の上に付いているようじゃ小僧だぞ。頭は網代の台みたいなもんだ。
 さあ、禅士よ。どうするか。釈尊も達磨もワシも殺してみろ。活人剣を使うか、殺人刀を使うか。両方とも刃物というのが事実だ。さあ、どうする。
さあ、ネット禅士よ。『悟』とは何か言ってみろ。但し、言葉や文字は使うなよ。体も動かすなよ。その上で私の衣を脱がしてみよ。もし脱がすことが出来たら風呂に入ってやる。そうしたらネット禅姉よ。背中を流せ。ワシの背中が鏡になるまで磨きつくせ。但し、手も足も使うな、湯も水も使うな、氷もだめだぞ。手ぬぐいも使うなよ。風呂場にも入って来るなよ。入れば禅姉とてワシはお前らの衣をズタズタにするぞ。
 さあどうだ。今日、此処で、禅の事など忘れて、お題目でも唱えていろ。
疲れた。茶でも飲んで寝るか。お前らは座れよ。
一日一生 親切が衣を着て歩いているような生涯一雲水の慧智(070404)

 

2007年04月03日

●今日は“憲法記念日”?

 拙僧の記憶が正しければ、今日は聖徳太子が17条の憲法を策定した記念日(西暦604年4月3日)である。そんなことを思い出したので、少し調べて、総則というか、精神というか、日本人なら一度は聞いた事のある「以和為貴」の部分について考えよう。
◆原文:
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
◆読み:
いちにいわく。
やはらぎをもってたっとしとなし、さかうることなきをむねとせよ。
ひとみなたむらあり、さとれるものすくなし。
これをもって、あるいはくんぶにしたがはず、またさととなりにたがう。
しかれどもかみやわらぎ、しもむつびてととのへば、ことをあげつらわむに、
すなわちことわりみずからかよへり。なにごとかならざらむ。
◆訳文:
 一つ、節度をもって仲良くすることが大事で、足を引っ張り合うようなことはしてはいけません。
人は皆、派閥をつくって群れ感情的に動くもので、論理的に考え行動できる者は少ない。
つまり、直接の上司の命令に従わない者や仲間同士の喧嘩で、規範を逸脱する者がでる。
しかし、上の者に敬意を払い、下の者に正しく接すれば、上下関係は円満となり正しい議論が生まれ、物事の原因や結果を共有し、正しい対策が取れるので、不祥事は起きない。
◆評語:現代は、太子が心を痛め憲法を制定せざるを得なくなった1400有余年前と同じように、『競争を賛美し、勝ち組と負け組に分け、年長者を老害あつかいし、拝金主義が心を重視する者を排斥し、一人勝ち願望が蔓延している今日』、同じことを繰り返さない創意工夫が必要でしょう。
一日一生 慧智(2007年4月3日)

 

●『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』

我々は本来から“仏性(ぶっしょう)”を完全に具えている、と白隠禅師の坐禅和讃の冒頭に出てくる。さて、「如何なるか“仏”」と私が白隠禅師に問うと、禅師は如何なる表現をされるか。今日は、ネット禅士各位に問いたい。
 また、それを禅士に問えば何と応えるか。
 さらに、如何なる者も“同じ表現”になってはならない、と拙僧が付け加えたとすると、その真意は何か。
 「本来仏なり」なら、仏性に始まりはない。始まりがないとするなら終わりもない。父母未生以前から孫子誕生以後も同じ。即ち、本具仏性は永劫不変。となれば、核攻撃も、老・病・死や地震など問題外。地球が壊れても微動だにしない。『不生不滅、不垢不浄、不増不減』と般若心経にある。
さて、応えよ!
但し、頭を使うなよ。言葉を使うなよ。
さあ、どうする?
一日一生 慧智(070403)

 

2007年04月01日

●”七歩歩んで天上天下唯我独尊”とお釈迦様は生まれて直ぐ歩いて喋ったと聞きましたが信じられません。本当ですか。(墨田区・中学生)

和尚ズ.JPG

和尚ズ.JPG

私は釈尊ではありませんので、文字通りの事実は確認できませんし、聖書と同じような創作話は信じないのが宜しいでしょう。しかし、『何故、そんな話が作り上げられあなたが聞くことになった』のかは真剣に考えることに値するでしょう。
 因みに、我々に伝わっている『~七歩歩んで天上天下唯我独尊~』とは、釈尊という人を例えに出しただけで、『七歩』とは地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上(菩薩)という心のあり方である“六道”の先の一歩で、『如来(宇宙そのもの)』の凝縮の如く、どんな赤ん坊も、過不足なく全てが整って生まれてくる“唯一無二”の存在であり、全てで一つの現象というのが人間の本質であることを伝える言葉としてです。ですから、その他の表現は“方便”であり、『真理を発見し、真理に至る道を発見した釈尊』に対する心からの畏敬の念がエスカレートして“超人化”させてしまった表現だと思います。
 禅の心は“先ず疑う”ことが第一歩です。最初から信じたら、それに囚われ・拘り・偏った考えになってしまいます。ですから、疑って疑って、疑う過程で、疑いが解けたら、それを”あるがまま”に受け容れる。それでも疑い、疑い、疑うものが無くなり、疑う心が消えるまで疑いつくす。それが“禅”です。なお、一番先に疑うのは“己”の考えですよ。己を無にして初めて“大疑”がもてるんです。
一日一生 慧 智(070401)
★驚き:海外の画廊から拙僧の“悪戯描き”を一枚5000円で何枚でも譲ってくれという話がありました。御浄財5000円は托鉢に出たら1週間分。悪戯書きは3分とはかからない。不思議な世の中ですね。過日、紙すきをして、出来栄えをみようと筆を走らせたら、職人さんが「だめだ!書いたら売れなくなるっぺ!」と言われて怒られたのが夢のようです。しかし、本来は売るものではないので困っています。

 

 

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