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2007年5月

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

●第1068話 死について考える

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

●第1066話 『入室参禅』について

●第1065話 『隻手の音声』、聞けるものなら聞いてみろ。

●墨蹟は読めない方が良い?

●第1063話 『身体、心、頭』について

●第1062話 『大子の禅会にて』


●活人の誓いについて

●『好事不如無(こうじ(も)なきにしかず:碧巌録』

●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。

●『善悪』について 

●『本来』の意味・意義について

●『和光同塵(わこうどうじん)』こそ“美しい日本”の真の姿。

●良寛さんの漢詩に学ぶ

●般若心経における鈴木大拙の解説と和尚の解説が違う、という指摘に応える。


●釈尊曰く『少欲知足』を考えろ!

●『泥佛不渡水 神光照天地(でいすいみずをわたらず しんこう てんちをてらす)』

●回向文について

●仏教では“方便”を多用すると言われていますが、それは“嘘”だとうことですか?という質問に応えて。

●慧智和尚さんの強さに秘密を教えてください、と30歳の女性から質問されて。

●『無常の偈』に学ぶ

●『大鑑慧能の禅』とは?という質問に応えて

●良寛和尚の心、一休和尚の心


●活人禅とは、殺す事と見つけたり

●『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか?という学生からの質問に応える

●『道無心合人 人無心合道』祖堂集、第巻十鏡清・第巻二十

 

2007年05月31日

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

記憶では、拙僧が10歳頃、小僧となって2年目。老師から大拙翁の荷物持ちに行けと言われ、鎌倉の帰源院(円覚寺塔頭)に出かけたのは昭和35年の夏だったと思う。まあ、今から50年近く前のことであり、大拙師は90歳前後、拙僧などの曾孫程度とみられ覚えていて頂かなくても当然だと言われて来たが、覚えていておられ、その上講演会の末席で話を聞kさせて頂いた。訳の解らぬ講演の間、出掛けに師から言われた事が気になり、講演後、東京へ向う道すがら大拙師に質問した時のことだと思うが、「坊、禅書はな一歩読み違えると奈落の底に入るぞ。それにな、寺だけでは修行にならんから、漢字だけでなく西洋の言葉も勉強せよ・・・」と、それからの拙僧の人生を大きく左右することになる金言が今でも耳に残る。道々、洪川老師、宗演老師、西田幾太郎や三舟(海舟・南洲・鉄舟)、世界宗仰会議の話などだったと今は創造できるが、訳の解らぬ小僧に“勉強の大切さと人間関係の難しさ”を聞かせてくれたような記憶がある。がしかし、真に残念であるが前出の一言以外の記憶は定かではない。 なお、師の出掛けの一言は、今でもハッキリと記憶しているし、今では拙僧の口癖となり、漢字を“観字”と読み変える本まで書いてしまっている。その一言は、師が、小生意気な小僧だった拙僧に「慧智坊、お前な、漢字で書けない言葉は使うなよ、警策の十本二十本じゃ済まないぞ」と言われた事も思い出される。
 さて、今、訳け有って京都の某寺にいる。今日は、期せずして花園大学名誉教授の西村惠信先生とお話する機会があったり、白隠禅師の坐禅和讃についてのお話を聞く機会があり、何故か、タイムスリップしたように昔の事をが思い出され、この文章を書き始めている。
 禅士諸君、君達は『何故、ヒマワリは東を向くか(書名の記憶は怪しい)』という本を読んだことはあるか。もし読んだ者があたなら正確な和名を知らせて欲しい。内容は『麦の根』から言葉・行動・個性と環境との関わりで、私が人間の思考行動様式を研究していたピーク時に禅書的な読み方からヒントを得て“受容性”、即ち“己”の特性や環境を無心に受け容れる力の発見に寄与した本である。(内容には疑問な部分が多いが・・)
 禅は、文字や言葉の限界に挑戦しつつ、その竿の先にある“行間”や文脈の背後に暗々裏に語られる著作者の無意識を汲み取ってもなお、顔と顔をくっつけ、寝食を共にして師から以心伝心、直指人心には及びもしないことを全身で理解させる。そして、行脚での出会いが、人生観・生命観、自然観の全てを変えてしまう一言に出会い“因縁”を無心に素直に受け容れてこその人生を悟れるのである。考えてみれば、それは“禅”のみに非ずだが、師弟が命がけで対峙する室内(公案・法戦の場)に優るものは、拙僧の知る限りでは無い。
 今、師の話を思い出しながら『沙彌十戒威儀録』を読んでいる。何を云わんとするか、ネット禅士から、読んだだけではダメ。書き写せ、実践せよ、読めるまで坐れ。読めたら心身を染め上げて忘れろ。解れよ。
 そろそろ休む。禅士の陰口はワシにも聞えるので、なるべくなら誤字脱字には気を付けるが、“辻説法”としている訳も解せよ。一日二十分、話すのと同じように無心にタイプし終わると、見直す力など無く、バタンキュウ。残念だが其れが現実。勿論、指摘があれば、遡って修正はしているので、試しに読み直して欲しい。

一日一生 慧智(070530) 京都にて 『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

 

2007年05月29日

●第1068話 死について考える

 昨日から、現職の大臣の自殺について多くの報道がなされ、周囲から自殺に対する賛否両論が囁かれていた。
 さて、生者必滅。生まれた者は必ず死ぬ。日本人は一年に約100万人が死ぬ。世界では毎年5000万人が死ぬ。老衰死、病死、事故死、変死(自殺・他殺)という死の原因に違いはあるが、何れも死ぬことにかわりはない。しかし、俗世間での死の価値には大きな差異がある。美化される死、揶揄される死、重視される死、軽視される死・・。
 拙僧は、“死”は死であり、俗人が価値判断をすべきではなく、犠牲だ、犬死だ、立派な死だなどと死を評価し、差別すべきでないと考えている。
 以前、説法でも書いたことがあると思うが、拙僧は“己にとって意味の有る死を遂げたい”と語っているはず。それは己の己の死への己の評価であり、他に向けるものではない。だからこそ、癌仲間、禅仲間には「死は他人事、自分の死は経験できないから、永遠に生きることとして生きよう」、「死ぬ覚悟などしなくても誰でも死ぬが、生きる覚悟を決めないと生きた屍になるぞ」、「死は新たな生命を誕生させる転換点で、細胞分裂のようなものだから、子孫が出来る出来ないなどは、権力者が考え出した“家制度”の問題であり、子供の有無など人生には何の関係もない」、「世界的に見れば死ぬより生まれる方が多いので、日本ぐらいは人口を減少させ5000万人で機能する国家を目指せばよい」、「人間は病気や事故では死なない。死ぬのは寿命が尽きるからだ、使命を全うしたからだ」、「死に急ぐな、生き急ぐな」・・・。その場、その場で、方便を使っている。
 ところが、拙僧にとって他人の生死は身近であり日常であるが、“病院で生まれて病院で死ぬ時代”、魚も肉も店頭に並んでいるのは死骸で、一寸前まで遊んでいた庭先の鶏が夕食の食卓に上ることや、釣ってきた魚、捕まえた獣を父母が子のために殺す姿は見なくなった今、現代の大半の日本人にとって死は"非日常”なのである。統計を解釈すれば、男女平均で80年という長生き国家の日本でも、毎日3000人の人が死んでいる。しかし、同時に3000人弱が生まれている。結果、人口は若干減ってゆくが大きな変化は見て取れないにも関わらず、机上の統計数には表れ、現状を“少子高齢化”と名付け、“地球温暖化”だ、天然資源の枯渇だなどと同様の切り口で、官民揃って“日本の危機”だ煽り立てている。拙僧に言わせれば、そんな些細な事は『少欲知足』、『以和為貴』、『質実剛健』を肝とする“禅的生活スタイル”を実践すれば問題にもならない。しかし、経済合理性しか見えない拝金主義の亡者は、マスコミや風評を操り、一億総パニックを演出して大騒ぎする。それは、情けないことだが、所謂『健康・環境関連事業』という日本の新たな産業基盤整備を目論む一部の特権階級が失われた利権を補填するために新しい利権構造を作ろうとしているだけなのが悲しいことである。
 (注)建前と本音に開きが在りすぎる。
 さて、今日、一人、二人の著名人の死から沢山の思いが漏れ聞えて来る中で、コソコソとパソコンを持ち込んでいる国立ガンセンターの待合室での今・此処の己は、自分の死をそっちのけにして、他人の死を評価している声を聞いている。確かに、待合室に居る彼らにとっては死は身近なのだろう。勿論、私にとってもだが・・・。
 ところで、本日のネット禅会に先立ち、拙僧が日頃から話している死に纏わる話を、思い出した順に書いておくので、本日のネット禅会までに、『己の死』について考えておいてください。勿論、坐る時は全てを捨てて姿勢を正し、呼吸を正し、心を正して、頭の中の言葉を全て吐き出して坐ることは忘れずに。
◆『自殺』とは『自ずからを自らの手で生物学的な死に至らしめる』ことで、日本の場合は、『死ぬ事で生きる』という積極的な選択と『四苦八苦からの逃避』という消極的な選択という両面を持つ『人生の始末のつけ方』、一つの方法論であり、前者は美意識、後者は醜意識に通じる。
◆死は生と不可分不可同の現象の転換点であり、循環の通過点であるが故に生死一如である。つまり、誕生が祝い、死亡が弔いという決め付けは合理性を欠く。生死は重畳的連続現象である。
◆『極楽・浄土』とは四苦八苦から離れた自由で清浄な土地であり、『地獄』は自由が束縛された四苦八苦が因縁に従って現象する不浄な土地。つまり、両方とも、人間の無智が作り出した事実の解釈であり、事実の陰、幻、陽炎のような心象であり、権力者が大衆を支配するために、否定も肯定も証明できない言葉を凝縮した道具である。
◆『魂』とは拘りや囚われ偏りにより生じた変性意識であり、『霊』とは無智が生んだ未知の現象に対する仮初の姿で心身二元論の産物。
◆『己』という“本来”は、時、空間、意識も超越した無色透明の全体であり部分で、万物の一露、大河の一滴である。
◆『我』という己の“仮初”は、時、空間、意識により翻弄されている有色汚濁の部分であり、大河の澱である。
◆???????。此処は坐禅が終わったら、コピペして“気付き”を書いておいてください。

一日一生  慧智(070529)  築地ガンセンター待合室にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

 

2007年05月27日

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

 以下に、鎌倉五山の一つである円覚寺の釈宗演禅師の師であり愚僧が小僧になったばかりのころ激励を頂いた鈴木大拙師の師でもある今北洪川老師の『亀鑑』を紹介し、愚僧の“超訳”を付しておくが、原文を読み、それぞれなりの解釈をして、今一度、禅とは何かを再確認してください。
 愚僧が日頃から口が酸っぱくなる位に言っている“薄っぺらなヒューマニズム”を捨て、無心となって全ての為に生きよ、ということを再確認してください。
 禅、坐禅は“カルチャー(お稽古事)”では断じて無い。今を生き切り、全てに報いる人間としての唯一無比の正しい生き方である。現在の社会の矛盾を解き明かし、如何にして生きるかを考えた人々は、法律の壁、道徳の壁、科学の壁、即ち相対的で限定された合理性が不完全であることに気付いた者の大半が坐禅をし、その因縁が望まずとも“大人物”という評価が下されていることを知って欲しい。
 坐禅をするから大人物になるのではなく、大人物をなる者は必然的に坐禅をしているのである。言い換えれば、遠い先を夢見るのではなく、出来る事に、全身全霊を打ち込み、他責的にならず、不満を言わず、現実をあるがままに受け入れつつ、己を失わずに、今・此処の己を使い切るのである。
 言い換えれば、それなくして、真の自由、真の合理性と出会うことなく、矛盾だらけの限定的合理性に埋没し、夫々が例外なく持つ本来の己(仏性)を萌芽させることが出来ず、単なる自己満足という稚拙な快楽に溺れ空し人生を送り、死に臨んで後悔するのである。
 悪いことは、言わないから、真剣に坐りなさい。
 以下を読めば解るが、必ず成就するから“三日坊主”はお止めなさい。
●今北洪川老師の「亀鑑」
「諸禅徳、既に俗縁を辞して仏弟子と為る。治生産業、汝が事に与からず。且く道え、甚を以て父母の生鞠劬労の大恩に報答すや。甘旨を供して父母を養うも汝が報恩底の事に非ず。文学に達して父母を顕わすも汝が報恩底の事に非ず。経呪を誦して父母を弔うも汝が報恩底の事に非ず。畢竟作麼生か是れ汝が報恩底の事。唯大法の為に辛修苦行して真の僧宝と為るの一事有る耳。之を譬えば、厦屋を造るが如し。真心を以て地盤と為し、志願 を以て礎石と為し、実悟を以て棟梁と為し、孜々兀々として朝参暮請し、歳月の久しきを厭わず、親切にして懈らずんば、則ち他時異日、一大厦屋を成立して輪奐の美を極むるや、必せり。然して後、始めて真の僧宝と謂うべきなり。此に至りて、啻今生の父母劬労の恩に報答するのみにあらず、過去百劫千生の父母劬労の恩、一時に報答に畢んぬ。大いなる哉、明心見性の功徳。唯但諸禅徳、二祖断臂の親切、臨済純一の刻苦、慈明引錐の激励等を憶念して、日々に修煉し、時々に体窮して、寸陰も怠ること勿れ哉。古徳曰く、僧と為って理に通ぜずんば、披毛戴角して信施を還すと。怖るべし、慎むべし。旃を勉めよ、旃を警めよ」
●慧智の洪川老師「亀鑑」の超訳
禅を志して出家し世俗を離れて仏弟子となった者は、経済生活を目的とした仕事に従事することは歩むべき道ではない。となれば、如何にして父母に養われてきた大恩に報うことが出来るか言ってみよ。出家にとって父母を扶養することは真の恩返しではない。学者となって知名度が上がり父母が世間から賞賛を受けたとしても真の恩返しにはならい。経や呪を読み誦んで弔っても真の恩返しにはならい。出家者として父母の大恩に報えるのは、大仏法を体得して真の禅僧となる以外には無い。それは、屋敷を建造するようなもので、真心を地盤、願心を礎石とし、実悟を棟や梁として、一心不乱に禅道を進み、一日を一生と思い、坐禅・公案・作務に成り切り、期間など気に留めず修行者に成り切れば、いつの日にか比類なき屋敷が完成すれるように、禅の宝をなる禅僧になる。つまり、出家した者は、道を究めること以外に父母の大恩に報うことは出来ない。己事究明を通じて父母未生以前の己に帰り本来を明らかにして自利利他に徹することこそ父母の大恩に報うことである。
 父母をはじめ全ての生きとし生けるもの、山川草木の大恩に報いるには、二祖慧可大師が臂を断って達磨大師にしめし道心、臨済大和尚の大いなる工夫、慈明禅師の壮絶な修行を忘れる事無く、一日を一生として全身を以って修行に打ち込み、日々に悟り、一分一秒も無駄にしてならない。
 つまり、歴代の大禅者の言葉を借りれば、「家を捨てて禅僧となった以上は、全ての本質を示した仏法を完全に会得、自覚しなければ、人間として生きた価値がなく、修行を支援して頂いた山川草木や無数の方々の大恩に報うことは出来ない」ということになる。恐れいり謹んで心に刻んで教訓として修行に打ち込め。

一日一生 慧智(070527)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

 

2007年05月25日

●第1066話 『入室参禅』について

 無期懲役とも思える禅堂修行に入ると相見(対峙により師弟の自覚が出来上がる面会)を済ませた“その日”から師の室で師弟の命がけの戦いが一日の二回、入室参禅(にっしつさんぜん)という形式で行なわれる。師は、夫々、弟子の力量を押しはかり『公案(修行のための正解の無い問題)』を与え、見解(けんげ)を求める。専門僧堂では朝暮二回、師の部屋に通じる廊下に喚鐘という半鐘の半分程度の鐘が出て、入室参禅が求められる。すると、修行僧は我先に入室しようと廊下に正座して順を待ち、ノック代わりに喚鐘を二点打して作法に従い入室する。問題は、室内での出来事なのだが、これは師はもとより雲水同士ですら一生涯に渡りその内容を話すことはない。何故なら、先入観を捨てるのが修行の肝であるにも関わらず、先入観を助長強化してしまうからである。俗世間でも、教師が“答え”を教えることは学人の成長を阻害してしまうので、先ず無い。実は禅師は己の雲水時代の経験から『規矩作法(規則や立振舞い)』は体験(体)で学べば躾になるが、頭に先に入れてしまうと、形式として記憶されしまい、心身に刻み込まれる躾にはならないことを全身で知っているからである。という訳で、拙僧など“パブロフの犬”のように今でも喚鐘の音を聞きくと全ての雑念が瞬間的に消えてしまうのである。という訳で、現在の立場は入室を促す側なのだが、心は学人のままなのである。ところが、今時の世間は、教育が“サービス業”という商売になってしまい、師と弟子が“差しで対峙”する法戦場こそが教育の場であり、教師の使命である己を超える人間を育成するという教育の肝が忘れられているのは残念である。
 さて、学人(雲水・居士の場合もある)は、己を経営する経営力を己自身で鍛え上げるため、予め与えられた公案に対する見解を入室毎に師に提示するが、初めのうちは一言も話せぬまま鈴が振られて追い出される。後で解るのだが、問いに対しての反応が0,25秒を超えると追い出される。ですから、師の立場になった今でも“間抜け”は許せない始末である。
 ところで、禅士諸君は、最大限の怒鳴り声を耳元で聞いたことがあるかな。本当に鼓膜が破れる。しかし、鼓膜が破れると聞える声がある。“法の声”かも知れんが不思議だぞ。ワシは優しいのので怒鳴らずに竹刀を打ち込むことにしている。竹箆、警策、扇子はすぐに折れてしまうからね。まあ、昔から「炉柎に入りて鉗鎚を受る」と言われているように真剣勝負だから、甘えは100%させないし、しない。生半可は火傷をするだけ。それは今でも変わっていないはず。入室参禅と坐禅、作務は“二入”、修行の両輪であり、最終的には“四行”をもって『悟り』に通じる大道、百尺竿頭への道であり、竿頭に着けば直ぐに一歩を進み、また原点から竿の頭を目指す繰り返しの始まりである。正に悟前・悟後が一つになる過程だ。
 ワシは、『入室参禅』こそ教育の原点だと思う。しかし、教育はプレタポルテ(既製服)ではなくオートクチュール(注文服)と同じようなもので、一人ひとりの技量に合わさなければ、師も学人も徒労に終わってしまう。だから、拙僧は、参禅者に対し、日々の雑談の中に『現成公案(今風の課題)』を与えているが、最近は、マニュアル人間が増えたことか、学校や家庭が崩壊状態にあるのか知れんが、“それ”と気が付かぬ者も多いのは困ったものである。
 ところで、「陰徳を積んでいるか」と問れたら、何と応える?ハイと肯定すれば陰徳ではなくなるし、イイエと応えれば嘘になることを承知で応えよ。

一日一生 慧智(070525)南伊豆にて 
『願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道』

 

2007年05月24日

●第1065話 『隻手の音声』、聞けるものなら聞いてみろ。

 表題は、言わずと知られた白隠禅師が考案された公案。「片手の音を聞いて来い」などと拙僧は、入室した参禅者に与えている公案の序章であり本文であり終章です。白隠禅師が何をヒントに『隻手音声(せきしゅおんじょう)という公案を編み出されたか、また禅師自身のエピソードなど調べれば解るものは話すつもりはありません。しかし、自我の奴隷、言葉の奴隷、文法の奴隷、先入観(経験、道徳、価値観など)、即ち“相対論・二項対立論”という幻想の奴隷になっている限りは、両手の音を聞くことは出来ても片手の音を聞くことは出来ないことは言っておきます。つまり、科学・哲学・儒教・道教・・・勿論、数学、国語、理科。社会・・・、今までに頭に入れ、入れられてきた全てを捨て去ることで真理が観得ます、聞えます。
 過去、ネット禅士の場合、入室参禅をメールで行なっていましたが、あまりにも無理があり現在では、南伊豆の菴か、活人禅堂で参禅されている禅士で、日頃の言動や行動から公案を与えても潰れない者にのみ与えています。
 日本から東に行くとアメリカに着きます。アメリカが東洋だからです。アメリカから西に行くと日本に着きます。日本は西洋だからです。北に向えば南極に着いて元へと戻り、南に向えば北極に着いて日本へ戻ってくる。北を向いて南を見る。南を向いて左にあるのは己の右腕。右足が沈む前に左足を上げれば海を歩ける。光より早く走れば、己の背中が見えるかも。無我夢中の時間は、閑居の時間より早い。人殺しが悪だと証明できる論理は無い。全ては“我”を中心に考えるから解らなくなる。ゲーデルの不完全性定理は、論理が絶対であることを否定する論理を論理だてて説明している。情緒と論理、感情と理性。誰が分けたか解らない。絶対的な善は何を前提にするのか。相対的な善は悪がなければ存在しない。では絶対的な悪の根拠は如何に。男と女が別れる前は一つ。羞恥心は社会的な洗脳を受けた結果が生んだ拘り・囚われ・偏り。我らは過去の誰かが作り上げた幻想の奴隷。さあ、父母が生まれる前の己、本来の己は、今、何処にいるか。今、此処にいる己は本来の己か。太陽は沈まないし、月も欠けない。月と太陽は、もともと一つ。私と貴方ももともと一つ。空気と私ももともと一つ。ところで、貴方の心は何処にありますか?。貴方の心と貴方以外の人の心は元を正せばひ一つだと思いませんか。坐る、働く、寝る、同じですか、違います。紙の一面には神、他面には仏と書きました。表はどちら、裏は表の裏で、その裏は表?。
 今日のネット禅会では、『色即是空=空即是色』の一次方程式の解を求めなさい。勿論、言葉を使わずに考えましょうね。そして、言葉や文字に依存せずに答えてください。
 公案を出してもらいたいという“おねだり禅士”に、自分の後頭部が直接見えたらね、ということで返事としました。
一日一生 慧智(050724)願以此功徳・普及於一切・我等與衆生・皆共成佛道 

 

●墨蹟は読めない方が良い?

 海外在住の方からのメールで、師の供で茶会に出かけた雛僧のころの出来事を思い出した。あれは、確か修善寺から三島への道すがらのことだった。
慧智「先ほどのお話で茶掛になっていた『虎頭生角出荒草』と書かれていると思えるお軸について聞かれた時、最初から最後まで、読みにも出典にも触れずに話されていましたが、何故でございますか」
老師「・・・・、生き切れ、成り切れ、坐り切れ、全てはそれからだ」
慧智「坊主なら、墨蹟は読まん方が良い。何年、何十年かかろうと、書けるまで座れ、と受け留めていますが・・・」
老師「皐月は鶯の声に何を思うかな・・・」
慧智「一度生まれ、一度死ぬのが常、同じ出来事は二度と起きませんね」
老師「おい、頭陀袋に饅頭があるだろう」
慧智「飯袋子に先おこされました」
老師「喫茶去ということか」
慧智「龍澤まで3里ぐらいだと思いますが」
老師「カーーーツ」
 この遣り取りの真意は伝わらないと思う。出会いは因縁に従います。墨蹟は、書かれた言葉と文字に禅師の万感の思いが込められています。その思いと心を汲み取るには、文字や言葉と一体にならなくては“価値”はありません。漢字にカナをふる前にカナを教えるのが先。心が言葉を作る、言葉が心を作る。否、言葉が心、心が言葉。人を観て法を説くことが大事。
 因みに、碧巌録第七十則『山、百丈に侍立す』 垂示に云く、快人は一言、快馬は一鞭。萬年一念、一念萬年。直截をを知らんと要せば、未だ擧せざる已前。且道、未だ擧せざる已前、作麼生か摸索せん。擧す。山、五峰、雲巖、同に百丈に侍立す。百丈、山に問う、咽喉と唇吻を併却いで、作麼生か道わん。山云く、却って、和尚道え。丈云く、我は汝に道うを辞せざるも、已後我が兒孫を喪わんことを恐る。
却って、和尚道え。虎頭生角出荒草(虎頭に角を生じて荒草を出づ)。十州春盡きて花凋殘み、珊瑚樹林に日は杲杲たり。
一日一生 慧智(050724)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』 


 

2007年05月23日

●第1063話 『身体、心、頭』について

 昨日、理事長を務める財団法人職業資格取得支援協会の理事会が早めに終わった。久々に時間が空いたせいか、時々顔を出す渋谷の喫茶店に足が向いた。途中、先日の禅会を思い出していた。
 参加者は少なかったが活人禅寺らしい内容であった。この時期の寺は、北関東というより南東北と言った方が似合う茨城と福島の県境である大子のこの時期は可憐な草花が多く生命の息吹を感じる。夜坐は春ならでは星が煌き無寒暑。拙僧の体調も安定してたせいか、一、二炷程度は、参加者と共に坐ることができた。また、寺の管理人が一ヵ月前に脳梗塞で倒れたが、何せ“復活再生の寺”故か、回復が早く、リハビリを兼ねて草刈に汗を流していた。「癌にも脳梗塞にも打ち勝つ寺だ」なんて売り出そうという笑い話が出来るまでに回復しているのには驚いた。
人間は清心万能邪心萬危。己の状態を全面的に受け入れ、持病も障害も“個性の一つ”として認めることが、障害の無い部分を自由自在に工夫して生かすことが出来る。出来る事に集中し、境涯を恨むことなどなければ、持病も障害も克服できる。“一病息災”とは良く言ったものである。己の障害や病を意識し
過ぎると、他のところまで病むことになる。教訓のようだが、人間、先ずは“出来る事”を完璧に行なうことが幸せの第一歩。今、此処で“出来る事”に全力を集中していると、それは“すべき事”を飲み込み“したい事”を飲み込んで、『出来る事がしたい事で、すべき事』という最高の人生を送ることが出来る。『したい事が出来ない、すべき事に気が付かない、出来る事をしない』ことにより“縁”が変わってしまい、本来は大安心の境涯となるべき人が、大不安の境涯に迷い込み、悲しく・寂しく・侘しく・空しい“生き地獄”のように苦しい現実にあることは相談に来られる方の多く善男善女に共通している。
 渋谷のセンター街を入って直ぐの処に、“ヤンキー、ニート、プータロー”達の溜り場がある。
数年前から時々顔を出し、仲間に入れてもらっている。彼らだって考え方をほんの少し変えるだけで充実した人生を送ることは出来ると信じ、タイミングを見つけては議論を吹っかけている。 
拙僧「体は目的も目標も持たないし結果も求めずに機能するだけ、ということは解るか」
茶髪A「解らね。SEXは目的だぜ、な」
茶髪B嬢「目的はSEX、目標もSEX、それでいいじゃん」
拙僧「そんな良いなら、これから皆でするか」
茶髪A「馬鹿じゃねの、エロ爺。SEXは好きな奴と二人でするもん、酒でも飲まなきゃ乱交なんかできねよな、な」
拙僧「お前らにちゃんと考えられるんだ」
茶髪A「俺達は、身体とハートで生きているんだぜ、頭じゃねよな」
*彼らは、どんな事でも仲間の相槌を必要とする。だから仲間が同意すれば、それが彼らの社会の“常識”になるらしい。
拙僧「じゃあな、お前らの心って、どこにあるんだ」
茶髪B嬢「ここの中、見たい?」
拙僧「お、見せてみろ。でも、心以外の物は出すなよ」
茶髪A「馬鹿じゃねーの、心が観れるわけねーよ、な、な、そうだろ」
拙僧「じゃあな、あんたらが目的や目標を持つのはどこだ」
茶髪A「頭じゃん、な」
茶髪B嬢「心だと」
拙僧「おい、意見が分かれたな、ところで、頭って、ここか?
拙僧「じゃあ、心は何処だ?」
 こんな話をいつもしている。すると、多くの場合、“霊魂”、“神様”、“運命”、などが登場する会話になる。今回も同じ。
拙僧「ところで、体を持たない頭、体をを持たない心、頭を持たない体、心を持たない体、心を持たない頭、頭を持たない心があると思うか?」
茶髪2人「あるわけないじゃん、な」
 すると、それまで黙っていた若者が
若者「霊魂は体を持たない」
拙僧「ということは、体は霊魂を持っているのか?」
若者「ある」
拙僧「じゃあ、見せろ」
若者「霊魂は特別に選ばれた者にしか見えない」
拙僧「誰に選ばれたら特別な者なんだ?」
若者「ゴッドだ」
拙僧「ゴッドって“神”ということか?、どこに行けば会える?」
若者「オレだ。おれがゴッドだ」
拙僧「オレは仏だから、親戚みたいなものだな」
若者「お前は人間だ」
拙僧「じゃあ、ゴッドは人間じゃないのか」
若者「そうだ、だから、おれはお前を消滅させられるが、爺はオレを消滅させられない」
拙僧「ゴッドは死なないのか?」
若者「体は心でも、心は不滅だ」
拙僧「だったら何故、心がゴットで霊魂だと言わないのか」
若者「霊魂や神は“宗教”の言葉だし、“心”は普通の言葉で、ゴットは五次元世界の存在だ」
拙僧「空間は三次元、時間が加わると4次元、五次元は何を加えればいい?」
若者「ゴッドだ」
 いつものことだが、この辺から会話はループに入って、大概の場合は、席を立たれてしまう。ところが、今日の若者は違った。
若者「お前は坊主だろ。神は信じないが霊魂は信じているんだろ?」
拙僧「神も霊魂も、おれは見たことも感じたこともない。どうしても神だ、霊魂だとかいうものがあるなら、ワシは神だし霊魂だ」
若者「お前は本当に坊主か」
拙僧「ワシは坊主だ。だから、世界は全ては心が描いた結果で、心をカラッポにすれば、見える世界も見えない世界も一つだということがわかるんだ」
 ここから2時間。11時をまわったところで、若者が「仕事だ」と言って出て行こうとした時、振り向きざまに「今度はサシで話そうぜ。来週の水曜に来いよ」
 素晴らしい。2年目で初めて受け容れられた、と感じた。来週が待ち遠しい。
一日一生 慧智(070523)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

 

2007年05月21日

●第1062話 『大子の禅会にて』

花無心招蝶    花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花    蝶は無心にして花を尋ねる。
花開時蝶来    花 開く時、蝶来たり、
蝶来時花開    蝶 来る時、花は開く。
吾亦不知人    吾れ、人を知らず、
人亦不知吾    人、吾れを知らず、
不知従帝則    知らずして、帝の則に従う。

 昨日の活人禅会の開枕後、薬師堂での独坐の折、たどたどしい飛び方の蝶を見た。ここで“大悟”とくれば洒落の効いた絵に描いたような禅会なのだが、未熟者故の悲しさから、そうは問屋は卸してくっれなかった中で、ふと良寛さんの漢詩が口を付いて出てきた。考えてみれば当然かもしれない。過去、何回と無く『慧智坊の一筆説法』に書いたものだ。
 蝶は歩けないが飛べる。人は飛べないが歩ける。花は期が熟せば笑い、蝶を招き、蜂を招き、人の心に潤いを与える。しかも、無心にだ。只、今その時の環境を全面的に受け入れ、工夫をしながら文句も言わずに黙々として生きている、人間以外は皆同じ。
 それに比べて、痛いの熱いの辛いのと、己の病魔如きで右往左往する己としては、禅坊主失格だ。そう思った瞬間、己の連想系は自動的に太宰治の人間失格の中で主人公が心の中で呟いた「あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っている・・」という一文が思い出され、同時に、「何とも単純な己だろう。お前は此の世で最も厄介な奴だ。“あるべきよう”と生きてはいるし、生きる事への執着も大きくは無が、すべき事を残して去るのは忍び難いな~」という思いが心底から聞こえた。
 こんな情けない禅坊主が、人の心を受け容れられるだろうか。しかし、こんなチッポケな事であれ、地球の体力が減衰しているということであれ、天変地異であれ、全ての現象は自然の法則に従い、それを知っていようと、知らなかろうと、不知は許されずに従っている。
 自然を征服しようなどという考えは愚の骨頂である。人間も山川草木も自然の一部。受け容れつつ適応し工夫して生きるのが真理。今日・此処での己の心は一瞬の現象。邪心・有心であれば苦しみ、清心・無心であれば、全て敵うのが自然の摂理。真理。
 さて、参加者諸君は、坐れたかな?。
一日一生 慧智(070521)
『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
★大阪から飛び入りのEさん。無事に帰りついたかな?

 

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