...
« 2007年04月 | メイン | 2007年06月 »

2007年5月

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

●第1068話 死について考える

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

●第1066話 『入室参禅』について

●第1065話 『隻手の音声』、聞けるものなら聞いてみろ。

●墨蹟は読めない方が良い?

●第1063話 『身体、心、頭』について

●第1062話 『大子の禅会にて』


●活人の誓いについて

●『好事不如無(こうじ(も)なきにしかず:碧巌録』

●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。

●『善悪』について 

●『本来』の意味・意義について

●『和光同塵(わこうどうじん)』こそ“美しい日本”の真の姿。

●良寛さんの漢詩に学ぶ

●般若心経における鈴木大拙の解説と和尚の解説が違う、という指摘に応える。


●釈尊曰く『少欲知足』を考えろ!

●『泥佛不渡水 神光照天地(でいすいみずをわたらず しんこう てんちをてらす)』

●回向文について

●仏教では“方便”を多用すると言われていますが、それは“嘘”だとうことですか?という質問に応えて。

●慧智和尚さんの強さに秘密を教えてください、と30歳の女性から質問されて。

●『無常の偈』に学ぶ

●『大鑑慧能の禅』とは?という質問に応えて

●良寛和尚の心、一休和尚の心


●活人禅とは、殺す事と見つけたり

●『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか?という学生からの質問に応える

●『道無心合人 人無心合道』祖堂集、第巻十鏡清・第巻二十

 

【前の記事】

 

●釈尊曰く『少欲知足』を考えろ!

■釈尊が涅槃に際して説いた『仏遺教経』にある『少欲知足』に対する道元禅師の解釈として正法眼蔵に「多欲の人は、多く利を求むるが故に苦もまた多し。小欲の人は求むることなく欲なければ、すなわちこの患(わずら)いなし」とある。拙僧は「己の身の程を知り、過剰・過少を両亡した“あるがまま”を素直に生きることが“大安心≒豊か”に通じ、結果、苦楽一如を知るの処世の極意に通じる」と話している通りで、意志ではなく無心という『真』を説く。
■道教の祖にあたる老子は老子道徳経第33章に『知人者智 自知者明 勝人有力 自勝者強 知足者富 』、読み意味は「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つは力、自らに勝つ強。足るを知る者は富む」とある。つまり、道教(現在の道徳の原点)では 『足るを知る者は経済的に貧しくとも心は豊かで
、足るを知らぬ者は経済的に豊かであっても心は貧しい』というニュアンスで、意志の持ち方を説いてい
るのであって、正に道徳的な『道』を説く。
■儒教の祖にあたる孔子の、天下は“徳”によって治めるべき、云わば“徳治主義”の立場からの言葉を
思い出すと、やや疑義はあるものの、『知足安分(ちそくあんぶん)』という思想、つまり士・農・工・商・穢多・非人というような身分は、社会における分業のための区別であり、人間としての差別ではないという政治思想である『理』を説く。
■詳細は知らぬが英語圏の教訓に『A contented mind is a perpetual feast. (満足する心は永遠の馳走である)」というキリスト教的な禁欲の示唆がある。
■現代中国で文化大革命後も支持されているのが李繹『五知の知恵』といわれる『難を知る・時を知る・
命を知る・退くを知る・足るを知る』という“長いものには巻かれろ(躓く方が悪い)”という教訓がある。
 以上、『知足(ちそく)』という“心”は、洋の東西を問わず、常識人の座右の銘になっていることが多く、心豊かに生きる人生の肝ではあるが、『知足』の概念を獲得し納得した源泉(初めて聞いた、読んだ、納得した、話した・・・)の異なりにより、夫々の価値観は異なる。
 禅士諸君は、以上のどれに共鳴するか。ないしは“菜根譚”という仏教・道教・儒教をブレンドした現実的処世術に共鳴するか、ないしは四書(大学(礼記の一部)・中庸・論語・孟子)の一つに出ているよな『修身齋家治国平天下(大学)』、拙僧の解釈では、これは禅+道教+儒教に通じる『足るを知る』に至る考え方に共鳴するか。
 21世紀の現代日本は、20世紀の人間主義、物質主義、征服主義、利己主義、拝金主義を下敷きにした“破戒文明”にケジメを付け総括する事無く、不愉快極まりない『“御為倒し(おためごかし)”文化・文明期』に突入している。大量消費・大量廃棄・環境汚染を必須アイテムとする資本主義経済は、その限界が大衆に露呈するや、LOHAS(持続可能で健康的な生活様式)という言葉を生み出し、資本家の
都合による経済成長を維持するためにNPO活動やNGO活動という“稚拙な善人の活動”に目を向けさ
せ、諸悪の根源である『人間欲求充足主義』を問題視されないようにしている。温暖化→熱帯雨林の減少→植林=御為ごかしビズ。勿論、破壊した自然を復活させることは大事であり、それ自身に異論は無いが、その為に、人間は如何に生きるべきかという『根本的な課題』から視線を逸らせるのは如何なものか。
 『善(道徳)』や『倫理』は、世界共通ではなく、宗教や民族文化、思想が異なれば真偽が逆転し正反
対が概念が正当化される危険思想、つまりはローカルルールである。
 一方『禅』は知られざるグローバルスタンダード(世界標準)として知識人には知られているが、我ら禅僧の力不足で衆智させられていない。ここには禅の『矛盾を抱え込んだまま止揚するという』という特徴があるからかも知れず、『己の行住坐臥をモデル』にし、解る者は何時か解る。解らぬ者も皆仏という考えがある故に、出しゃばらない。来る者は拒まず、去る者は追わない。
 本当に、これで良いのか。ここ数日、体温40度、患部に熱感。ステージ4なれど坐禅三昧。心からこの世界を救いたいと思うが、力不足に悩んでいる。寺に居れば日常に感けて見えないことが、娑婆で病め
ば見える。見えたときは遅い、に悩む。正に『一切皆苦』である。
一日一生 慧智(070510) 品川五畳菴にて
◆『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

●『泥佛不渡水 神光照天地(でいすいみずをわたらず しんこう てんちをてらす)』

  『碧巌録』九六則・趙州三轉語「泥佛不渡水。神光照天地。立雪如未休。何人不雕偽」という偈がある。読みは「泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。雪に立ちて未だ休せずんば、何人か雕偽せざらん」というのが一般的。
 そして、評唱には「泥佛不渡水。神光照天地。這一句頌分明了。且道為什麼卻引神光。二祖初生時。神光燭室亙於霄漢。又一夕神人現。謂二祖曰。何久于此。汝當得道時至。宜即南之。二祖以神遇遂名神光。」とある。読みは、「泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。この一句に頌して分明にし了る。しばらく道え、什麼としてか卻って神光を引く。二祖初め生るヽ時、神光室を燭して、霄漢にわたる。また一夕神人現じて。二祖に謂って曰く。なんぞ此に久しき。汝まさに道を得べき時いたれり。宜しく即ち南に之くべしと。二祖神遇を以て、遂に神光と名づく」である。
 「神光」とは、達磨大師の後継であり、活人禅寺の聖僧として禅堂に鎮座している二祖慧可(えか)大和尚のことである。慧可大和尚は、達磨大師の下で修行を願い出たが許されず、左片腕を元兵士らしく雪中で自ら切り落とし、修行への決意を示したところ、入門が許され、初祖達磨大師から『慧可』の諱を賜る。
 表題の『泥佛不渡水 神光照天地』の意味は、「土作りの仏像は水に溶けて消えるが、神光により伝えられる法は世界に伝わり天地をてらすだろう」と受け取ってよいだろう。翻って言えば、己を超えてゆくであろう只一人の後継者を経営することが修行の完成を意味し、その後あらゆる評価すら捨てさり、正に無一物となり、存在そのものが“癒し”として巷にあるのが禅僧の理想像かもしれない。
一日一生 慧智(070509) 『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏』

 

2007年05月08日

●回向文について

 最近のことだが、説法文末に回向文『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』を書いている理由は、『自利利他』の本願をネット禅会の参禅者の全てと共有し実行して行きたいと願っているからです。禅は、こ洒落た文化でもなければ、学問でもなく“菩薩行”たる“宗たる教え”ですから、修行そのものなのです。その事を忘れがちな禅士が紛れ込んだり、やたらと質問をする“勉強好き”が増えるのは考え物なのです。
 前出の『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道』という法華経からの回向文は、多くの回向文の中でも皆さんには一番身近であり“ピンとくる”回向文だと思います。
 何故なら、禅宗系が理解している菩薩は、『自未得度先度他』を肝に据え、己の悟りより衆生の悟りを支援することを優先させ、己の積んだ陰徳、功徳を全ての衆生に巡らすことを毎日毎日、己に誓っているからです。四句請願の一句目も同様です。勿論、『自利利他』は一如、『自他一如』です。つまりは、利他の“他”の中に“自”は含まれているし、自利の“自”の中に“他”は含まれ、自即是他、他即是自なのですから、何も改めて回向文を読むことは無いのですが、悲しいかな、体は毎日風呂に入れるが、心を風呂に入れるのを忘れがちなのが人間です。私とて病を直そうとする私利私欲からか、ついつい大事な大事なことが後回しになってしまうことがあり、それを戒め、請願を達成させるために毎回毎回、回向文を打っています。燃え尽きたはずの薪でも、風の吹き様で燃え上がることもあります。努努、ご油断を召されぬように願います。
一日一生 慧智 『願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道』

 

●仏教では“方便”を多用すると言われていますが、それは“嘘”だとうことですか?という質問に応えて。

 先ずは、基礎知識です。『妙法蓮華経(法華経)方便品』が“方便”の出所であり、その語源はサンスクリット語の(upaya=ウパーヤ) のようです。
 次は、“方便”の意味です。方便は、『衆生を経営(教え導く巧みな手段)する』あるいは『真実の次元に導くための“便宜上の教え”』ということです。
 ですから、方便の使用者は、使用後、方便を作った者の責任から離脱して一人歩きすることを許しません。つまり、制作者が特定できる“経”は良いと考えるのが基本です。
 言い換えると、“方便は純粋な意味で真理ではない”と認識している。つまり“真実を知っている者”以外が“方便”を利用することは、それが正当な目的であり方便だと解っていたとしても、方便の“背後にある真実”を知らない者が使かうことは、方便ではなく“嘘、騙し”となり、将来の禍根を残すので、悟りに達した者以外が“方便”を使うことは許されません。
 なお、釈尊の“方便に関する見解”が伝わっていますので、参考にしてください。
『私がみんなに説いていることは、人が真実の次元に到達するための筏に過ぎない。つまり筏は、此の岸から彼の岸に渡るための便宜上の道具で、渡ってしまえば必要ないもので、それ以上のことではない』
 また、その後の仏教界でも、『菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす』とあり、目的を達成させるための行動を動機つける以外に、方便を使うことは許されません。
 つまり、霊魂だの、彼岸だの、浄土だの・・・、に始まり“ご利益”などは、衆生を一時的にでも救い、衆生を経営する目的で作った者以外が使うことには疑問を感じますが、千年以上も繰り返されると“嘘も真”として信じる者も多くなり、最終的に“結果”が悟り(真理を知る)に結びつくなら、方便を受け容れべきが現実です。
 ですから、禅宗は、他宗他派を否定せず、異教をも包み込むのです。簡単に言えば、子供相手に高等数学の知を解いても混乱するだけですから、円周率『 π』 は超越数であるが、便法上は『π』、方便では『3,14』・・・とするのです。ですから、『3,16』という間違いや嘘はいけません。因みに『π』は一転語となるか、呪文かもしれません。勿論、これが『円相』の意味することかも知れない、と愚僧の慧智が言ったら、それは方便になりますかね。じっくりと考えてください。

一日一生 慧智(070507)『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを

 

2007年05月07日

●慧智和尚さんの強さに秘密を教えてください、と30歳の女性から質問されて。

 どこで調べられたのか、お会いしたことの無い女性から電話で「強くなりたいんです。和尚さんの強さの秘密を教えてください」と聞かれ、「私が“弱い”ことを知っているだけですよ」と応えたが、納得いただけなかったようで、「強いことは辻説法を読んでいるから解る」「私は乳癌で手術したが転移し、死ぬのが怖くて寝ることも食べることも出来ない」「助けるのは和尚の仕事でしょう。だから、強くなる方法を教えて欲しい」・・・。随分と長電話になったが、拙僧の未熟さゆえ、楽にさせてあげられなかった。そこで、これを読んで頂ける事を期待して、“強くなるコツ”を伝授しようと思う。
 先ず、少しだけ冷静になるために、読んでください。
耳で聞けば同じ、読んでも同じ音、正に“異句同音(≠異口同音)”だが、文字を観れば異なる興味深い四文字熟語があるので紹介します。
■『一刀両断』とは、一太刀で、AもBも、両方を断固として切り捨て、迷いを断ち切る。
 禅語の
■『一刀両段』とは、一太刀で、AもBも両方を活かし、新たな境涯を作らせ、迷いを消滅させる。
 
次に、文字は同じだが、意味は微妙に異なる一転語があるので、紹介する。
 碧巌録十二則の圜悟克勤和尚が羅山道閑の言葉を引用した件の
■『殺人刀 活人剣は上古の風規、今時の枢要』
 無門関 第十一則の頌である
■『眼は流星、機は掣電。殺人刀、活人剣。』
 以上から、“空”を説き、“無心”となることが”究極の智慧”であり、あらゆる相反は上位に統合される“一如”であることを体得するのが『禅』であることは連想できるでしょう。
 元気であろうが、病であろうが、“今・此処の己”を活かし切り、一日一日を全力で生きることが、“弱い人間”と思い込んでいる人間が強く生きてゆけるコツだと知ってほしい。
 刀も剣も同じ矛。矛より強い盾もあり、盾より強い矛もある。それらが互いに対立することを“矛盾”という。また、殺人刀と活人剣が両刃の矛とすれば、理と情の相克に迷う時もあるだろう。知っていますか、文殊菩薩の剣は両刃です。
 弱い心と強い心が対立するのが“不安”の現況で、具体的な恐怖ではない。実は、そこが厄介。しかし、人間は本より、全面的に強い、全面的に弱いなど無く、経験知に惑わされた幻想、思い込み、先入観です。人間には夫々に個性があり、不安や恐怖の対象が異なります。ただ、それも宇宙から観れば些細なことです。
 どう考えても、人間は健康に生き永らえても100年。しかし、38億年の下積みの上での100年。つまり、貴女は38億三十歳、私は38億五十七歳。所詮、早いも遅いも誤差範囲でしかないんです。
 私は、人間は“病気や怪我”では死なないことを知っています。もしかすると、それを知っているから強いと思われるのかもしれません。死ぬのは寿命が尽きるからだと思います。何らかの役割を終えるからだt思います。
 世の中に不要人間など誰一人としてなく、皆、気付く気付かないは別にして役割をもって生まれ、役割を終えて旅立つのだと思います。人間、どんなに健康であっても“明日”は未知、誰にも解らない。だが、100年後は誰でも確実に死ぬ。
 そこから考えると、全ては“考え方次第”、時間の使い方次第だと思いませんか。
 確かに“痛い”のは辛い。私だって感じる。しかし、“痛い”と感じるのは脳であり、それを受け止めるのは“心”なんです。
 私は、人間に強い弱いの差別・区別が根本的にはあるとは思わない。が、貴女に百歩譲り、仮に強い弱いがあるとしても、前出したように、その原因は、“真理の気付き”の有無だろうと思う。しかし、真理は気付こうが気付くまいが真理であり、心理。 『真理が心理を正し、心理が真理を歪める』と思う。この世は諸行無常。無常迅速。時不待人。光陰可惜なんです。死ぬことは娑婆の修行の仕上げ、と考えたらどうだろう。人より早ければ優秀なのかもしれない。
 もし、痛みと不安が別々のものなら“苦”を『一刀両断』すれば”楽“になる。苦楽一如ということだ。
 苦しいものは苦しい、痛いものは痛い。それを乗り越えるには『一刀両段』。使う刀剣は、殺人刀か活人剣かの違い。
 活かそうと思っても死ぬことがある。死なそうと思っても活かすことがある。人生は矛盾だらけ、『一切皆苦』と同時に『一切皆空』、『苦楽一如』。
 事実だけを受け容れるか、余計な詮索に忙殺され偏見までも受け容れるかが、貴女の考える心の強弱を分けているのかもしれない。貴女から観て私が強く、貴女が弱いと思うから、貴女は相対的な強さを求めからだろう。私だって死ぬことに不安があるかもしれない。しかし、それを考え、悩んでいたら、残された時間を楽しめない。「痛い痛い」と言って、何もしなければ時間の浪費。何かに夢中になれば痛みは和らぐ。勿論、それは坐禅が理想的。時間の浪費は長生きが保証されるならモタモタ人生でも良いかもしれない。しかし、そんな人間はいない。命には賞味期限がある。賞味期限をを知って、それを活かせるのと、賞味期限を知らずに時間を浪費する人生では、何れに価値を感じるか。
 『痛い、苦しい、不安だ』なんて天下国家の安寧を考えれば些細なことだ。
 ところで、『脳と悩』の文字の違いは何処か。“身体か心か”という違いに気付くだろう。しかし、心無くして体なく、体なくして心なし、という事実からすれば、体と心に区別も差別も無い。
 坐禅をしてごらん。心と体は不可分不可同であることを体験するよ。
 確かに、不安だろう。しかし、誰だって不安の一つや二つはある。確かに恐ろしいだろう。でも、そんなことに忙殺されちては、残り少ない人生を楽しめないぞ。
 無理しても食べろ。辛くても坐れ。そして十分に寝ろ。残された時間を楽しめ。
 成長させる責任のある子供があるのか、無いのかは知らないが、親は無くても子は育つ。夫がいるかいないか知らないが、貴女が居なくても大丈夫。地球には30億人もの女性がいる。誰か一人くらい奇特な人は現れるから、後は任せればよい。年老いた親が居るのかもしれない。それでも大丈夫。日本の祉は捨てたものではない。返し切っていない借金があるかもしれない。心配無用。金は天下の回りもの。
 ところで、何が本当に心配なんだ。泣いていても何も始まらないし、何も解決しないで、大事な時間が過ぎるだけ。
 自分の弱さが心配なのか。人間には出来る事と出来ないことは誰にでもある。出来る事に時間を使おう。出来ないことを悩んでいる閑はない。診断結果だって医者の意見でしかない。私なんか日本の名医といわれる医師の三人が異口同音に『余命6ヶ月』と太鼓判を押してくれてから、丸3年生きて、人生最後の仕上げを一日単位でしている。寿命なんてものも解らん。死ぬときは死ぬ。生きるときは生きる。どうせなら立派に生きよう。立派に死のうよ。
 悪いことは言わないから、兎に角、坐れ。幹部の痛みや心の痛みなど幻想だ、足の方が余程痛いぞ。不安は幻想なんだ。お化けと同じで、出た験しが無い。事実は、死ぬまでは生きているし、真実は、命は無限だということ。生に執着するな、拘るな、死に囚われるな。死ぬのか人間として健康な証拠。
 ところで、ドナー登録はしたか?他の人が使える部品があれば残してやりなさい。忙しいだろうが、時間が限られているなら、ノンビリと悩んでいる閑はないはずだ。自分のために生きるには限界があるが、他人のために生きるには限界はない。お互い、価値のある死に方をしようよ。それが『生きる覚悟』ということだ。大丈夫だ。我々が死んでも世界に影響は無い。むしろ、生きている事の方が問題かもしれない。
では、秋葉原辺りの冥土カフェで△印の鉢巻でもして会おう!只、今生きている奴と死んでいる奴では、圧倒的に死人が多いはずなので、お互いに出会えるかどうかチョット心配。
 どうしても苦しいなら、私のところに来なさい。苦しい心を私の前に出せれば必ず無くしてあげるから。
一日一生 慧智(070506)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

●『無常の偈』に学ぶ

■涅槃教より漢文と表面上の意味
諸行無常・・・森羅万象は常に変化し留まることはなく、
是生滅法・・・これを消滅の法という。
生滅滅已・・・生も滅も滅するに至れば、
寂滅為楽・・・何もかもを受け容れることが出来る涅槃の境地である。

*前半の二句(半偈)を流転門、後半の二句(半偈)を還滅門と言う。

■慧智の超訳
『全ては只一回の奇特な現象であることを悟り、全てを素直に受け容れて生きることが大安心の世界である』
 →一日一生(何事にも手を抜くな。今日出来る事を明日に延ばすな)
 →一期一会(何者も日々初対面、会った時には全力を尽くせ)
 →素直になって事実を受け容れろ。
 →心頭滅却すれば火は自ずから涼し。
一日一生 慧智(070504)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

2007年05月03日

●『大鑑慧能の禅』とは?という質問に応えて

『慧能大和尚の禅』について詳しく知りたい場合は『頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經(通称:壇経)』を通読された後、今・此処で貴方が出来るを完全にし切ることを奨めます。
 とは言え、問われた以上は、記憶の限りで応えましょう。しかし、慧能大和尚の禅は“頭(我)”では無く“心(己)”であることは言うまでも無く、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏の達磨大和尚の四聖句に見られる禅の肝の中の四句目にある“見性成仏”に力点が置かれているのが特徴と言えば特徴。
 『見性成仏』を文字や言葉で語ることを拙僧としては躊躇いがあるものの、言ってみれば、仏教の常識。当たり前のこと。誰に聞いても異口同音で、活人禅らしい答えに困る。
 つまり、『本来、此の世に現象している全てが公平、平等に埋蔵している“仏性(空に働く無一物の力)”に気付いた瞬間、己の内に埋蔵されている仏(無限の智慧)が萌芽し、即心菩薩となり、己(我ではない)とは即ち修行中の仏、菩薩であり、菩薩として、今・此処の己を素直に生きることこそ、己の外に何かを求める“我”ではなく、己の内の己(仏)を活かすこと。
 されど、簡単すぎて難解な慧能大和尚の心を理解する上で大事の全ては、達磨大和尚の五代目にあたる『五祖・大満弘忍大和尚』が後継者を選ぶため、弟子に対し、「詩に表した『悟りの心境』を観て決めるぞ」という『不立文字』から発想すれば愚問であって難問の思い付きに始まった、秀才にして高弟の誉れ高き『神秀』と、愚鈍に映るような下働きをしていた『慧能』の境涯を表す、以下に掲げた二人の詩から“己自身で”学ぶことを奨める。
 なお、ヒントとしては、慧能が弘忍大和尚の後継となって六祖になった後、周囲から囁かれたのが『神秀の漸修禅』、『慧能の頓悟禅』という有名な話を考えると良い。拙僧がそこから類推すれば、『神秀は左脳型の秀才、慧能は右脳型の天才』で、共に本来無一物の“凡才”から禅の修行により成長した“普通の人間”だということを導き出すだろう。さて、質問者は何を見出すか楽しみである。
 付け足しになるが、禅宗において“祖”とつくのは六祖慧能が最後となるのは、その後は南方禅の慧能系、北方禅の神秀系に分かれたからである。
→先手を打った神秀の詩は以下の通り。
■神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
→後手を打った慧能の詩は以下の通り。
■慧能の詩
菩提本無樹  明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
佛性常清淨  何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹  身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨  何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)
★問う:二人の詩の提示順序が逆さであったら、五祖は如何にしたか。(内緒だが、活人禅の公案の一つ)、まあ、書いた以上は永久に封印だから予習の意味は無い。
応えは以上である。

★最近、HPからの質問は増えたが、参禅者は減っている。活人禅は、堅苦しいのが嫌い。気軽に来て、気軽に坐って、楽しく山作務。『一泊二日三食四坐五月の坐禅は六祖の禅、無くて七癖、八百屋もビックリ、九労は無いが十実も無し、それでも実現、大子で大悟は3000円』。敷居は低く鴨居は高いが襖は無い貧乏寺。その上、全能の神は居ないが“禅脳”の死に損ないの和尚はいる。楽しいと思うがな。5月の禅会は、19(土)・20(日)。詳しくは★http://seppou.site/sche28/sche28.cgi ★メールは info2@seppou.site  大子も春爛漫、和尚は昼寝。軽薄短小、野狐禅和尚は禅僧の恥部。本日体調を崩し、ついに体温は40度。歩くと浮いているようで、頭は暴走、心は房総。海が見たい!
梯子と弟子は文字姿が似ているな~。何が違うのかな?

一日一生 慧智(070504)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

●良寛和尚の心、一休和尚の心

■良寛さんは、新潟の豪農の出身で18歳で出家得度し修行の後、大忍国仙の法嗣となり、歌人・詩人・書家として大愚良寛という法名で18~19世紀を無欲恬淡に草庵に住して、庶民と子供とともに淡々と清貧を生きた高邁深遠な境涯の曹洞宗の禅僧。
■一休さんは、天皇所縁の出身で、一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)という法名で、臨済宗大徳寺の47世を経て15世紀を飄々と生きた禅僧で、『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有漏路(迷い)より 無漏路(悟り)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」と応じて境涯を示し、伝わる話では、1420年のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したとあるも師からの印可を断り詩人·狂歌·書画を残しつつ風狂の生活を送った。
 さて、この二人、曹洞宗の良寛和尚と臨済宗の一休和尚の似て非なる人生から何を学ぶかは、各々によるが、“捨てるべき荷物”が多ければ多いほど、捨て去った時の爽快感は筆舌に尽くせないだろうというところだ。荷物は“苦楽一如”苦と楽は紙の裏表。財産であれ、家柄や学歴、地位や名誉であれ、欲望であれ何でも良いが捨てるべきものは大きい方が修行は楽しい。何故か。守るものが無い者が、守るものを持つ者より安らかの実感が大きいからである。私有から共有へ。物から事へ。有から無へ。何か感じませんか?
■良寛さんの漢詩から
言語常易出    
理行易常虧    
以斯言易出    
逐彼行易虧    
弥逐則弥虧    
弥出則弥非    
油救火聚弥    
都是一場凝    
■慧智の読み方
言語は常に出(いだ)し易く
理行(りぎょう)は常に虧(き)け易く
斯(こ)の言の出し易きを以て
彼(か)の行の虧(か)け易きを逐(お)う
弥(いよい)よ逐えば則ち弥よ虧け
弥よ出せば則ち弥よ非なり
油をそそいで火聚(かじゆ)を救わんとす
都(すべ)て是れ一場の凝(きょう)のみ
■慧智の解釈
理屈を捏ねることは簡単だが、理屈通りに行動するのは難しい。人は安易な言葉に頼って、行いの不足を補おうとする。
しかし、補おうとすれば、するほど底が見え、伝えようとすれば、するほど伝わらない。つまり、火を消そうとして油を注ぐような馬鹿げたことだ。
耳が痛い。しかし、これは良寛さんであって一休さんではない。

■一休さんの漢詩から
児孫多踏上頭関、一箇狂雲江海間。
大会斎還在何処、白雲蒸飯五台山。
■慧智の読み方
児孫の多くは上頭の関を踏めど、一箇の狂雲は江海の間。
大会斎(だいえさい)は還た何処にか在り、白雲は飯を蒸す五台山。
■慧智の解釈
伝統や系譜を肩にかけた頭でっかちの“お偉い”先輩弟子が公案を通るが、頭を捨て去り融通無碍に生きてこそ本物である。
耳が痛い。しかし、これは一休さんであって良寛さんではない。

一日一生 慧智(070503)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

【次の記事】

 

 

TOP