...
« 2007年05月 | メイン | 2007年07月 »

2007年6月

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

●第1089話 『眠れぬ夜の与太話』

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

●第1084話 『六道輪廻(3)』


●第1083-2話 『質問:出家の意味は』

●第1083話 『己の外に仏なし』

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

●第1081話 良寛さんと遊びたい

●第1080話 『文教に随わず』

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

●第1078話 『公案は頭では解らない』

●第1077話 『仏の乗り物は何か』


●第1076話 『“あれ・これ・それ”が庭前栢樹子(柏≒栢)』

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

●第1074話 『全ては過不足なし』

●第1073話 『学ばなければならないが、教えられてはならない事』

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

●第1071話 『未来日記(変形四行日記)による『日記療法』のポイントについて』

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 

 

2007年06月28日

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

茶を嗜む者なら、一度や二度は床の間で見かけただろうし、亭主の説明も聞いただろう。この一句は『心随万境転・転処実能幽・隋流認得性・無喜亦無憂』という二十二世の摩拏羅尊者(まだらそんじゃ)の偈で、「心は蟠りがなければ臨機応変に働くが、納得が行かない事があったりするとパニックになり、流れが滞り臨機応変は失われるので、喜怒哀楽に心は忙殺される」という感じだろう。人によっては、人生は“喜怒哀楽”があるから楽しい、という。確かに、己の過去を顧みれば解らんでも無いが、禅坊主であり、ストレス心理学、精神身体医学を学んだものとしては、喜怒哀楽の振れ幅の大きい者は、早死にすることを知っている。師のハンス・セリ博士は亡くなられる少し前に「ストレスは人生のスパイスだ」と言われたが、その言葉の裏には、真理を掴みつつも自己否定を嫌った師の個性がある。
 心の乱れが死を急がせることは、免疫系・内分泌系・神経系の不調和であることは解るだろう。そして、心が乱れていれば“自由”を失い臨機応変・融通無碍に暮らせず、心は何かに囚われ、何かに拘り、結果的に偏った考え方が、更なる窮地へと引き込む。これが“悪循環”というものである。つまり、心が万鏡に随わずに、見えているものを見ず、見えないものを見てしまうということだ。心が自由であれば、死ぬ時は死ぬ、生きる時は生きる。暑い時は暑い・・・。それらを評価せず差別せずに受け容れられる。正に“あるべきよう”であり、素直に生きることである。勘違いをして欲しくないのは、暑い時は暑いから、暑いと騒ぎ、暑さを征服しようとする心が起きるのは“素直では無い”ということで、暑い時は暑いように、動きはゆっくりと、4時には起床し午前中には一日の生きてゆくための仕事を全て終わらせ、昼は休み、夕方からはより善く生きてゆけるための勉学に時間を使うのが“素直”ということだ。だからこそ自分が『主人公』で『随所作主』、相対的な考えから絶対的な考え、枝葉末節から本質、喜怒哀楽から安心へという生き方の転換が必要なのです。その転換には『坐禅』以外の方法は万民向きではなく、出来る人と出来ない人が出る。坐禅は“安楽の法門”であり、正しい指導を受ければ個性や価値観に関係なく心身の健康に寄与するし、拙僧のように余命宣言を無力化できる。
 昨日今日、高温多湿の日々だが、今日はエアコンを消し、身体を締め付ける物は外し、窓を大きく空け放し、明かりを消して一本の線香を灯して40分坐ってみよう。拙僧は今日は日本時間の午後11時から坐るので、時空を超えて心を通じ合おう。
 では、その時に。
 一日一生 慧智(070628)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月26日

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

 禅とは何か、と問われて「己事究明」と応えるのは常道だが、禅者それぞれの禅があることが禅が禅である理由。曰く「文教に随わず」ということで、禅は心であり頭ではない。勿論、心頭は一如。心を離れて頭は無く、頭を離れて心は無い。水と氷の関係と同じように、水と雲の関係に似ている。なお、氷(固体)と水(液体)と雲(気体)という“常体の変化”に水の性質の本質が投影している。余談だが、体内に於いては外気温に関わらず36度程度で体重の75%程度は“水という定体”にあるのが人体だが、その比重や体積は役割を果たすために微妙に変わる。“心”という現象は、頭のみならず全身で起きる“そのような現象”の手助けもあって生じるのである。また、水中生物と水上生物の違いは、身体の中に海があり外に空気があるか、外に海があり中に空気があるかの違いだとも言われることがある。人間や猿とイルカや鯨を思い浮かべると、納得が行くような気になる。しかし、そういった枝葉末節への着眼から離れ、仮に地球を一つの生命体としてみると、人間が勝手に名付けたイルカ・鯨・猿と人間には“役割”の違いはあるが価値に違いは無い。
 つまり、個々に無関係な関係はなく、無心にして相互に支援し合うのが本質であり、それを知らずして生きている我の中に生起する心が“苦”だと禅では考える。言い換えれば、客観的(便法的だが)な苦を主観的な苦と認識しなくなりm主観も客観も一つに戻った田状態が“悟り”であり、それは体験者しか解らないのだろうが、その状態こそが大安心の境地である幸せであり、そこは全てに対して言葉に出来ない程の感謝や感激が自然と湧き上がってくる世界であり、その時の行動が“菩薩”の世界、一如の世界である。
 結論を言えば、禅はマゾヒストの自虐的な修行ではなく、サジストの他虐的な教えでもなく、“我”を一旦は棚上げにして“己”をトコトン探求する生き方であり、悟りの境地は一人で享受すべきではなく、行動を通じて普く十方世界に及ぼすのが禅だと言える。言わば“無心に率先垂範”こそが禅者の生き方であり、活人禅寺の“家風”なのである。金を稼ぎたければ大いに稼げ。遊びたければ大いに遊べ。ただ、それが自利に留まらず同時に利他を実現できればということはある。
 『利と理は偏らせてはならぬ。一つ物に拘ってはならぬ。一つ事に囚われてはならぬ。それが“禅心”であり、中庸の心、両忘の心である。故に、禅者はその境涯を“この身”で明かすのである。』

一日一生 慧智(070626)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月25日

●第1089話 『眠れぬ夜の与太話』

 仏陀とは「真理に目覚めた人」「覚者」という意味で、釈尊とは、釈迦という人間の尊称である。人間である釈尊(開祖)の悟りを追体験する宗教宗派が“禅宗”であり、そこに生きる生き方が“禅”であり、それを家風とするのが禅家である。また禅宗三派では達磨大和尚を禅宗初祖、連なる二祖を慧可大和尚、六祖慧能大和尚。その法燈を繋いでこられたのが歴代の祖師で、臨済宗の場合は臨済義玄大禅師を宗祖、栄西禅師を日本臨済宗の開祖、白隠禅師を臨済宗中興の祖、禅家に集う修行者を禅士・禅子、その師匠を禅師・禅匠・老師という場合が多いが、在家の修行者を禅士と言わず居士という場合もある。なお、鎌倉時代に日本において成立した臨済宗は、中国で成立した禅の一派で、禅匠である臨済義玄大和尚の禅風を伝える宗派で、日本臨済宗開祖の栄西大和尚が宋より伝え、現在に伝わる臨済宗各派の大半は鎌倉末期から室町期に活躍した『大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄』といういわゆる『応燈関』の流れにあり、江戸時代の白隠大和尚(禅師)を中興の祖として『心身一如』にある状態を意味する“dhyana(jana)”の音写を漢字に当てた禅那、そして坐を組んで己事究明、自己の本性を見徹することで『悟りを開く』≒釈尊の悟りを追体験し『禅定(心の完全なる自由状態)』に至らしめることを目的としている。なお、一般論として言えば、その悟りの境地は言葉や文字によって全てを説明することはできないという意味の『不立文字・教外別伝』、師と弟子の間の以心伝心で心から心へと伝わる『直指人心』をもって釈尊の心を伝えて仏となる『見性成仏』に帰着させるための方法が坐禅であるが、禅は目的・目標・手段を分けて考えないので、師が弟子の心頭一如の体得度を点検するために『公案』という問答の切っ掛けを使い、修行の成果を自覚させ、更に修業を深めさせる。なお、現在の日本においては江戸期の白隠禅師による古則公案の“体系化”が広く普及し、その大河は明治期の山本玄峰老師を経て末席の拙僧にも伝わって来ている。 つまり、我々は皆、釈尊の弟子であり法孫であるが故に、『“苦”の本質を理解体得し、苦を苦としない生き方』を“言葉を超えて率先垂範して普及する責任がある。なお、常識だろうが、仏教では苦の総体を「四苦八苦」と言い、四苦とは生・老・病・死(しょうろうびょうし)、八苦とは「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」を加えたものをいう。
 さて、人間は、その質・量の違いこそあれ、四苦八苦を避けて通ることは出来ないだろう。それは釈尊も同じ。ワシも皆も同じである。言い換えれば、苦しみを苦しみと認識出来ない人間に宗教は無用だろう。ところで、そんな人間はいないはずなのに、宗教を否定する者が多いのは何故だろう。その上、宗教を否定する人間を観ると“気の毒な位に不幸”なのは何故だろう。それは“自由な心”という状態を解らないからで、見えない縄で自分を縛っている『無縄自縛』という状態にあるからである。言い換えると、何かに拘り・囚われ・偏った考え方にあるが故に、己自身を理解出来ていないのである。
 活人禅寺は『来る者は拒まず、去る者は追わず』を信条にしている関係で、“下心”のある者も来るし、本来は自他不二だが、明らかな下心がある者や朱に染まる者、つまり、利他より自利を優先する輩もいる。それでも、活人禅寺は信条を曲げない。否、“無心”である。ワシもしばしば利用されるし、たった一人だが浄財泥棒も居た。しかし、罪人を作るのが寺では無いので、その都度、学びを頂くが、それでも『他人を疑う心』は持ちたくない。どんな者でも、清く正しく幸せに生きたいはずである。しかし、それが思うに任せない。実は“それ”こそが僧侶の責任なのだ。
 釈尊は、修行に入って六年目の12月8日に暁の明星を見て活然(忽然)と大悟され活人となった。師が居ただろうか。寺があっただろうか。それは『己の師は今・此処に居る己自身だ』という気付きがあればこその”大悟”である。語呂合わせでは無いが活人禅寺は“大子(だいご”という地にある。ワシが癌に負けないで済んだのも大子の寺のおかげである。釈尊は6年の修行で35歳で大悟した。つまり己を師として大賢者となった。釈尊も我々と同じ人間である。釈尊に出来て、達磨に出来て、臨済に出来て、白隠に出来て、皆に出来ない訳は無い。祖師に共通するのは上辺に流されず本質は何かとトコトン考える大疑心と、本来の己に対して素直になり、本質が解るまで諦めない心があったことだ。物事は途中で止めるから“失敗”というゴールが出来る。しかし、何があっても止めなければ失敗は無い。失敗が無い事が“成功”なのだ。言い換えると大悟が成功ではなく、大悟に続く道を歩み続ける事が成功なのである。ワシの人生も波乱万丈。3回も死に損なったが未だ生きている。考えると、為すべき何かが残っているからだろう。だから、「奇なる、奇なる、一切衆生皆如来の智慧徳相を具有せり。只、顛倒妄想の故に知ること能わず」と喝破する日を目指して生きる。誰が言ったかはどうでも良いが、「万物は天地人の三つの働きで成り立つ。天は理想、地は現実、人は実現」ということが言われる。それは、己の人生を宇宙と一体化し人生を大地に根を張り、万物の理想の実現のために現実の生活(事実)をしっかりと踏まえて生きていくべきである」ということだろう。幸せとは、あらゆる迷い、あらゆる苦しみから解き放され状態である。それには、無限の空間、悠久の時間を超越し、物事に拘らず動物、植物、鉱物とを問わず、賢愚の別なく、全て公平で公正な生き方を志すのが大前提である。“起きて半畳、寝て一畳”、空っ手で生まれ、空っ手で死ぬ。どんな生きても百年そこそこ。その上、誰でも明日生きている保証は無い。誰だって“今・此処・己”のみが現実である。釈尊であっても最初はたった六人からのスタートで、80歳で大遷化されるまで行雲流水の如く、三衣一鉢以外持たず、乞食(托鉢)されインドの各地を説法して回った。時代が変わっても釈尊に出来て我々に出来ない事は無い。勿論、方法は異なるだろう。しかし、ワシはワシを含めて皆にも出来ることだと信じている。人間は“生き方”で価値が決まる。釈尊だって45年の行脚を行い80歳になった頃、生まれ故郷に向かう途中で鍛冶屋さんが差し上げた供物を食べ、腹痛で床に臥し、死を悟った時の説法が後に『遺教経』として伝わり、2月15日に大遷化(涅槃に入られた)された。
 末筆になるが、釈尊が『事実の無分別なる直視→本質の発見→教訓化(一転語化)→生き方の発明』という悟りへの流れは、四苦八苦の現実を直視し、苦の本質をつきとめ、苦しみを滅するために四諦八正道の教え説き『坐禅』を考案されたことを忘れずに、最後の最後まで諦めずに生きようではないか。
 何か、遺言めいた話になったが、痛みで一睡も出来ないと、ワシの辻説法のトーンも変わるようだ。まあ、良いか。誰も明日の事は解らんからな。 今日の説法はワシ自身に向けて書いたようなものだ。ワシも弱い人間だということだな。
一日一生 生き恥を曝している野狐禅和尚 慧智(070625)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月22日

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

 論語の為政篇に、子曰く「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という件がある。孔子は“学問”と“思索”を独立概念としてとらえていたのか、それとも補完概念と考えていたかは、個々の研究者の解釈に委ね、ここでは前出の句を“禅の眼”で観ることにする。すると、禅という“一如”の発想ではなく、“道徳や倫理”に繋がる“二つ分かれ”からの発想だということが解る。つまり、「すべき事とすべきでない事」という雰囲気があることに気付くだろう。
 つまり、禅では父母未生以前、隻手音声から類推できるように、“二つ別れの前”に本質、原理原則を見て、眼前の事実(その背景)こそが本質・真理は“投影”と考えている。拙僧は“それ”こそが『百尺竿頭の世界と其処から飛び降りた処の世界の違いだと思っている。
 さて、孔子の『学び』とは何だろう。それは孔子の他の言葉から伺えるように書物や経験など他人からの借り物の“知”を意味している。また、『思い』は、知を純粋化してゆく中での独り善がりの”痴”を意味している。つまりそれは学者の発想であり、止揚することで“統合化”する考えか方に他ならない。それは確かに単純な体験や経験を広く深い“智”にすることは出来るだろうが、所詮は頭の理解であって簡単には体に浸透はしないだろう。それ故、禅における“今・此処”の悟りのように過去と未来の活動を劇的に変え力には成り得ないので、拙僧は“それだけ”では不十分だと考えている。言い換えると“智”は日々の行動に活きてこそ完成する“叡智・智慧”であり『本質』だと思っているからである。
 本質(智慧)に辿り着く道が『坐禅』であるのだが、坐禅も坐禅だけでは不十分で、坐禅の初期で得られるのは“痴(偏見)”であり、それは作務を通じて“智(真理)”となり、室内において『叡智・智慧』となり、更に聖賢の書・言葉、日々の事実、気付き、行動を通じて無相の相たる“般若(全身に染み込んだ智慧)”に至るのが“禅”である事を全身で知っているからである。
 さて、現在は“頭でっかち”の時代と見ている。そういう拙僧も“その傾向”が無くも無いのは自覚しているが、それを踏まえつつ話すので聞いて欲しい。頭でっかちとは、一億総評論家を意味していると考えて欲しい。
 過日、政府の『教育再生会議』の反主流はのメンバーと以下のような話をした。員「この会議の本質は何だろう。議論が盛り上がれば盛り上がるほど考えてします」僧「なるほど。つまり、コンセプト(概略)を作るのが使命なら枝葉末節に偏りすぎ、ワークが使命なら抽象的で感傷的である、と感じているのではないか?」
委員:「正しく、その通り」
拙僧:「そもそも『教育再生会議』という表現は誤りだとワシは思う。正しくは『“公”教育再生会議』が正しく、国民を勘違いへ誘い込もうとする邪心はみえみえである。勿論、政府系権力が公的教育を支配するのは、国民から付託された権限の一つではあるが“全て”ではない。つまり、『私教育(家庭教育を含む)』の自由を奪う権利はない。教育という知育・徳育・体育(行動)、頭・心・体(行動)が『同質』となる“躾”であり、本質的には“親”の責任である。勿論、現代のような情報化時代においては、継続的に体系化された知識は学校でしか出来ないだろう。だからこそ、平均的な学習は公立学校の役割であり、家庭の役割は“心”を中心的にしたものであることは確かである。何故なら、躾とは“家庭の文化”であり、国により平準化・標準化されるべきものでは無い。言い換えると、民族の未来を担う現在の責任である。
 美徳の国“日本”から“徳”を取り去り、私利私欲の為に、子供に悪影響を与えている原点は一部の政治家と一部の役人の行動である。二次答申の中にも、“道徳教育”に中途半端に言及し、“親学(親としての子育ての常識を学ぶ事)”の必要性を述べているが、教育(子育て)に迷った時に戻る『依って立つ』拠り処”、便爾“価値基準”を明確にしないところに根本的な問題がある。それは、諸悪の根源が“頭でっかちで偏見に満ちた”リーダーを選んだ国民の無智にあるということだ。そもそも“再生”というなら“いつの時代が理想であり、どの状態に戻す”のだろうか。それが示されていなければ『再生』の意味が解っていないことになる。委員「では、どうすればば良いか」
拙僧「禅が全てだなどと言うつもりは無いが、せめて儒教・道教・仏教の基本的な知識論語程度は持っているメンバーに入れ替えないとならんな」
拙僧:「考えてもみろ。日本にとって維新から戦後の最悪の時代でも、優秀な人間は出ているし、彼らが今の礎となっいる。それは頭より心を重視した『意欲と志』があったからだ。
拙僧「今、問題とすべきは国際社会を比較の対象とする『相対的な成績の低下や、犯罪の低年齢化などなどではなく、『日本の理想像(目的)』を示しつつ目標を明確にすべきせで、それが出来ない政府の無智を正す事である。
拙僧:日本は“美徳”の国であり、法律で雁字搦めにした懲役列島ではない。・・・・。
 
 この先は文字にするのが憚られる様な教育再生会議の呆れた内幕が告白された。
 教育は、100人居れば100人の教育論があるだろう。だから、それを一本化するような事をせず、政府は選択肢を用意し国民が選択権を行使できるようにすれば良いだけである。だが、子供の教育を云々する前に“政治家と親と教師の教育”を見直すことが先だ。品格も無ければ人間力も無い政治家を当選させない選挙制度の確立が遠回りなようで近道である。(続く予定)

一日一生 慧智(070621)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月20日

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

 子供の頃に「そんな事をすると“罰(ばち)があたるから、止めなさい」とか、仏様に尻を向けると罰が当たりますよ」とか、日常的に相手の行動に不快感を覚えている無智な者が相手の偶然の事故に呼応して、「ほら、罰が当たった」などという捨て台詞を俗世間では耳にした事が無くも無いが、寺では五十年此の方、只の一回も聞いたことが無かった。
 ところが、先日、遠くから寺を訪ねて来られた方の口から「罰(ばち)」という今や俗世間でも十年に一回聞くか聞かない死語が飛び出し、一瞬、面食らった。
 そもそも『仏教では天罰・仏罰・祟りなどなど』、超現実的というか嘘というか、己≒仏≒菩薩≒天然自然の一部を説いているし、“己の外に仏なし”とハッキリと言っているように、人間を超える力(超能力)など自然を除いては無く、故に人間に災いを与えるなどありえない訳です。そもそも仏教では“余程無智な者”に対して俗悪から身を引かせる為に“脅し”というような最終兵器(権力)を使わざる得ない場合なら『例え話』として使われるかも知れないが、先ずは、それも無いはずです。
 つまり、仏教と『因果論的な罰』の間には相関関係は無いと断言できます。そもそも『罰(ばつ・ばち)』
は“己の外の絶対者”の代理人を自称する教祖、巫女、神官、霊能者などが、専売特許でも持っているような顔をして“無智な人間を洗脳する手段”として使われている言葉であり、仏教から考えても、科学的に考えても『荒唐無稽』なのです。
 しかし、神仏を隠れ蓑にして教団を組成し集金構造を作るために『罰』という人間の弱み(恐怖感)に付け込むための切り口としての”罰”という概念を利用する者は後を絶たない。しかし、所詮は嘘であり、その内“刑事罰”という人間が考えた人間社会のための矯正教育手段を受けることになるだろう。その時、彼らは、それでも“遂に私にも罰が当たった」というのだろうか。聞いてみたいものである。
 釈尊は『一切皆空』であり『苦は己の外に願うことで内に生じる』という法則を発見し、“あるがまま”に生きる生き方を発明しました。達磨大和尚の二入四行も根っ子は同じ。“我”を通そうとするから“己”が苦しみ、“身”に報いが現れて四苦八苦する。苦の全ての原因は、己の汚れた姿である“我”にあり、自分以外に責任があるなどという愚かで無責任な責任転嫁は仏教徒なら絶対にしません。そんなことは“拝金教”の専売特許みたいなもので、それを侵害したら、それこそ相手に“罪を作らせ”て、結果的に刑事罰を受けさせなくてはならなくなるような無慈悲な事は出来ませんからね。ハッハッハッ。それこそ水戸黄門が転んで“見て肛門”になりますよ。
 さて、今の世の中にも“地獄だの天国だの”という迷信が生きているのだろうか。現実に生きている世界には地獄の様な、天国の様な、物語の世界が実現することは理解できる。しかし、それは人間にとっての不都合であり、地球にとっては新陳代謝の一環であったり、社会や個人にとっては“学びの機会”であり“脅威が人間を成長させる”という結果に結びついている偶然である。だから社会科学的には“確率論的分散”が成立しているので、災害(天才人災)は“保険”の対象として料率が計算でき、財務省がお墨付きを出しているのです。ところで、『生命“罰”保険、損害“罰”保険』というが有りましたっけ?アッ、そうだ。思い出しました。“バチ”は当たりますよ。先日、銀座のジャズ喫茶の一番前でジャムセッションを聞かせて頂いていた時、ドラムーのスティックが飛んできて足に当たったんです。つまり“バチが当たった”のです。そうしたら、店の社長が飛んできて、お詫びに何かリクエストを演奏させますということで、マイルス・デービスとジョン・コルトレーンの曲を演奏してもらった。そして、帰りがけには、神様か仏様か知らんがドラマーから声がかかり、CDと招待券も頂いた。いや、“バチ当たり”な事はするものですね。
 『地獄で仏』に会って見たいが、仏教は迷いや妄想の本質を明らかにして、イキイキと生きる道を発見させる支援をするものです。120%、恐喝や騙し脅しはしませんよ。そして諸行は無常。善悪は相対的幻想です。日々は好日です。罰でもバチでも何でも結構。有るがままの事実として受け取り、学び、人生に活かして行きましょう。そうしないと“バチ”が飛んできて恐縮しなければなりませんよ。

一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月19日

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

 他力のシンボルが“神”、自力のシンボルが“仏”。神は己の外にあり、仏は己の内にある。神は己に対峙する絶対者、仏は己その者の本質。神は彼の世にあり、仏は此の世にある。権力の為に殉死すれば神、己の為に殉死すれば仏。神は文学的経験、仏は現実的体験。神は組織行動、仏は独立独歩。神は自由を奪い、仏は自由を説く。神は殺し、仏は活かす。神は“特別な人間(特定の場所を与えた)”を幻想させ、仏は“普通(普く世界で通用する人間を自覚させる。神は随わぬ者を罰し、仏は随わぬ者も受け容れる。神は“霊”、仏は“魂”。神は“御告げ”、仏は“悟り”。
 最近、この“当たり前”が忘れられている。否、故意に歪められている。それは何故か。 また、仏教宗派の中には仏を方便以上に神格化した“如来”を崇拝し他宗を否定するところがあるが、それは何故か。更に、新興宗教の中には極めて独裁的(教祖崇拝)なもの(所謂カルト)があると聞いたが真偽の程は解らないながら、葬儀に徒党を組んで乗り込み、葬儀そのものの主導権争いをしたり、香典を着服して故人宅に上がりこんでは、既存の仏壇を破壊して新しい仏壇に入れ替えたり、墓地を売りつけている会があるという。思想信条、信教の自由が憲法に定められている我が国で、そんな暴挙や邪道が罷り通るとは思わないが、仮にあるとするなら、それは“マルチ商法”の一つか“講”の過激版で自らの組織の力を維持発展させるために考案された集金システムであり場合によれば政治活動と絡んでいるとしか思えないし、少なくともそのような団体は仏教団体ではなく、カルト集団(教団)に違いない。
 仏教は“来る者は拒まず、去る者は追わず”。凡夫即菩薩、煩悩即菩提。考え方は深さ(経)の違いであり、幅(緯)ではない。経てなれば“道”、緯なれば“椅子”。道は誰でも歩めるが、椅子には限りがあり、“椅子取り”となると対立が起こるのは自明の理であり、過去の多くの戦争は、その“椅子取り”合戦がエスカレートしたものだ。勿論、『経ての道(大道という)』には、多数の分岐があるが、皆、出発点も終着点も同じで門は無く、出入り自由なはずだが・・・。
 さて、本題だが、“祈り”と“誓い”について禅士諸君は前出から類推すれば大凡の見当は付いているだろう。“祈り(祈願)は完全な他力であり、“誓い(誓願)”は完全なる自力なのだが、それは極論であり、両忘すれば同じこと。つまり、祈るか誓うかは当人の心の問題であり、事実という枝葉末節は複雑だが、真理は大幹根底は単純であるからして、大した問題ではない。そもそも“自他一如”とは自力と他力は表裏一体ということなんです。キリスト菩薩にマリア観音、アラーもユダも皆菩薩。それで良い。鰯の頭だってカラスだって御本尊。大いに結構。
 さてさて、前出の疑問に皆は如何応える。
一日一生 慧智(070619)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月17日

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

 例えば風邪をひく。二元論的にはウイルスに感染したのが原因。間違いは無い。しかし、ウイルスが充満している部屋にいて風邪をひく者とひかない者に分かれる。何故か。二元論的に言えば、免疫力が落ちている者が感染し、免疫力がある者は感染しない。間違いない。では、免疫力はどんな理由で上がり下がりするのか。二元論的に言えば、ストレスが原因となる。ストレスは身体的と心理的と分けられる。栄養失調、体力低下、怪我や病気のようなものが身体的要因。不安や不信に伴う被害の予感などの心配事、焦り、競争、不満、悲しみ、度の過ぎた喜び・・・などが心理的要因。言い換えれば、個体の免疫力が最高値を示すのは、『満足では無いが不満との言えない状態』、つまり“喜怒哀楽”に変化が少ない状態で、『病気や怪我と認識する程では無いが、健康体そのものでも無い状態』である。勿論。それらの認識には、個体差、個別的特長、つまり個性の違いが大きく影響するので、“同じ事実”であっても感じ方、認識は質的にも量的にも差が大きい。言い換えれば、あらゆる事象に対して“悲観論者でも楽観論者でも”まずい。勿論、悲観論者より楽観論者の方が“ストレス耐性”が高いのは事実だが、認識することと体が認知することは異な、免疫力に与える影響に差異は小さい。
 つまり、どうして風邪をひくかと言えば、『分別妄想(煩悩)により無(自)縄自縛となり、心が乱れ、『自由(自ずからの由:自ずから然るべき状態)』を失うことで、ストレス因子を感知して無意識な抵抗で心身の疲憊が進行し、やがては当該個体の“免疫力”を弱体化させ、病名の付いている病気の95%を発病させるし、ストレスが心の免疫力を蝕んだ結果“怪我”や“事故”に遭遇する確率が高まることから、『ストレスを要因として免疫力が非弱化して怪我や病気が増す』という一見“風が吹けば桶屋が儲かる”的な現実があるのが“人体”であり、人体の生理機能が投影したのが“社会”である以上、個人のストレスが個人の心身のみならず社会が“病変”するのである。
 ここ50年の精神身体医学の進歩が、欧米的な心身二元論を消耗させ、東洋的な心身一元論が注目を浴びている。極論を言えば、権力者のストレス、免疫力を変数として“戦争”すら勃発するのである。その事を2500年前に解明していた釈尊(仏教徒)は、戦争の加害者(攻撃者)に現代に至るまで無く、権力者のストレス状態から十字架に掛けられて罪人として処刑されたキリストを崇拝する信者は、史実として確認されている4000回余りの戦争うち、約80%の戦いの当事者なのである。それ故に、戦争という集団的ヒステリー状態、ストレス状態が“競争・破壊・略奪・洗脳(宗教の押し付け)”の権化がキリスト教徒の特徴であり、無抵抗が特徴の仏教徒と全くことなる文化を築いているのである。言い換えれば“愛の宗教”と“慈悲の宗教”という社会基盤が180度異なるが故に、性悪説をとるキリスト教に対し性然説をとる仏教という図式が攻撃的リーダーシップ文化と守備的マネジメントの文化を生み出し、今日に至っているのである。
 前出のような言葉による説明は“分析・還元論の二元論”が有利だが、その分析の結果“一元論”に傾きつつあり、二元論の文化は一元論に向かい、一元論の文化は二元論に向かい、欧米に“禅”が広がり、アジアにキリスト教が広がりつつあるという捩じれ現象がおき、東西問題が縮小し、南北問題が拡大しつつあるのも“現代”という時代なのである。
 人間は60兆の植物性細胞と動物性細胞の共生体であり、細胞は分子構造・原子構造・素粒子・量子の構造を持ち、最終的には“力(波と粒子)に帰結し『色不異空=空不異色、色即是空=空即是色』『不生不滅、不垢不浄、不増不減』・・・で語りつくされているのである。故に『一切皆空』であり『物心一如』である故に“一元論”こそが“真理”への道なのである。この辺りは白隠禅師坐禅和讃』が優しく解説している。
 さて、表題について解いみよう。禅は“拘らず・囚われず・偏らず”と言いつつ、一元論に偏り・拘り・囚われているという言い方をする者があるが、実は『禅』は、釈尊の心そのものを拠り処にしており一元論でも二元論でもなく“無元論”と解釈と言った方が解りやすい。しかし、一般大衆に“無”を説明するのは難しく、まあ大きな括りから言えば“一元論としておこう”と鈴木大拙師らは語っていた。西田幾多郎先生と同級生で竹馬の友である二人が、若き時代、共に数学に心を向けていたいたが、夫々が『宗教学と哲学』という似て非なる道を歩んだのもお“その辺り”の微妙な理解が異なったからだと聞いている。
 さて、話を戻して、表題の『心身一如』についてだが、賢明な読者は既に読み取っているだろうが、『風邪』と『心身症』の原因は生育環境での価値観の異なりなどを除いては極めて類似し、『心身症』は“心の風邪”のようなもの、現代では、誰でもが“予備軍”であり、明日は吾身なおである。
 念のために以下に般若心経を書いておくので、ゆっくりと読んでみよう。多分“心身一如”が理解できるだろう。そして、出来れば“人生観・生命観”が変わるだろう。つまり、『競争より協奏』、『無対立・無犠牲・自主独立・一日一生』の意味は簡単に理解できるようになるということだ。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶、般若心経

一日一生 慧智(070617)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年06月15日

●第1084話 『六道輪廻(3)』

 地獄という場所、浄土という場所など無い。しかし、“その心”はある。一日一生として、一日を「働く・学ぶ・寝る」を三分割して考えても、その時、その一瞬の心がある。
『餓鬼(がき)』のように金の為にガツガツと働き、物や力に飢え、焦りを覚えるような時。
 『畜生(ちくしょう)』のようにセックスを求め、美食を求め、睡眠を求めて得られない不機嫌な時。
 『修羅(しゅら)』のように喜怒哀楽を表に出し、競争に負けまいとしてストレスいっぱいの不安な時。   『地獄(じごく)』のように、悩み・苦しみ・悲しみの中で四苦八苦している苦痛な時間。
 『菩薩(ぼさつ)』のように穏やかで心が安定している余裕のある時。
 『如来(にょらい)』のように何もかもが頂天にあるように満たされ誰の望みでも適えてあげたくなる時。
人間であれば、“如来の時”とまで言わないが、せめて“菩薩の時”だけを過ごしたいと思うだろうが、それには何もかも投げ出して人里はなれた山中の叢林の篭らなければならないだろう。しかし、それは非現実的。その上、臭いものに蓋をするが如く、己のみの安楽感は得られるだろうが、それは本来の幸せには程遠いだろう。事実、不幸な人がいることを知っていて、知らぬ振りなんて出来るだろうか。本当に幸せになりたいなら、幸せにすることだろう。「他人の不幸は蜜の味」ということを言う人がいるが、暫くすると蜜の味が“ほろ苦い”ことを知るものだ。本当の幸せとは、全ての人々が争わず穏やかに菩薩のような生活が出来ている時に湧き上がる“心の状態”だろう。世の中には、菩薩のような顔をしていながら餓鬼、畜生、修羅、地獄の住民がいるのも確かだ。しかし、それに目くじらをたて、イライラしていては、己の幸せは遠のくばかり。だからと言って許していては罪を繰り返えし被害者が増えるだけ。そんな悩みを工夫で乗り越え、その世界からの脱出を支援する修行こそが『菩薩行』だろう。言い換えれば『経営者』は菩薩であるべきなのである。
 人生は『一日一生』の積み重ね。心の持ち方一つで、六道は輪廻する。だとしたら・・・。如来のような一切の見返りを期待しない慈善家。菩薩のように皆が幸せをつかめるように支援する経営者を目指し、六道を輪廻する毎日を修行と考え、少しでも己を磨き、菩薩、如来に近づこうではないか。
 活人禅寺は、餓鬼・畜生・修羅・地獄の時を苦しんでいる者が、一時でも菩薩の心を味わい、如来を目指す心が芽生えることを支援している寺である。
 明日、明後日は禅会。来る者は拒まないし、去る者は追わない禅会である。
この時期の参加者は少ないので、覗きに来て見なさい。
一日一生 慧智(070615)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

【次の記事】

 

 

TOP