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2007年6月

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

●第1089話 『眠れぬ夜の与太話』

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

●第1084話 『六道輪廻(3)』


●第1083-2話 『質問:出家の意味は』

●第1083話 『己の外に仏なし』

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

●第1081話 良寛さんと遊びたい

●第1080話 『文教に随わず』

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

●第1078話 『公案は頭では解らない』

●第1077話 『仏の乗り物は何か』


●第1076話 『“あれ・これ・それ”が庭前栢樹子(柏≒栢)』

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

●第1074話 『全ては過不足なし』

●第1073話 『学ばなければならないが、教えられてはならない事』

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

●第1071話 『未来日記(変形四行日記)による『日記療法』のポイントについて』

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 

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2007年06月14日

●第1083-2話 『質問:出家の意味は』

 ネット禅会に参加している方から「出家は僧侶になること思っていましたが、“在家出家”ということが他宗には有るようですが、出家の意味を教えてください」という質問をうけたので、活人禅宗としての見解を話そうと思います。元来、出家は、家を出て修行に入ることであり、柵を切り無一物となることです。そして、剃髪して仏門に入り仏に帰依する『得度』とセットになって初めて、『僧侶』になると言えます。
 つまり、僧侶の一大事は“柵から自由になる”、言い換えれば『解脱』する。言い換えれば家族や近親縁者と結ばれている“絆(きずな)”を100%断ち切り、全ての人間、全ての現象と公平無差別の絆を結ぶことと言えます。簡単に言えば、私有、所有という“愛着(煩悩)”や、父母兄弟姉妹への“愛情(煩悩)”を一旦は捨て、全ての現象や存在と“等距離”になること、即ち“慈悲”に生きることです。ですから、正しく、文字通りの『本来無一物』を生きることです。何か“仙人”のような感じがするでしょう。現実には、“煩悩の凝縮”といえる一人の人間を他の人間と差別し義務と権利の対象とする『結婚』が、仏門でも一般化し、本来無一物のはずが地所家作、車などの私有財産を持ち僧侶が多く居ます。つまり、職業としての僧侶、身分としての僧侶、生き方としての僧侶・・・、いろいろな僧侶がいます。それが現実であり、質問者が疑問を持つのは当然です。この説法でネット禅士の質問を取り上げたのは、快楽追求主義である自由主義・資本主義、禁欲主義と言われる共産主義や社会主義などを引き合いに出して、拙僧の考えを述べるためではなく、『~主義』という考えも捨てるのが出家得度だということを知らせたいから
です。偏らない心、囚われない心、拘らない心。それが本来の“自由”という心で、現実から逃避せず、“あるがまま”を受け入れて尚、自由に生きることが出家だと考えています。言い換えると、「したい事、すべき事」という心を捨て「出来る事」に生きることで、『出家』は物理的な問題ではなく、心の問題だと考えています。ですから、仏門に居ても出家ではない人もいれば、家にいて出家している人も居るのです。
 ところで、あなたは初対面の老婆と実母を無差別公平に扱えますか。扱えれば出家、扱うことが出来なければ在家です。『性愛から始まり族愛、理愛、博愛というプロセスを通じて慈悲に至る』のが人間です。そして。それらの段階は重畳的に現象し続けつつ重みが変わってくるのが人間の成長です。例えば物欲は性愛+族愛+理愛の投影であり、やさしさは、博愛までのプロセズの全ての投影、受容は慈悲までにプロセスの全ての投影なのです。ですから、出家は『煩悩を踏まえつつ慈悲に生きること』だと考えています。
一日一生 慧智(070614)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

●第1083話 『己の外に仏なし』

 仏は心であり、脳のOSであると感じる事が時々ある。つまり、それは脳がCPU(中央処理装置)、つまりコンピュータの構成要素で、内外装された装置の制御やデータ処理を行なう機能を持ち、記憶(蓄えられた情報、メモリ)をプログラムを実行する役割を持つ“部分”で、所謂、『入力→変換→出力』という力や情報の処理の中心で、動物の『五感→脳→運動』を基本としつつ、入力が無くても出力が出来る“人間”の特徴、即ち『五感→記憶→変換→行為』という流れから考えると、『“心”≒“仏”≒記憶変換装置』なのである。つまり、心は特定の臓器ではないという場合は、『感じない・思考しない・動かない』、脳は心だという場合は『五感・記憶・変換・行為』の一連をいうことになる。言い換えれば、宇宙(物理的)や社会(心理的)と幅広い情報交換を行ないながら、必要と考えた時に情報を処理して行為するのが、“心”と言える。勿論、コンピュータは脳を基本モデルとして目標にしつつ、人間の心の再現を目的に考案され、製作され、日々進化し、現在では脳の機能の一部は超越し、心に似た動きが出来るようになっているが、生物の脳はその生物の脳の機能を超える世界は作れないことは衆知されている。しかし、それは個人の脳が器質的に同じである“機械”と考えてのことで、地球で最も知能の高い人間が作成したコンピュータは、その彼の心をも引き継ぐために、全ての価値観を壊してしまう可能性を秘めている。
 ここで考えたいのは、一人の“心”は他の人の行動を情報源にしたり、他の人の心を自分の心が感じて二つの心がシンクロしたりするという経験的な事実は、心は地球であり、全ての物質現象、生命現象から切り離しては“一人の心”は現象できないということ。つまり、『己の外(ほか)に仏なし』が真理だということである。そして、その真理を、ある人は“神”と名付け、“仏”と名付け、“天然”などと名付けているだけなのかもしれないと、ということである。言い換えると、現象に対して人間が名付けた名称、それに担わせた意味などは、例外なく便法であり、便宜的なもので、それを“絶対”として論理展開したり、自由連想したりするのは、瞬間的なことで、実体など無いということである。
この話を“私の脳力”で、万民に理解できるように事例を引いて語るためためには“本一冊分”は最低でも必要なので、ここらで良寛和尚の力を借りてみる。
  
◆良寛さんの原文
仏是自心作 道亦非有為    
報爾能信受 勿傍外頭之    
北轅而向越 早晩到著時    

◆慧智の読み下し文
仏は是れ自心の作にて、道は亦た有為に非ず。
爾に報じ能く信受して、外頭にそうてゆく勿れ。
ながえを北にして越に向わば、いつか到著する時ならん。

◆慧智の超超訳
仏は自らの心がつくり、道は有為ではない(無為だということ)。
汝はこれを受け止め、外事に追随するな。
舵を北にして越に向っても、いつそこへ至り着けるだろう。

一日一生 慧智(070614)久々に体温が42度を超え、全身に痙攣が走った。またも“生きているな”と感じさせてもらった。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月13日

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

 拝金主義、拝物主義の“美しい日本”。金と地位が「人間の価値を決める」と豪語する者が多い金融、不動産、IT関連の若き経営者。勝組負組を構造化し権力の座を維持しようとする二世三世の政治家などなど、巷に跳梁が闊歩しているのは教育の荒廃が大きな要因になっているのだろう。所謂“格差”は、本々一つのあらゆる現象を二分三分し、無限に分かれたものを二極化することから始まる現象である。例えば人間を男と女、貧と富、美と醜、善と悪・・・。本来は“統合し調和させ融合する”方向へ進むべき道が誤った方向に進んでいる。その仕組みの原因は、神経系を持つ生物であれば具有しているが、その機能が暴走しないように内分泌系と免疫系があるが、機能不全になっているのかもしれない。二律背反の源泉であるデジタル系は神経系の産物。統合融合の源泉であるアナログ系は内分泌系の産物。そして、自己と非自己という判断の源泉である免疫系。生体に異変があれば、3つの系が同時に活動して生命を守り、進化への情報を収集しつつ成長させる。現代科学では随分前に発見されているし、生物の生理機能が外部にとうえいしたものが、その生物の社会・世界であるということも理解されている。にも関わらず、その知見が生きていない。言い換えると、人間が病むから社会が病み、社会が病むから人間が病むのである。このような状態にある世界は、対症療法は病巣を慢性化させ、症状を助長強化させるので、根本療法と併用しなければ何れは滅亡する。
 表題の『人生、如何に生きるか』ということを出来るだけ多くの者が真剣に考える事が根本療法への道を開くことになる。人は夫々で、一つの考えに偏り、拘り、囚われてはならないのは当然のこと故、何を考えるかは自由。本来は前提も不要。しかし、白い布に染みが付いた場合は、染める前に染み抜きをするのと同様に、何事によらず、一つの考えに固執せずに、『対立』は避け、多くの考えを受容し、本質の部分において“満足ではないだろうが不満とまでは言えない”『中庸』を模索することだけは約束事にしたいものである。そうすれば“多数決”という強者の切り札を使わずに済む。多数決という横暴が罷り通るから政治は荒廃し、『美徳の国』から“徳”を奪いさり利権を貪る者が鼠算式に増えるのだ。それに随い経済、教育、福祉・・、全てが後を追う。
 『人生を如何に生くるべきか』を一人ひとりが真剣に考えなければ明日の日本も人類も無くなる。“人間”を考えるとなると体系的な哲学という勉強が必要になるが、“己”を考えるには坐禅さえあれば宜しい。一日20分で良い。場所など何処でも良い。足を組まなくても良い。ただ、呼吸を整え、姿勢を正して半眼を維持し、現実・事実から逃げずに、それらの背後に流れる本質に目を向ける。それだけで良い。
  
 臨済宗大徳寺47世住持というには不似合いな一休宗純は、あらゆる権威を否定し、更に悟りさえも否定して、大徳寺に留まらず、庶民の中で生き抜いた拙僧など足下にも及ばない“真面目な破戒僧”であり、勝手に“師匠”にしている禅僧がおられた。一休禅師がある時、在家筋から家宝にしたいので一筆認めてくれと頼まれ、「けんかなぞせず、くらそじゃないか 末はたがいにこの姿・・」という賛を付け、一つの骸骨は自分自身、もう一つは喧嘩相手として二つの骸骨の絵を書きました。それから何を読み取るかは自由。しかhし、多くの者は「人生色々、人間関係も色々。だが、互いの行く末は“こんな姿(骸骨)”で、競い争うことなど愚の骨頂」と受け取る者が多い。
 また、“タクアン漬け”の考案者で、宝鏡寺等を再興した沢庵宗彭和尚は、一休さん後輩。同じ大徳寺の154世住持となるが、一休禅師同様に、三日で寺を捨て、書画・詩文・茶道を親しんだ自由闊達、融通無碍の禅僧で、周囲に武術家が集まったことからも類推できるように、「ことばにも、色に出して候ては、用心になり申さず候・・・」と言う和尚の心は、「常に備えつつ、その“備え”を表に出すな」というもの。禅でいうところの“無心の心”を生きた。つまり、人間関係は考えれば難しいが、相手と“二つ別れ”する前の状態を知れば、『無対立・無犠牲・自主独立』という生き方が出来ることを示している。勿論、“無”を知るには『坐禅』である。
 『人生、如何に生きるか』。それを考え尽くす。それは自分なりの“本当の幸せ”への道が開くこと。道が開けば、『手段も目標も目的』も一つであることが解る。つまり、『今・此処・己』が全てであることが解るのである。繰り返しになるが、過去は決定して戻ることも直すことも出来ない。未来は未だ来れず可能性以外に無い。そして今は、過去の結果であり未来の原因なのである。

一日一生 慧智(070613)癌センター待合室にて
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜん

ことを』

 

 

2007年06月12日

●第1081話 良寛さんと遊びたい

●良寛和尚に「“仏”に会いましたか、会いますか」と訊ねると、どのように応えるだろう。そもそも問いを問いとして受け取ってくれるだろうか。それともニコっと微笑むのだろうか。もしかすると、毬を渡たされるかもしれない。まあ、想像がつくのは、大喝でも棒でもなく、今を淡々と生きているからこそ浮かび上がる自然な微笑みが返ってくるということだろう。

■良寛和尚の漢詩
過去己過去 未来尚未来    
現在復不住 展転無相依    
許多閑名字 意日強自為    
莫取旧時見 莫逐新条知    
懇々遍参窮 参之復窮之    
窮々至無心 始知従前非    

■慧智の読み下し
過去の己は過ぎ去り 未来は未だ来らず。
現在はまたとどまらず 展転して相依るなし。
あまたの閑に名字し ひねもす強いて自ら為す。
旧時の見を取る莫れ 新条の知を逐う莫れ。
懇々としてあまねく参窮し 之に参じ復た之を窮める。
窮め窮めて無心に至り 始めて従前の非を知らん。

■慧智の超超訳
過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ない。
現在はとどまらず、移り変わりの中に頼れるものはない。
多くの言葉を弄して閑を潰し、己を決め付けてはならない。
過去に固執せず、未来に囚われてもならない。
心を込めて広く体験し、さらに究め尽くせ。
究め尽くして無心に至れば、始めて過去の誤りに気付くだろう。

一日一生 慧智(070611)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月09日

●第1080話 『文教に随わず』

 文字や言葉は“葛藤(つたかずら+ふじ)”と表現されることがある。理由は“本質という根っ子”が幹や枝に撒きつく蔦を伴って成長するにつれ、複雑に絡み合い、何処が本やら先やら解らなくなるように、悩む必要も無いことに悩むことになるからだろう。正に“葛藤(カットウ)”が起きるのである。
 熱海の旅館組合の会長から聞いた話ですが、“とある温泉旅館”の実話だそうです。サービスと温泉と料理が素晴らしい、という噂が噂を呼んで人気が上がり、連日満室が続くので銀行から借金をして、本館に別館を付帯させ更に本館も別館も増築・改築を続けた結果、歩く距離が多すぎる旅館となり、客は言うに及ばず仲居さんすら館内で迷子になる始末となったそうです。そして、客は徐々に減っていったようです。笑い話のようですが、「旅館の使命とは何か」が途中から忘れられ、既成事実がエスカレートしたのでしょう。この話から学ぶことは多いですね。なお、旅館の名前を『葛藤荘』と改名することを奨めたいくらいですね。
 さて、現代は“二者択一”、サロー曰くのゼロサム時代(誰かが得をすれば誰かが損をする)と言われています。AかBか、勝つか負けるか、有るか無いかということである。
 また、シェイクスピアの「ハムレット」の中の名台詞「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という西洋人の発想は、「生き死には自然の計らい」という東洋人の発想とは異なり、「生命や行動を支配するのは人間だ」という生命に対する“思い上がり”が見え隠れします。
 更に、西洋人は、特に産業革命以後、自然とは“征服”の対象である、と考えています。
一方、僅かな数になってしまったかもしれませんが、“西洋文明を盲従しない独立心のある東洋人は“万物共生”という人間も自然の一部として共に生きています。 『共生と征服』、この違いは大きいのです。皆さんは、完全に勝つ、完全に負ける、完全に正しい、完全に間違っているという事実を知っていますか?常識的に言えば“殺人”は完全に間違っていますか?それでは正当な防衛により相手を死に至らしめた場合や国家権力による死刑は“殺人”ではないということになります。
 さて、勝ち負けはどうでしょう。野球でもテニスでもゴルフでも、ルールを前提として勝ち負けを決めています。言い換えれば、ルールが変われば勝敗は逆転します。それでも完全と言えますか。全ては“相対的”なのです。本多勝一の『殺す側の論理』『殺される側の論理』を読んだことはありませんか。二元論(二項対立論)、つまり『有る』『無い』でも良いし、上と下、右と左、ゼロと一でも良いでしょうが、円を描いてみると、二元論者は“内か外か”を考え、一元論者は“線を観て“始まりも無く終わりも無い”と考えます。貴方は、どちらですか?何れにしろ、日常生活では多きな問題にはなりません。しかし、事、価値判断となると180度の違いが現れます。例えば対立が起きた場合、二元論者は裁判での白黒を望み、勝訴に向かいあらゆる策を講じます。一方、一元論者は、良し悪しは絶対的では無く、対立は堂々巡り(始まれば終わりは無い)になるので、自分も相手も満足ではないだろうが、不満とまでは言えない条件を考え“和解”しようとします。結果、二元論者同士ないし原告が二元論者で、被告が一元論者の場合に泥沼の争いが始まります。なお一元論者同士、原告側が一元論者で被告相当側が二元論者の場合には裁判になりません。前出の組み合わせによるトラブルで裁判が行なわれるのですから、当然に『勝訴と敗訴』が自分を完全な人間と勘違いした裁判官という不完全な人間により、白黒が決断された結果、勝った側は驕り、負けた側は恨みを残し、双方に問題を残こすことになります。一方後者の円に線に注目する一元論者は、勝ち負けを判断せず、双方が満足とは言えないが不満とまでは言えないという中庸を模索し「雨降って地固まる」という結果を模索します。これらの違いは『論理思考と情緒感覚』と言うことが出来ます。論理は“頭”、情緒は“心”です。勿論、真実は洋の東西を問わず『心頭は一如』です。それでも二元論者は“心と頭”、“心と体”を別の論理で考えます。霊魂だ魂だ、天国だ地獄だ、極楽浄土だ無限地獄のような人間が考えた二項対立、物理的には無いが心理的には有る”の真実であるにも関わらず、都合よく使い分けます。確かに二元論の考え方は単純な頭脳には便利なのですが、『限定的な合理性』しか持ちません。つまり二元論は、それが架空であれ実体であれ、『公正』には“基準”を必要とします。つまり、“前提”という概念が必要なのです。
 一方、一元論は“無(有無の無ではなく、有無が無いの“無”)”という発想から、公平、つまり無差別、無分別を重視します。簡単に言えば“王様”と“乞食”に本質的な違いは無く、人間としての価値は『平等』とみます。これらの違いは、記憶に新しいマリーアントワネットでも連想してください。時代も価値観も諸行無常。昨日は天下人、今日は断頭台。革命前後でもマリーアントワネットという人間は変わりませんが、回りが変わったために“生死”が逆転します。一元論はヒエラルキーを否定し皆平等に考えるので、例えば釈宗演老師の弟子の夏目漱石が学んだ福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を信条にしていましたし、勝海舟や山岡鉄舟らの西郷隆盛との交渉による江戸城無血開城などを参考にしても解るでしょう。現代風に言えば、『六本木ヒルズと断ボールハウス』か、『皆仲良く長屋暮らし』のような違いです。
 さて、一般に言われる頭の良い人は多くの場合は前者、二元論者です。ところが、今日のニュースからも解るだろうが、頭が良い人が必ずしも正しい訳ではなく、幸せ(大安心)である続けることはないのです。解りますか?。つまり、論理は無限に飛躍しつつ拡散し本質という“円の中心”に向わず、枝葉末節である“円の外”に向うのです。ですから“競争”は永遠、となるのです。
 一方、長屋暮らしであっても“心豊かな人”は、足るを知っていますから、必ず幸せです。現状に感謝し、現状を大事にしているのが一元論者の幸せなのですから、一生幸せなんです。勘違いしないで下さいね。一元論者は、現状は常に変化していることとして理解していますから、保守的ではなく融通無碍、自由自在なのです。
 さて、長くなったので終わりにしますが、表題の『文教に従わず』というのは、外から強制された考えに服従せず、己の感じている正しい道を何があろうと兀兀と進むと考えて良いでしょう。つまり、泥棒の被害にあえば、「罪を作らせたのは自分が悪い」と考えつつも、二度と罪を犯させないために取られた物を取り返すのではなく、必要な行動を起こすという感じです。因みに、二元論者は、事の背景などに関係なく、奪った側が加害者、奪われた側が被害者で、理由に関係なく白黒を着けて、奪われた物以上を取り返そうとします。
 さて、諸君、君達の“論”はどちらかな?。どちらとも取らないことについては如何に思うかな?
一日一生 慧智(070609)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
 

 

 

2007年06月08日

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

 相変わらず上下によらず巷は騒がしい。こんな時は良寛和尚の漢詩を読むに限る。禅士諸君も坐る前に読んではどうかと思い、示しておく。教訓は『偏ること毋れ』である。百尺竿頭に着いて始めて半人前。聖から俗へ、そして俗から聖を渡り歩くことこそも“両忘”である。聖の是は俗の非かもしれないし、俗の是は聖の非かもしれないが、真実は是非一如なのである。己の信じる道こそ仏の道だが、己を信じても妄信してはならない。

◆良寛和尚の詩
昨日之所是 今日亦復非
今日之所是 安知非昨非    
是非無定端 得失難預期    
愚者膠其柱 何適不参差    
有智達其源 従容消歳時    
智愚両不取 始称有道児    

◆読み下し(慧智流であり、一般的かどうかは各位の判断))
昨日の是とせしところ 今日また非とす。
今日の是とせしところ いずくんぞ 昨の非にあらざるを知らん。
是非に定端なし 得失はあらかじめ期し難し。
愚者は其の柱をにわかとし いずくにゆくとしてしんしたらざらん
智あるは其の源に達し しょうようとして歳時を消す。
智愚ふたつながら取らずして 始めて有道の児と称す。

◆慧智の超訳
昨日、是であったことも、今日は非だということがある。
今日、是であっても昨日は非でないと、どうして解るだろう。
是であれ非であれ絶対ということはなく、何を得で、何を失かは予期できない。
愚者が是非を決め付けるが、食違いはどうしてもでるものだ。
智者は是非一如を知っているから、決め付けることなく悠悠と時を過ごす。
智愚を両忘出来てこそ、道を悟った人ということができる。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


 

 

2007年06月07日

●第1078話 『公案は頭では解らない』

 禅士諸君。ここ数回の記述から気付いただろうが、『公案』は、頭では解けないのである。と同時に、室内において師と弟子が“同じ空間・時間”を共有し、即否定、即肯定が行なわれない限り、師は弟子の心を観ることが出来ないのである。同時に以心伝心、弟子もまた師の心を理解できない。ということで『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏』の四句の意味が解るだろう。
 つまり、坐禅はネット上でも出来るし、夫々は毎朝生まれるように起き、毎夜死ぬように眠り、過去を変えることは出来ないし、未来を決定することも出来ない。“あれ・これ・それ”も思う通りにはならない。全ては“変数2であり、“縁”により今が現象していることも解っただろう。更には、言語学では“シニフィエ・シニフィアン”と表現するが、山は山であって山そのもではないのである。言葉・意味・実体が同一であることは保証されていないのである。言い換えれば、言葉や、常識という思い込み、それが作り出す先入観などで雁字搦めになっている己(それ“我”という)を毎日風呂に入り体を洗うように、心も風呂に入れて毎日の垢を落として死ぬ。そして生き帰るのが正しい生活(イキイキと生きる)だということは理解できただろう。何かを知っている。言語表現に長けている。常識的(道徳的)である。それら全ては“教えられ、信じ込まされてきた事”。つまり『主人公』ではなく、“操り人形”であるということ。それが抽象的不安や具体的恐怖である“苦しみ”を生んでいること。それ故に、己の幸せ(大安心の境地)を己自身で放棄していることも解るだろう。『今・此処の己』は、瞬間的な現象である。勿論、生まれたときも裸、死ぬ時も裸。その上、人間は例外なくあるにも関わらず、自分が生まれた事、死んだ事を体感できない。生まれて来た。生きている。死にそうだを想像するだけ。その想像もソーシャルマインドコントロールによって思い込んでいる“社会の常識”という幻想。お節介な拙僧としては、まだまだ書きたいのだが『知らなければならないが、教えられてはならない』とは、『自ら学べ』ということ。それが“禅の真髄”なのである。繰り返しになるが、本当の『学び』は体験からしか生まれない。教えられたものは、時間的合理性の観点からは便利であるが、記憶して変性され先入観(潜入感)の源泉になり、結局は“苦”の根幹になるだけなのだ。つまり、公案は言葉の体系のように思われているが、真実は、『体験の促し』であり、体験の解釈の結果を点検するのが師なのである。
 今日は、これをかみ締めながら坐るように。

一日一生 慧智(070608)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』
★因みに、“あなた≒私”は“今”、何に坐っていますか?

 

 

2007年06月06日

●第1077話 『仏の乗り物は何か』

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釈尊は蓮の華に座している。文殊は獅子の背に座している。普賢は象の背に座している。
では、『仏は何に座しているか』
禅堂で坐れば一炷で解る。

一日一生 慧智(070607)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

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