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2007年6月

●第1091話 『心随万境転(心は万鏡に随って転ず)』

●第1090話 『この身で証を立てる“禅”とは』

●第1089話 『眠れぬ夜の与太話』

●第1088話 『事実(体験)・発見(学習・小さな悟り・瞬間的理解)・記憶(得心

●第1087話 『罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰』について

●第1086話 『神に“祈願”、仏に“誓願”』

●第1085話 『心身一如というけれど・・・』

●第1084話 『六道輪廻(3)』


●第1083-2話 『質問:出家の意味は』

●第1083話 『己の外に仏なし』

●第1082話 『人生、如何に生きるか』 ★今週の土日は活人禅会★

●第1081話 良寛さんと遊びたい

●第1080話 『文教に随わず』

●第1079話『是非を両亡すること真なり』

●第1078話 『公案は頭では解らない』

●第1077話 『仏の乗り物は何か』


●第1076話 『“あれ・これ・それ”が庭前栢樹子(柏≒栢)』

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

●第1074話 『全ては過不足なし』

●第1073話 『学ばなければならないが、教えられてはならない事』

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

●第1071話 『未来日記(変形四行日記)による『日記療法』のポイントについて』

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 

【前の記事】

 

●第1076話 『“あれ・これ・それ”が庭前栢樹子(柏≒栢)』

しばしば目にする公案の一節に「問趙州。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。恁麼. 會。便不是了也。如何是祖師西來意。庭前栢樹子」なるものがある。言わずと知れた趙州大和尚の『如何是祖師西來意』に対しての名答である。『山川草木悉有仏性』なり『山川草木悉皆成仏』を全身で理解し体験していれば、犬の然り、野狐も然り。況や動かぬ草花然り。その真理を伝えたのは誰か。言わずと知れた祖師である達磨大和尚。その上、目的是作略、坐禅は目的であり作略、目的と手段は表裏一体、不可分不可同となれば、『祖師西來意』は真理そのもの。真理とは全てに投影している『本来』である。ということで問いに対する応えは何でも良いのだが、この公案の構造上の問題は、“問に対する答”という二元論と取る修行者が多くなることである。問は答えであって別々のものではない。だからこそ“問答”という。問と答が別れる前は何だ。“そこ”に真理がある。 さて、今日の現成公案は・・・
問『如何なるか、“あれ・これ・それ”は“どれ”だ』にしよう。
中学生の国語の授業をサボっていなければ「これ」は無意識に自分の領域にある“ある物”を示し、「それ」は対峙している相手の支配下にある「相手のこれ」、「あれ」は対峙しあう二人の領域外にある「“これ”であり”あれ” 」。“どれ”は“あれか、それか、これか”という誰の領域にあるかを知るために投げかけられる“代名詞”であることは日本人の常識。まあ、常識という言葉を発するのは非常識であるから、「あれこれ」言うのは止める。「これ・それ」という時は対話だが、「あれ・これ」いうのは独話。
 さてさて、禅士諸君。何と応える。
慧智はネット禅士に問う
『如何なるか、“あれ・これ・それ”は“どれ”だ』
チリーン。「はい、お座り。お手、チンチン」「おい、“そこ”で足を上げて何を出すか」。カーン、カーン。「おたのみもうーす」。「ドーレ」。「どれ、見て来い」という訳で、考えても無駄。論理は通じない。かといって情緒もダメ。“思い”と“考え”、即ち『思考一如』。『禅脳は無心で全脳』。
 今日の公案はどうだ?ネット禅士が望むから与えているが、消化できているか?1700の古則公案の先、“これ”がワシが与える悟後の公案だ。小僧(10歳)の頃、「隻手の音を聞いたか?」と師匠に問われ、「それは、これですか、あれですか、どれですか、聞えますか?」と返したら、平手で横っ面を殴られ、鼓膜が破れたて、片手の音が聞こえたのを思い出す。まあ、鼓膜があると聞えない音もあるんだな。否、鼓膜などがあるから聞えないんだ。今度、慧可大和尚に会ったら“左手”で殴ってもらおう。右手は痛そうだからな。

一日一生 慧智(070606)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月05日

●第1075話 『教育とは、“教える+育てる”か?』

 禅師は、教えずに、育てる。育てるためには、学ばなければならない事を教えずに気がつかせる。それの浅いものを“気付き”、深いもの“悟り”と言う。気付きは態度に表れ、悟りは行動に現れる。究極の悟りを“大悟”という。大悟は、態度と行動に現れる。1073話のヒントをワシの言葉で与えると以上となる。つまり、現成公案も公案。ワシのヒントはヒントにしてはならない。何故なら、“教え”だからである。教えで人は育たぬ。己の師は己の内にある。それを“目覚める”という。自覚という。仏教では、すべての現象に『因』があるから『果』が生じると説いています。しかし、『原因と結果』というような“一対一”の関係は否定され、『因』は『縁』に触れて『果』を生じるという事実を発見し。更に『果』は因の一要素となり縁に触れて果となることから『因果一如』と表現しています。つまり、世界は循環慣性の法則に従って動いていることを理解しています。簡単言えば『因縁果』が連続的にあるのが“此の世”であり、“それを拡大すると“彼の世”なのです。ですから、此の世は彼の世であり彼の世は此の世なのです。となれば、因果を結ぶ『縁』を大事にしなければならないとは思いませんか。例え何かの『種』があったとしましょう。『種』の力は縁の出会えば発芽するということであり、発芽すれば天候だとか、人工だとかの『縁』により果を結ぶ場合もあれば枯れる事もあります。言い換えれば、発芽すれば結実するという約束は無いのです。『隋縁』つまり因は縁に従います。そこに人間が割り込むと、人間いとって都合の良い状態を『好い・良い・善い』、都合の悪い状態を『悪』と決め付けますが、『種』は無心です。その時その場所を全力で生きているだけです。環境に対して不満を漏らさず受け止めています。以上の事は、教えられれば理解は出来るが、体験しなければ納得できません。納得できないことは思考や行動に現れません。だからこそ、『作務』も坐禅同様に修行なのです。食べることも、排泄することも修行なのです。体を洗うこと、心を洗うこと・・・行住坐臥の全てが修行なのです。結論、修行なくして人は育ちません。厳しければ厳しいほどしっかりと育ちます。岩場の松、砂浜の松が教えてくれます。ただし、先入観があれば聞えません。見えません。感じません。だから分別を捨て無心に生きろということです。
 →明日は『学ぶ・育つ』です。ネット禅士諸君、今日も、しっかり坐れよ!
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月04日

●第1074話 『全ては過不足なし』

 この宇宙の全ての現象は本から過不足なし。人間も宇宙の現象の一つで過不足なし。心も同様、仏も同様。形だけの坊主も同様。にも関わらず、大衆の心は、成長とともに過不足を感じるようになり、長者の子供が貧里に迷い、乞食の子供が成り上がって驕りを覚える。過不足感は、自惚れや嫉妬、挫折や偏見を生じさせる。
ネット禅士に問う『仏は何処におるか,、見つけてつれて来い』 
 勿論、禅士は、昨日同様、言葉、文字、態度で応えることは許されん。言葉を使い頭で考えてもいかん。音を出してもいかん。
 さあ、道え、応えよ。応えなければ破門だ。さあ、どうする。
一日一生 慧智(070605)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』


◆追記
今。此処の状態に過不足なし。全ては其処から出発する。故に日日是好日、降って好し、晴れて好し。明日は明日。努力とは明日のためにではなく、今、此処で全力を尽くすこと。そして結果は自然に成る。それを全面的に受け容れる。だから、すべき事で出来る事に全力を尽くす。今、此処で、すべき事・出来る事に全力を尽くせば、自然に熟達して自由自在に動けるようになる。抜きん出て秀でる。好きになる。すべき事、出来る事、好きな事が統合されると使命感が見える。これが自然。これが禅的に生きるということ。(質問に応えておきます) 慧智

 

 

●第1073話 『学ばなければならないが、教えられてはならない事』

 表題の『学ばなければならないが、教えられては行けない事』というのが“禅”における“公案”です。俗では『教えられても、学べず』、『教えられなくても、学んでしまう』ということが多いことが、今日の日本の状況に“投影”しています。
 大脳生理学や心理学の世界では、記憶、表層心理、深層心理という表現が使われますが、禅では、心と頭です。『滅却心頭火自涼』という表現に心と頭の関係が見えます。そして『分別と無分別』、『知恵と智慧』、『言葉(文字)と反応(心)』などと便法的に二項対立法を用いて表現しつつ、それらは父母未生以前の“本来から一体”、不可分不可同で、片手の音の聞こえる世界を示しています。名称や概念は、全てが現象した以後に、人間が便利の為に勝手に付けたもので、言葉や文字で表現しています。『公案』は、“本来”を悟り、体得するために白隠禅師が体系化した方法論であり、師弟が室内で生死をかけて行なわれる口頭試問といえます。拙僧も敢えて名をあげませんが隠山、卓州両家3人の師から500を超える公案を与えられ、鍛え上げられました。しかし、既に遷化された3人の師の名誉の為に名は伏せますが、本来は師の作品、嗣法のはずの弟子が私のような“破戒僧”では師も泣くに泣けないでしょう。
 さて、本日のネット禅会の為に、現成公案を与えます。
如何なるか『学ばなければならないが、教えられてはならない事』 
勿論、言葉や文字で応えてはダメ。態度に出してもダメ。考えてもダメです。音を出してもダメ。本来無一物だ、明鏡の如しだ、本来仏なりなどの言葉も概念も使ってはならん。只、己の境涯をワシの心に直接に伝えよ。
さあ、どうする。どうする。どうするか!
・・・・・チリーン。
カーンカーン。

一日一生 慧智(070604)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月03日

●第1072話 『先ずは“天然・自然”に学ぶ』

『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という風流な句がある。出典は『虚堂録・巻一・興聖寺語録』。そして虚堂智愚大和尚が最初に上堂した時、一人の僧が立ち上がり『呼猿洞口、無心臥月眠雲、長水江頭、正好抛綸擲鉤、只如霊山密付、還許学人咨参也無』と質問した時の二句目。読み下すと「呼猿洞口、無心にして月に臥し雲に眠る。長水江頭、正に好し綸を抛ち鉤を擲つ。只だ霊山の蜜付の如きんば、還って学人の咨参を許さんや也た無や」となる。大まかな内容は「今までの和尚は呼猿洞において『月に臥し雲に眠る』ように無心であった。しかし今、長水江のほとりで住持となり、有り難い事に修行者を指導することになった。そこで、禅の極意についてお訊ねしたいが、よろしいか」と、いう感じだだろう。『臥月眠雲』とは、表面上は文字通りに「月に照らされて臥し、夜霧に包まれて眠る」だが、もう少し踏み込むと「厳しい環境で修行に集中している姿」となるだろう。言い換えれば、現代のように恵まれた環境の中で“人間”や“人生”を本や言葉から頭で学んでいては、人の本当の空しさ、悲しさ、辛さなどなどの言葉に出来ない苦しみを受け留めることは、御為倒しの心で態度や言葉では共に悲しみ苦しむような擬態は出来ても、本当の心は受け止められないだろう。拙僧の周囲にも“口と態度と心”が重ならない者が世間並みに居る。場合に拠れば無智なるが故に、彼らは“それ”にすら気付かず、自分は優しく思いやりがあるなどと自分本位に自分を評価していることも多い。それは、多くの場合、自分が弱い立場にあり、強い者には保護されて当たり前だというような甘えがあることが多い。人間に強いも弱いも実は無い。もし有るとすれば賢者か愚者かである。しかし本質は賢愚も一如。差別区別は不要である。野であれ聖であれ、これも亦一如。事実は一つである。事実とは“無”の蜃気楼のような物で、事実が映る己の心次第である。ということは、如何な
ることも無心に素直に受け容れることである。
 となれば禅士諸君は 『臥月眠雲(月に臥し雲に眠る)』という句に出会って何を悟るか。「あるべきよう」なのか、郷に入れば郷に従うのか、無駄な贅沢はするななのか。100人居れば百人の心があるだろう。中には自然が一番というのもいるかもしれん。
 『臥月眠雲』・・・・・。拝金主義が賛美され、格差が成長の源泉だなどという幻想が流され、物の豊かさに目を奪われがちな今日。今一度立ち止まり、『本当の豊かさとは何か』を考え、心豊かに暮らしたいものである。禅士諸君。無智は敵だ。妙智力。知恵の世界を超えて智慧の力を知ろう。その時“空”の意味に得心が行くだろう。
一日一生 慧智(070602)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月02日

●第1071話 『未来日記(変形四行日記)による『日記療法』のポイントについて』

 以前、茂原の両亡活人禅堂に参禅に来られた方、職業は精神科医師で森田療法、内観療法に詳しい方から、四行日記の内でも未来日記が統合失調症の患者に効果的だと久里浜の療養所で伺ったので、要点を教えてくださいというメールを頂いたので、お応えします。
 先ず、昔から『禅日記』や『坐禅日記』として、本来は邪道であるが、室内での己の心境などを記録として書き留めておく者もいたにはいた。そもそも『四行日記』の原点は、“そこ”にあったと言うことも出来なくはないが、何もかも“禅”に帰着させる気は無い。しかし、禅は本質、原理、原則を見抜いて『智慧』を会得し生活様式、行動様式とするのが肝であり、結果として科学的なアプローチの帰結と一致する故に、四行日記も例外では無いといえる。
 なお、四行日記は小生の俗での専門分野の一つである『ストレス心理学』の定説に根ざした方法論であり、思考行動様式を計量する計量心理学の知見が無くして『FFS理論』はなく、当然、四行日記の潜在力は半減することを前提に置いて欲しい。
 ご存知の通り、“日記療法”は、心傷の原因が究明されて総括され完治できない“心の傷”がトラウマを形成したり、現実と理想の乖離が認知を不協和状態に追い込み、軽度ないしは一過性の精神疾患が見受けられるクライエントに、事実の客観視を訓練し、セルフカウンセリングとしての気付き部分をフィードバックさせ、思考や行動の変容を生み出させる手法である。それは、何も非健常者のみに有効なものではなく、“自分の存在意義”に疑問を感じたり自分を深く探求しようとする成長願望があるものには極めて有効であると認められている。小生が提唱する『四行日記』や『未来日記』は、禅において体系化されている公案や、悟りのメカニズム、中枢神経系・免疫系・内分泌系の生理機能を利用し、世界で一番短く、コストがかからずに効果が高いセルフカウンセリング法として開発したもので、出家からすると邪道だが、居士が参禅修行している時の記録法としても有効だと考えて皆に教えてきたもので、私の科学者の立場からはFFS理論、四行日記、セルフエクスパンディングプログラム(SEP)として“健常者”の更なる成長促進のために紹介しているが故に、非健常者への『日記療法』としての応用については、専門的な指導者が指導しない限りは危険なので敢えて公表を避けているものです。
 ご存知の通り、四行日記の構造は『事実→発見(気付き・悟り)→記憶(教訓・一転語化)→発明(現在進行形による行動宣言)』という構造であり、水面上に居られる方々が、それ以上に飛躍し、己の潜在力を120%発揮させるための変容過程をシステム化したもので“目的達成型”、『読み替えれば“参禅日記”』と読み返ることが出来るものです。一方、未来日記は、“願望(望んでいる自分の姿)”を、日々の反省と都度の勇気付け自分自身で行なうことで、目標達成型という構造にしていあります。何れも、先ずは『自己肯定』がポイントです。ただ、四行日記では『個性(個別的特性)の強み』を活かすことに焦点をあてていますが、未来日記では『個性の弱みを認める』ことで強みに気付かせ、認めて活かせるように考えてあります。つまり、水面下から水面までを未来日記、水面から空中へを四行日記が担っています。
 この辺りは、今秋には四行日記の改訂版が出ますが、“奥の院”としておくことが大事ではないかと思い書くことはありません。言い換えれば、この辺りから深く入るのであれば、個別指導、禅でいうなら“室内参禅”という方法しかありません。
 よって、申し訳在りませんが、専門的な話や議論は、お会いしてと考えています。がしかし、専門家であれば、此処までを読まれれば、見通せるはずです。遠まわしになりましたが、質問に対する応えとさせて頂きます。

一日一生 慧智(070601 小林惠智として記す。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

2007年06月01日

●第1070話 『良寛和尚の心境は“今日は6月、昨日は5月か?”』

 良寛さんに表題を問えば「今日はおついたち、ホラ足下に・・・」と返ってくるかもしれませんね。
 旅から帰ると全身に倦怠を覚え、夜が明けたのも知らずに8時間もの眠りに落ちていた。考えてみると、50年間、横になるのは一日3時間内外であった。“する事”があるし、“すべき事”も多い、その上、それらは“出来る事”で、結果“したい事”でもあった。人生、何度か立ち止まり、空を見上げ、涙したこともあった。それでも一日一生、寝て起きれば“新しい己”。昨日の己は己ではない。勿論、明日の事は明日。去る者、去る事は追わず、来る者、来る事は全て受けてきた。衣を着け絡子を着ければ坊主、背広を着れば経営者、白衣を着れば研究者。作務衣を着れ労働者。正に“馬子にも衣装”。そして、その時の為に白衣で床につく。3年前は坐睡を心がけていたが、線路脇のため最終電車と始発電車の間の数時間だけコトンコトンという列車とレールの励ましあいが途切れる。レールと車輪の互いの無事を確認する声に励まされた。今も同じ。「己!さっさと起きて働け!死んだら働けんぞ!」今、レールと車輪に励まされている。
 さて、今日は起き掛けによろけてツッカケてしまい開いてしまっいた良寛さんの漢詩を一つ紹介しておくので、味わってみて欲しい。

我生何処来 去而何処之    
独坐蓬窗下 兀々静尋思    
尋思不知始 焉能知其終    
現在亦復然 展転総是空    
空中且有我 況有是興非    
不知容些子 随縁且従容    

◆読み下し
我が生は何処より来り、去って何処にかゆく。
ひとり蓬窗(ほうそう)の下に坐し、兀々(ごつごつ)として静かに尋思(じんし)す。
尋思するも始(はじめ)を知らず、焉(いずくんぞ)能く其の終を知らん。
現在も亦復(また)然り、展転 総べて是れ空。
空中に且(しばらく)我れ有り、況んや是と非と有らんや。
如かず 些子を容れて、縁に随って且く従容(しょうよう)たるに。

◆慧智の超訳
命はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
荒れた庵の窓の下に独坐して、動かず静かに考える。
考えても考えても考えても命の始まりはわからないし、命の終わりゆくところもわからない。
今、此処に然るべく在り、寝返ると時は移りゆき、すべては空であることに気付く。
私は空の中にしばらくいいるが、有る無しに固まっているわけではない。
今此処にある現実を受け入れ、縁に従いってゆったり生きてゆこう。

一日一生 慧智(070601)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

 

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