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2005年7月

野狐禅和尚の辻説法『熱時熱殺闍梨』 №811

お応えします『坐禅をすると頭がよくなりますか?』 №810

野狐禅和尚の辻説法『時々勤払拭』 №809

野狐禅和尚の辻説法『よく学び、よく働く』 №808

野狐禅和尚の辻説法『あるべきよう』 №807

野狐禅和尚の辻説法『独釣寒江雪』 №806

野狐禅和尚の辻説法『究竟窮極 不存軌則』 №805

野狐禅和尚の辻説法『破戒坊主との問答』 №804

野狐禅和尚の辻説法『智者不言(しるものはいわず)』 №803


野狐禅和尚の辻説法『悟了同未悟』 №802

野狐禅和尚の辻説法『人間は自然の一部』 №801

野狐禅和尚の辻説法『裂古破今』 №800

野狐禅和尚の辻説法『迷己逐物』 №799

野狐禅和尚の辻説法『不戦国家建設の挑む』 №798

野狐禅和尚の辻説法『坐一走七』 №797

野狐禅和尚の辻説法『悟無好悪』 №796

野狐禅和尚の辻説法『贖罪の山羊』 №795

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №794

 

2005年07月20日

野狐禅和尚の辻説法『熱時熱殺闍梨』 №811

 梅雨明けの禅堂は、言の他“暑い”のは事実で、暑くないなどという“痩せ我慢”は禅者には似合わない。暑い時は暑い。寒い時は寒い。それで良い。暑い時に寒ければ病気。寒い時に暑ければ病気。暑い時は暑い、それは健康。しかし、暑い時に暑い暑いと言っていては暑さを忘れる事は出来ません。例えば、暑い時に暑さを忘れるほど畑作務に没頭する。寒い時に寒さを忘れるほどに山作務に専心する。しかし、それは暑さ寒さから逃げるためではなく、一意専心できていれば、暑さ寒さは、忘れてしまうということ。何事にも全身でぶつかり、成り切る。それが、暑さを殺す、ということ。今週は活人禅会です。例年、恰も我慢大会のようにも見えますが、修行には最高の季節。座布団の汗染みが何を物語っているか。二日間、汗が枯れるまで、坐り切ってみよう。
 表題の読みは「ねつじ・じゃり・を・ねっさつ・す」で、意味は、“殺”という文字に肝があり、これは“殺す”という意味ではなく、『徹底する』というニュアンスを持ちます。つまり、『暑い時は暑さそのものに成り切る』、転じて、如何なる出来事に会っても、決して逃げることなく、真正面から取組むことの大切さを示唆しています。勿論、取るに足りないような事は囚われ、拘るなどは論外です。
慧智(050721)

 

お応えします『坐禅をすると頭がよくなりますか?』 №810

 高校2年生からの質問がありました。「先日、グループ研修で近くの寺で坐禅をしました。その時、和尚さんが「坐禅を続けると頭がよくなる」と言っていました。それが本当なら来年は受験なので、近くで坐禅を続けようと思い、HPで検索したので質問に答えてください」という内容。
喝!、自分で考えろ!坐禅で頭がよくなるなど聞いたことがない。そもそも、双子がいて、一人は坐禅をさせ、もう一人は坐禅をさせないなどという実験も聞いたことがない。それに、坐禅は“心”がくすまないように、大自然の営みの一部としての自分に素直になる、素直であり続けるための手段の一つであり、くすんでしまった心を自分で綺麗にするもの。“下心”があれば、坐禅にはならない。和尚が話した「坐禅を続けると頭がよくなる」というのは、方便であり、“風が吹けば桶屋が儲かる”というのとかわりない。つまり、君達の“今の在り方”に対して疑問を持った和尚が、君達でも解るように表現しただけだろう。
私の経験から言えば、10年坐った人間と、そうでない者を観察すると、物事に動じない、落ち着いている、どんな状態でも暮せるだろうと思える・・・など、幾つかの共通点を見出すことは出来るが、逆に考えれば、“そういう人間”だから禅堂で10年暮せたと言えなくもない。つまり、『坐禅は結果を求めない』、只、只管に坐る。それ自身が目的であり、手段なんだ。坐禅を経験し、それが下心であれ、多少なりとも興味をもったのであれば、それも何らかの縁。家でよいから、坐禅でなくても良いから、“10年後の自分”をどうしたいのか、ハッキリしたイメージが出来るまで、一日20分、言葉(何も考えない)を使わない時間を持ってごらん。そして、それで感じたことを行動に移しなさい。“下心”があるような者は、その下心がなくなるまで、禅堂ではなく、玄関で坐ってもらいます。勉強や人生のことで困ったことがあれば、どんな相談にものりますが、それと坐禅は別です。坐禅は、自分自身との真剣勝負。“こいつは坐れるな”と思わなければ、誘いません。坐れば、如何なる疑問も“自ずから”晴れる。しかし、“解った!”と思ったら、その高まりが消えるまで坐る。悟っては捨て、捨てては悟り・・・を繰り返す。そして心がカラッポになるまで坐る。すると大自然の一部となり、勉強などせずとも全てが全身で解る。全身が心になる。知識、智慧、叡智は意味が違う。生きて行く上で何が大切か。それは。少なくとも“知識”でも“金”でも“己”でもないだろう。『今、何を成すべきか』、君は“それ”をしていれば良い。
慧智(050720)

 

2005年07月19日

野狐禅和尚の辻説法『時々勤払拭』 №809

 『時々勤払拭』は、「じじ・に・つとめて・ふっしき・せよ」と読み、私は座右の銘にしている。出展は六祖壇経に出てくる神秀の偈の一部で、「身は是れ菩提樹、心は明鏡の如し。時々に勤めて払拭し、塵埃を惹かしむ莫れ」に出てくる。本来の己は仏そのものなので、日々修行に勤め、心に煩悩という塵埃が付かないようにしなければならない、という意味だが、これに対して、六祖慧能が「本来無一物。何処にか塵埃を惹かん」と喝破したのは有名な話で、この一言の重みが五祖である弘忍の印可を受けることになったと伝わる。
 月に一回、一月の塵埃を落す活人禅会は大事であることは言うまでも無いが、毎日20分でも40分でも、ネット禅会で坐ることが大事だ、と感じさせてくれる句だと思いませんか?本来無一物を悟り切っていれば、塵埃すら無いはずだが、本来無一物を頭で理解している程度では、『時々勤払拭』という日常の心を刻み込んでいることが大切です。俗人は、今、此処で出来る事でも、ついつい明日に延ばしてしまうことがある。学生であれば、予習も大事だが、復習が大事。「明日にしよう」という心こそ“塵埃”だと私は思っている。“ま、良いか”という気持ち。よく有るだろう。しかし、それこそが“塵埃”。つまり“煩悩”に引き回されないことが大事です。今、此処で出来る事は直ぐする。本当に大事な事ですね。怠け心が起きそうな場所、例えばトイレや机の前には必ず「時々勤払拭」と書いて貼っておこう。さてさて、我が家には何枚貼ってあるかな。今すぐ、見に行こう。
慧智(050719)
蛇足:机、トイレ、洗面所、風呂、4枚もあった。お世話になります。大掃除も大事だが、やはり、一日一生。日々こそ一大事。

 

2005年07月17日

野狐禅和尚の辻説法『よく学び、よく働く』 №808

昨日は500人、今日は15人、人前で話す事が日常である。つまり、私にとっては“話す事は仕事”である。しばしば、人は金銭的報酬を前提にして仕事を考える。時給1000円で“こんな仕事”は出来ないとか、あの人の講演は90分で100万円だとか、である。つまり、仕事と金銭的報酬をリンクさせる人が多い。しかし、私は“それ”に同意できない。報酬であれ、価格であれ、それは“価値”の数値化であり、価値は、その価値を消費する側に決定権がある。そして、仕事には、仕事に対する其々固有の“価値感”がある。勿論、価値≒価格という人もあるだろうから、報酬を仕事の前提にしてはいけない、とは思わないが、私は違うというだけである。
私にとっての仕事とは、勉強の成果の発表であり具現化である。言い換えれば、沢山勉強することが仕事の可能性を拡大すると考えている。そして“仕事”とは、社会貢献であると私は確信している。
キリスト教では、労働≒仕事は、神から与えられた“懲役”である。だから、“安息日≒休日≒非労働日(神への感謝と時間の自由処分)”が内包されている。一方、日本(仏教伝来以降)、労働は“美徳”である。故に美徳に“安息”という概念はない。キリスト教では、有る意味で“客体的労働”であり、仏教は“主体的労働”である。その違いが解らないILOは、“労働は懲役”という価値感を前提に考えるから、時間制限と加重負荷に注視する。日本では、労働は、有る意味で“学び”を伴う美徳であり、働きながら学び、学ながら働く。学働一如である。
私は、昼間は働き、夜は勉強をするものだと、考えている。つまり、主体的に働いている以上、働く中に、学ぶ中に“遊び”があるので、あえて“安息日”を必要としないし、意味を感じない。晴耕雨読も同様。昼間、働けなければ、その時間は学びに転用する。寝る時間は、生理的要求であるが、全ての人間が6時間の眠りを必要とするとは思わない。9時間必要な者もいえば、3時間で十分という者もいる。私は、記憶の限りでは8歳から一日3時間以上の眠りは、体調不良の時以外は必要としなかった。つまり、私にとっては、相対的比較を持ち出せば、平均値より夜が長い。夜が長いから、必然的に勉強の時間が長いし、その成果を以て社会に貢献する時間は長くなる。
私にとって“仕事”は、「富は徳の結果」である。しかし、“富”を経済学でいう「集積した財貨、経済主体の財の総和」という定義を持たない。“富”とは、“豊かさ”であり、豊かか、豊かでないかを決定するのは“価値感”であり、“心”である。故に、財貨の集積が大きければ“豊か”と考える人がいても良いし、そのように考えなくても良い。しかし、私は、真理は一つだと思っている。人間は何も持たずに生れ、何も持たずに死ぬ。つまり“物質や財貨”は、心の豊かさの手段の一つであり、全てではない。
今日、何故、このような話をするかといえば、数日前の中学校での出張授業の折り、些か“まずい”と感じ、今日もまた大きな疑問にぶつかったからである。公立の小中学校で“株の取引(投資)”を授業に入れるの入れないのという話し。私立なら理解が出来るが、国家が、金で金を生み出すという異常で異色な経済メカニズム(資本主義の本質ではある)を唯一の価値観として“教育現場”で未来の日本人を洗脳するのは如何なものか。『富の源泉が金』、これは論理的に考えても誤りである。金は交換の仲介手段である。つまり、便宜上存在する“仕組み”であり、本質的には不要である。しかし、世界(交流の範囲)が広がると、貨幣経済は必須となる。しかし、その事と“国民の幸せ”とは強相関にはない。確かに世界は変る。其れは当然である。しかし、本質は変わらないからこそ本質というだろう。金や物や遊びが“豊か”の象徴だろうか。私は、“豊か”とは、不安が無い状態≒幸せだと思う。其処には、攻めたり、守ったりというディス・ストレスは無い。もっと勉強して、己の可能性を拡大しようとする“豊かな心”が有るだけだろう。蓄積された財貨(BS)・報酬(PL)は結果論であり、いつだって“足るを知る”ことが“幸せ≒豊か”なのである。
活人諸君、仕事について、豊かさについて、遊びについて、一度位は“根本まで掘り下げて”考えてみてはどうだろう。
坐禅は、さらにそのような分別を捨て、絶対的な境地への道。その道に踏み込む前に、自分の考えを知っておかないと、最後には全てを捨てるにせよ、中間段階で捨てる順序がわからなくなる。このHPでは、『十牛図』を解説していない。ただ眺めていれば解るからである。
『一日不作一日不食』、喜びは“働く事”の中に、“学ぶ事”の中にある。学んで之を活かす。働いて之を学ぶ。働ける事≒世の中に必要とされて居ること。これが人生最大の喜びであり、富の源泉であり、幸せの正体だろう。
慧智(050717)

 

2005年07月15日

野狐禅和尚の辻説法『あるべきよう』 №807

 私が大好きな言葉である『あるべきよう』とは、明恵上人の「繰り返し大蔵経を読みたるに“あるべきよう”の六字なりけり」に登場している言葉です。『あるべきよう』、その人が其処に居る。その物が其処にある。その時、その場所にピッタリとある。それが“自然”という言葉であり、『あるべきよう』の心です。人間で言うなら『適宜適時適材適所』。居るべき処に、居るべき人が、居るべき時に居る。何とも素晴らしいことです。ところが、それが余りにも“当たり前”として、心に留まらない事が多く、従って感謝を忘れていることがある。そして、“その人が、その物が、其処に”無くなると、多くの場合には“不便、不自然”を感じて、其処に、其れが在った時の“価値”に気付く。つまり、“あるべきよう”というのは、正に“奇特”であり、“当たり前”こそが一大事なのです。“あるべきよう”は『無事是貴人』に通じています。『日々是好日』も同じ。毎日毎日が、自然であること。それこそが実は“稀”なことなんです。野の草は野にあってこそ美しい。それは“あるきよう”の心を持った人なら簡単に理解できる。
 最近、皆さんは“不自然”に慣れ過ぎていませんか?“旬”という概念を忘れていませんか?急ぎ過ぎていませんか?毎年毎年、その時が来れば花は咲き、鳥は鳴き、実は実ります。人間も同じ。誰にでも“旬”があります。それを忘れると、その価値が発揮できません。これ以上は何も言いません。今日のネット禅会の前に、“あるべきよう”の価値を考えてください。そして“あるべきよう”こそが“隋縁”の結果であることを。また、“流れ”に従うことが本当の勇気であることを考えてみてください。
慧智(050715)

 

野狐禅和尚の辻説法『独釣寒江雪』 №806

時々、茶室や旅館の床の間で見かける山水画の讃にある『独釣寒江雪』は、禅林句集に挙げられた立派な禅語で、「ひとり・つる・かんこう・の・ゆき」と読み、厳冬の中で一人黙々と修行に励む禅僧をイメージさせつつ、如何なる場所でも“修行”とは、他の群れていては“己”との対話が出来ず、聞こえるはずの心底の声も、大自然が語りかけてくる法話も聞き取れないので、切磋琢磨も良いが、夜中に一人で山中に坐す時のように、暁天に「独坐大雄峰」の意味に気付くように、しっかり坐れ、ということだろう。一人で坐る、一人で行脚する。弘法大師ではないが「同行二人」。お遍路は、どんな時でも一人じゃないよ、弘法大師といっしょだよ、一心同体だよ、という方便で、時に挫けそうになる善男善女を勇気つけて居るが、禅では「物我一如」というように、いつだって一人ではなく、“万物と一体”、正に一心同体であり、それを体感することが修行であるゆえに禅宗では教祖を崇めず、教祖は“兄弟子”という位置付け。そして、祖に会って祖を殺し仏に会って仏を殺し、という言葉で表しているように、全ては己との戦い、目指すは己の真の姿である“仏”との一体化で、相対的な目標を持たない故に、禅は孤独な修行と言われるが、実は、禅に孤独は無い。山川草木悉皆成仏、全てが一、一が全てなのである。また、部分が全体であり、全体が部分なのである。故に色不異空、空不異色、色則是空、空則是色、不生不滅、不垢不淨、不増不減・・・・、なのである。
 『独釣寒江雪』、禅会であれ、独参であれ、夜中に一人で大子の山中に坐し、川の流れ、鳥の声、木々の囁きを聞き、月の励ましを受けて星とともに坐るのは、一坐、百坐の価値がある。夜坐は正に“野坐”。7月23・24日の活人禅会では、それを味わってもらおう。
 兎に角、修行は集まれど群れず。俗人には一番辛いかもしれないが“一人”こそ“万人”、万人こそ“一人”を感じ取って欲しいものである。
慧智(050715)

 

2005年07月14日

野狐禅和尚の辻説法『究竟窮極 不存軌則』 №805

 『究竟窮極 不存軌則』は、信心銘に登場する一節で、「くぎょうぐごく ふそんきそく」と読む。これから碧巌録の第三則「馬大師不安」の垂示に「大用現前、軌則を存せず。しばらく向上の事の有ることを知らしめんと図る。蓋天蓋地、叉模索不著」とある。多分、失念しているだろうが、類似する表現は禅書には沢山あるだろう。表題の意味は、現代風に言えば『超法規的行動の賞賛』であり、規則をとことん重視する禅宗にあって“超規則”を重視するのは、規則重視を形骸化。目的化せず“手段”と位置付けていることに他ならない。『禅』は、究極的に言えば『生活そのもの』であり、あらゆる呪縛、自縄自縛から己を解放し、常に臨機応変、融通無碍、殺活自在、縦横無尽に生き、生かす“宗たる教え(宗教)”であり、“常識”、定石、形式、前例などという“過去の現在化”であり“未来の現在化”という妄想幻想に縛られず、10年程度の禅の修行をした者であれば、何をやらせても“超・一流”と思える結果を出す。つまり、禅の修行から結果的に身に着く“道力”は驚天動地と言われる所以がある。
 最近の日本を眺めていると、遵法(コンプライアンス)といったり、創造・改革・普及優先(イノベーション)と言ってみたり、統治・管理(ガバナンス)と言ってみたり、リーダーはマネージメント力を重視するという“ありえない”ことを口走ったり、正に“混迷”状態だろう。前出したことを、一瞬にして“止揚(アウフヘーベン)”してしまうのが禅者であり、その境地境涯が『究竟窮極 不存軌則』なのである。故に、絶えず“本質”から発想して動くのが、禅を生活に取り入れ、俗生活と禅を止揚してしまう『活人』が重視すべき心ということが出来る。ここ一番で、“猫を殺す”くらいはコラテラルダメージとして昇華してしまうのが本物の禅者で、木を見て林を見ない禅学者と活人禅者は世界が異なるが、それらも山川草木の部分。皆、互いに手を合わせあう“同志・道士”である。
 俗には『燕雀、安んぞ鴻鵠の志を知らんや』という表現があるが、多弁と嘘話で真実を隠し、その場限りを楽しむピーチクパーチクの燕雀が頭に乗り過ぎれば、南泉が猫を一刀両断したのと同じように、世の為、人の為であれば、禅者は何の警告も無く一気に殺してまうだろう。
 つまり、禅者とは“超・自由人”なのである。
慧智(050714)

 

2005年07月13日

野狐禅和尚の辻説法『破戒坊主との問答』 №804

 朝、出かけようとすると、知人が“訳アリ”で訪ねてきた、嘗ては“タレント坊主”であった坊主。他愛無い会話があった。真剣といえば真剣、茶番と言えば茶番なのだが、活人諸兄に“何か”を感じ取って欲しいので掲載する。
慧智「久しいな」
其「・・・・」
其「俺は坊主か?」
慧智「不知」
其「エッさんは坊主か」
慧智「其が坊主なら己は坊主ではない。其が坊主で無いなら己は坊主と言われるだろう」
其「坊主とは如何に」
慧智「無」
其「禅とは如何に」
慧智「まあ、上がって茶でも飲めよ」
慧智「ところで坐っているのか」
其「歩いている」
慧智「突き当たったか」
其「突き当たれば、此処には来ない」
慧智「この茶は、高いんだぞ、美味いだろう」
其「もらい物だろう」
慧智「然り、ところで何か土産は持ってきたか」
其「玄関からは入らんで、外に置いてある」
慧智「内は暗いからな。じゃあ、捨ててしまえ」
其「捨てるほどのものでは無い」
慧智「なら、茶碗を洗って、さっさと帰れ!」
其「帰るところは無い」
慧智「行くところが無いのだろう」
其「お前、“坊主”らしくなったな」
慧智「俺は、坊主ではない。お前こそ坊主らしくなったな」
其「解った。やっぱり還俗する」
慧智「それでこそ、禅坊主だろう」
慧智「だったら、その衣を置いてゆけよ」
其「新しいのも良いものだ、これと換えてくれ」
慧智「俺のは、衣より破れの方が大きいぞ」
其「俺には似合う。なんたって破壊(戒ではないのだろう)だからな・・・」
僅か15分で消え失せた。どこから来たか。どこへ行ったか。何とも気分の良い訪問であった。
彼とは10年振り。ここ5年は風の頼りも聞かなかった。元気で何より。屋根の無い寺こそ本当の禅堂なのだ。在家は出家、出家は在家。困った世の中である。
慧智(050713)

 

2005年07月12日

野狐禅和尚の辻説法『智者不言(しるものはいわず)』 №803

『智者不言(しるものはいわず)』、只、この一言。しかし、それで済まないのがお節介坊主である。つまり、本物の賢者は口数が少ない、というのだから、少なくとも私は賢者ではない。思い出すに、老子や荘子は、正に、そのように考えていたのだろう。それに追い討ちをかけて「言う者は知らず」とある。真実を知る者は無口。然りである。禅は勿論、老荘思想でも、人知以前の純真素朴を大事にします。つまり意識より潜在意識ということです。潜在意識は38億年に及ぶ先祖の教えが下敷き。昨日今日の浅智慧とは比較にならないほど深遠。つまり、本で覚えたような他人の知のパクリなど、さも其れらしくしても、所詮は借り物。俗に溢れる小利口など論外。正に、「大智は愚の如し」である。
 今日は、初々しい中学1年生の授業。半年前まで小学生に、“仕事”や“進路”の考え方を教えるのは、なかなか難しい。しかし、黙っている訳にはゆかない。そこで、世の中が必要とする人間はどんな人か知っているか?と始めた。皆、ポカン~。次には『働』という文字を解き明かし、目的を持って目標に対して人が動くのを“働く”ということだと版書しながら振り返る。またもポカ~ン。そこで最後に切り札。「僕はね・・・」と、身の上話。少し反応あり。それに味をしめて「ここに君達からの質問があるね。先ずは“これ”に応えよう、と紙を見ると、年収は?、ゲームはするの?、何時間寝るの?、家は何階建て?、大学では何を勉強したの?・・・。思わずニコリ。つい半年前までは小学生なんですね。“聞きたがり”なんです。ということで、45分。中学生の心構えや仕事についての話を織り交ぜ、子供達にも話させながら授業を終えた。そして、フッと、何を聞いてもニコニコしながら、答えなかった祖父の偉大さを思い出した。答えれば考えない。聞かれたら“応える”が“答えない。すると、子供は考えるようになる。そう考えると、学校とは“考えない人間”の製造装置なのかもしれない。説教だって同じだろう。庭を掃いている姿を見せる。そこに利他の心を学ばせる。知識は本で学べるが、智慧は姿からしか学べない。さてさて、今日もネット禅会。さあ、坐ろう。
慧智(050712)

 

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