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2007年7月

●『青山元不動 白雲自去来』(禅林句集)

●第1100話 『無くてはならぬものは多くない(キリスト)』

●第1099話 『自分で自分を縛り、自分以外を支配しようとする邪心こそが苦の源泉』

●第1098話 『高山流水 只貴知音』

●お知らせ

●第1097話 『剛刀雖利 不斬無罪』

●第1096話 『歸家穏坐(キカオンザ)』

●第1095話 『曹源一滴水(そうげんのいってきすい)』


●第1094話 『乾坤独歩(けんこんどっぽ)』

●第1093話 『大直若屈,大巧若拙,大辯若訥』

●第1092話 『山川草木悉皆成仏』

 

2007年07月25日

●『青山元不動 白雲自去来』(禅林句集)

『青山元不動 白雲自去来』は、 「せいざんもとうごかず はくうんおのずからきょらいす」と読む事が多く、梅雨明けの茶室に掛けられていることが多い。梅雨明けの空の中、遠くに見える青く染まった山々、流れる行く真っ白な雲。さて、皆は何と感じ取るのだろうか。拙僧には、塩山や三島から見た富士山が思い浮かぶ。泰然自若として動かざる山の如し。独坐大雄峰。正に平常心代名詞。同時に、何の拘りも囚われも無く何処から来て何処へ行くのか悠悠と棚引く白い雲。人生はいろいろ。時に真実を覆い隠す雲が現れることもあるし、時には真実をくっきりと浮かび上がらせる雲も現れる。そして、時は無常迅速、諸行無常、されど万法は一に帰すと教えてくれる。何事にも動じない心。何事にも固定観念を持たない自由な心。その心こそ“無心”。全てに実体など無い。しかし、眼前に現象する。事実は事実。素直に受け取る。己は己であって己ではない。己とは部分であり全体。私たちは自然の一部であり大自然の凝縮。人生には晴れもあり、曇りもあり、雨もあるが、長くは続かないし、今日の雨は今日の雨で、昨日の雨でも明日の雨でもない。青山を本来の面目、即ち本来の己、白雲を再現性の無い煩悩と解釈する場合も多い。祖堂集では『白雲聴你白雲(白雲はなんじの白雲たるにまかす)』とあるし、五燈會元や景徳伝燈録には『青山元不動 浮雲飛去來』という表現で登場し、白雲は白雲の自由と取る。煩悩即菩提。そんな風に思えるようになると、坐禅がグッと楽になる。煩悩は完全にはなくならない。それが人間のである。だた、煩悩の力を奪い、煩悩に翻弄される事は坐禅により実現できる。要するに、欲望など固定ではないから、浮かんでも放っておけば消えうせる。禅は“あるがまま”を大事にする。それが“拘らず・囚われず・偏らない心”である。山のように泰然自若として己の本質を迷い無く生きる。富士に向かって坐っていると、無縄自縛で苦しことが多い人生だが、実は“縄”などなく、心を自由にすれが心は動かない事をしみじみと感じる。
 己の外に仏なし。仏が神仏を求める必要などない。手を合わせたいなら自分に合せ。
 自然体で生きることこそが、心身の健康の源。物事は難しく考えないこと。素直に生きること。今の自分に出来る事に全力を尽くせば宜しい。結果は自然と成る。無理をすることは自然に逆らう事。逆らって良いことは何も無い。
 明日から暫くは説法を書けないだろうが、何物にも動じない青い山々と決して留まらない真っ白い雲でも見ていてください。
一日一生 慧智(070725)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

2007年07月19日

●第1100話『無くてはならぬものは多くない(キリスト)』

 皆に、人生に於いて無くてはならぬものは命の他に何があるか、と問うたら何と答えるだろう。キリストは「無くてはならぬものは"ただ一つ”」とも答えたと伝わっている。それは何か。それは“religion”であると答えている。即ち“キリスト教”なのであるが、キリストは“キリスト教”という表現を使わなかったので、現代の日本語で表現すれば「人生で無くてはならないものは“宗教”であると答えたようなものである。勿論、以前に何回も話しているように『宗教≠religion(レリジョン)』です。レリジョンとは、唯一の神との再・結合という意味のラテン語を語源としており“キリスト教”を示しているからである。
 一方、“宗教”は禅語とは言い切れないが仏教用語であることは事実であり、概ね“禅語”として解釈してよい。出典を探すと碧巌録(北宋初期の禅僧、雪竇(せっちょう)重顕が古来の禅録の中から公案百則を選び,韻文のコメント(頌)を付した『雪竇頌古』に,北宋晩期の圜悟(えんご)克勤が解説・論評を加えたもの)の五則中にある「大よそ宗教を扶堅(ふじゅ)せんとすれば須らく英霊底の漢なるべし・・・」に突き当たる。つまり、『宗教とは“宗(むね)たる教え』という意味であり、“大本の教え”という意味ととらえる。言い換えれば“己の外に仏なし”という大本の考えからすれば、キリスト教を信じる者(信仰する者)の宗教はキリスト教が“唯一の宗教”なのです。ところが、仏教徒(仏教を信仰する者)が信じる宗教は“仏教”だけに囚われ拘らないので“キリスト教も仏教も宗教”と表現するからややこしくなる。
 『宗教』とは、“信仰”の一つであることは事実だが、正しくは『自分が信じる体系化された考え方である“宗たる教”以外の解釈は成立しないのである。そういう意味からすれば、洋の東西を問わず『人生に無くてはならないものは“宗教”』ということになる。ところで、皆の宗教は何かと問えば「仏教」と応えるのか、「禅宗」と応えるのか、「活人禅宗」と応えるのか。拙僧は「己の外になし」と応える。「己の外に無し」と応えた瞬間に『唯我独尊』が成立し、“全ての命が中心”となり、禅を宗教とする者は“山川草木悉皆成仏”から、『全ての現象』となる。
 以上から、我々は『禅の教え』こそが“宗教”ということになる。
 では、宗たる教えが根本であるとするなら、我々は“禅的”に生きるということに繋がる。その根本は何か。それを解説しているのが“経(きょう)”、時代を超えて経(たて)に繋がる教えである、八正道とうに現れているが、要約すれば『何事にも囚われず、拘らず、偏らずに、事実を無差別に受容し臨機応変(自由自在)に犠牲を最小限に生きる』ということであり、正に“持続可能な共生生活”である。換言すれば「人は独立しながら相互に犠牲にすることなく補完し合いながら他を否定せず肯定的に生きる」というのが“禅”であり“仏教”ということになるので、最近の檀家団体など他派を否定する“新宗教”は“カルト(教祖主義者)”なのである。勿論、カルトも教祖の教えを“宗たる教え”とするのであるから宗教は宗教であるが、自分の考えを主張するのは大事だが“それ”に囚われていては『無縄自縛』であって“自由(これもフリーやリバティの訳語は誤り)”を放棄していることになる。(続く)

一日一生 慧智(070718)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

2007年07月16日

●第1099話 『自分で自分を縛り、自分以外を支配しようとする邪心こそが苦の源泉』

 自分ひとりが心静かに暮らしていても、周囲にはゴタゴタが溢れている。それは、雨の日に縁側に坐って往来を眺めているようなもので、景色として観ていれば悟りの切っ掛けになるし、雨宿りを頼まれれば軒先を貸せば其れで済む。しかし、濡れ鼠になって走りまくる者を見てしまうと、バタバタせずにユッタリと暮らす方法を語りたくなる。ところが、語るためには、己も外に出て、バタバタとしなければ話す切っ掛けもつかめない。軒先に居るものなら、縁側からの声も届くので、「上がって茶でもどうぞ」と声を掛けられる。病から、暫くの間、縁側に座り、軒先で雨宿りをしている者にだけ“お茶”に誘い、往来でバタバタする者には「来る者は拒まず、去る者は追わず」というメッセージを投げかけていた。
 今、縁側から腰を上げ、玄関先に出られる程度に身体が回復すると、またまた“世間の塵や埃に塗れても、お節介と言われようと、雨の路地に出て、共に濡れながら、先ずは傘を差し出し、一人でも多くの人に心豊かな暮らし方を説きたい衝動に駆られる。
 病の間は、毎日のように悟りがあり、「溺れている者は、バタバタしている時は手を出さずに見守り、気絶したら引き上げて人工呼吸をするのが最善だ」ということを知った。
 しかし、まだまだ未熟な己は、火中の栗を拾うが如く、ツイツイ、軒先で雨宿りする者の話を聞いて、道の歩き方などを“中途半端”に話してしまう。病の折に、己がモデルとなりユッタリと暮らすころが、“結果的には多くを救う”ことを悟ったにも関わらずである。
 まあ、そんな己に内なる仏が反省させるため、癌という機会が与えられたのだが・・・。
 それにしても、巷には金の亡者が多い事か。金の使い道の何たるかに気付かぬ者が多い事か。確か、良寛和尚も心を痛めていたが・・・。少しだけだが解るようになったのは、癌のお陰。そろそろ“病の意味”を理解して欲しいものだ。
◆良寛和尚の漢詩
人生浮世間    
忽若陌上塵    
朝為少年子    
薄莫作霜鬢    
都為心不了    
永劫枉苦辛    
為問三界子    
将何為去津    
◆読み下し
ヒトのウキヨのカンにイくるや コツとしてハクジョウのチリのゴトく アシタにはショウネンのコたりしに ハクボにはソウビンとナる。
スベてシンフリョウなるがために エイゴウにムナしくクシンす タメにトう サンガイのヒト ナニをモッッてキョリツとなすや。
◆解釈
心定まらない者がこの世を生きるのは、正に道に舞う塵や埃のようなもので、朝方は子供、夕方は白髪の老人になってしまうようなもの。
全ては“本来の己”を自覚出来ずに空しく辛く苦しい生涯を送るのは何故なのか。皆のために悟りを開いた仏に、どんな生き方をすれば良いか教えて欲しい。

一日一生 慧智(070716)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年07月13日

●第1098話 『高山流水 只貴知音』

虚堂録の四巻に和尚の言葉として出てくる『高山流水 只貴知音』は、「こうざんりゅうすい ただちいんをとうとぶ」と読み、「高い山や流れる水の意味は、悟れる者に悟れる」と解釈する。人間、素直な心、清心の者は全てに学べるが、先入観に囚われた邪心の者は、老賢人にすら学べない。言い換えると、加齢と共に成長する者も居れば、返って下衆になってゆく者がいる。年を重ねるごとに賢人となり老賢人と言われるような生き方と、年を増すごとに痴人と化し愚者となる生き方は、日々の生き方に違いがある。物に拘り、事に囚われ、枝葉末節に偏っていては“本質・真理”は見えない。四十を過ぎて博打に現を抜かしている者には本質は見えないだろう。しかし、彼らでさえ“仏性”を内在させているし、何らかの切っ掛けでそれに気付き精進すれば、悟りへの道は開かれている。己の外に価値や規範を求め、物や金、地位や名誉で人間を評価する者は、何れは“神”を作り上げ、“占い”などの迷信に翻弄され、霊だ魂だと言い出し、己が主人公の世界、誰もが己の責任と権限で生きてゆく世界を愚弄する。私たちは誰一人の例外なく、一人ひとりが世界の全てであると同時に、世界の一部であることの自覚が必要だろう。己が大事なら、それと同列に他人も自然も大事なのである。眼前の物の世界に父母未生以前の己の姿を見たなら、子々孫々以後の己の姿も見えるはず。ところが、己の垢である“我”に気が付かない拝金拝物亡者は、“失う事”が苦の最たるものである事に気付かず、一喜一憂する競争社会、喜怒哀楽の快楽追求社会という地獄を足早に生きて大自然へ戻るのである。
 また、祖堂集巻五・石頭下巻第二曹渓345代法孫に出てくる『養子方知父慈』は、「子をうんではじめてちちのじを知る」と読み、意味は、父の慈悲心は自分が子を得て初めて解る」であるが、文の前後関係からは「雲嵒和尚は洞山という弟子を得て初めて雲嵒となり薬山和尚のありがたさが解った」と言われるように、悟ってみて初めて悟った人の境地が解るというものである。であるから、日頃から偏見を持たずに“己を越している”と思える人物と交わるのが良かろう。そして、師と弟子の関係を超えて切磋琢磨するのが良かろう。
一日一生 慧智(070713)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年07月12日

●お知らせ

ご心配を頂いた皆様へ
 本日、私は4年6ヶ月におよぶ闘病期間に終止符を打ちました。
 20代からの心身の酷使から、肝炎、肝不全、肝硬変、食道静脈瘤、肝細胞癌、胆管細胞癌、脾臓癌となり、その進行速度から、医師団により平成14年12月に余命6ヶ月と宣告されました。宣告を受け、数日間、心は迷い、残された期間を如何に過ごすかに心を奪われた時間もありました。しかし、如何に過ごすかなど考えるのも無駄な程、残された時間が僅かなことに気付き。先ずは、身辺整理と心身の不調和を修正しようと5日間、大子の活人禅寺にある小さな薬師堂に篭り坐禅に没頭しました。そして、皆様に末期癌であり余命幾許も無い由を告げさせていただきました。
 その時から、皆様方からのご配慮、ご助言、ご指導、ご支援が始まり、私の支えとなりました。その後、手術が出来ないことからも、西洋医学的対症療法とは決別し、何事も全ては“あるがまま”を受け入れ、“御縁”に随い皆様からお届けいただいた全てを受け入れ、それを“ご縁療法”と称して今日に至りました。 勿論、その中には医師とのご縁もありましたが、それが無料である限り、ご支援を受けました。私にとっては“無料”であることが大事でした。お金が無いわけではないのですが、己の命を金で買うような不謹慎なことはしたくなかったのです。死ぬ時は死ねばよかろう。生きる時は生きれば良かろう。全ては己の内なる仏である自然の力に委ねる事こそ、私らしいと考えたからです。正直、最後の最後まで、“一人で立って、働き、坐り、寝て起き”、立てなくなったら薬師堂で、私の師の多くががそうであったように、威厳・尊厳を以って“坐して死す”覚悟を決めておりました。
 その為には、少なくとも、余す命を燃え尽くそうと思い、“一日を一生”に準えて今日まで生きてきました。
 平成15年6月24日、命日の予定日が過ぎ、一年、二年と、ステージ4(末期)のまま生き恥を曝して生き続けましたが、平成18年六月、“奇跡的(確率0,3%)”に癌の進行が停止し、診断の結果、テージ(期)が一段階下がり、それまで連続的に続いていた激痛と過剰腹水、食欲不振、全身倦怠感、骨そしょう、全身痙攣などなどを伴う血管侵襲多発性癌腫(全身への転移を伴う)が、勢いを失い、直径2センチ以上ではあるが“進行が極端に緩慢となり、癌が“瘡蓋化”して“休火山”状態となったいるという診断を頂き、奇跡的に余命宣言が取り消されました。 しかし、それでもステージ3(三期)で常時症状を自覚し、時に激痛もありましたし、腹水には困り果てていました。まあ、貫禄があり健康そうに見えるから都合が良いと思いつつも、太い注射針で10日おきに2リットル近くの腹水を抜くことは大変でした。
 あれから一年、本日、東京国立癌センターの医師団から「臓器に非進行性の腫瘍が固定し、未だに癌であることは変わらないが、6か月以内の死亡の確率は50%以下、3年生存の確率は30%近い」というコメントを頂き、四年前の「6ヶ月以内の死亡確率99%という宣告、3年以上生きられる確率はゼロに近い」と宣告されたことに比べると、「完治しましたよ!!」と言われたのと同じようなものです。
 勿論、養生は続けますが、それは誰でも同じこと。人間、誰にも“明日”は解らないのです。そういう意味からすれば、誰でも余命は今日一日であり、確率論からすれば、誰でも、明日死ぬ確率は百万分の三なのですから。
 さて、生きるということは一日一日の積み重ねであり、結果は自然なるものです。つまり、如何なる事実であろうと運命に抵抗して心をすり減らすより、事実をあるがままに全面的に受け容れるしかないのです。しかし、それは諦めるということではなく、自然の流れ、縁に委ねるということで、事実を消極的に受け容れるのではなく、積極的に受け容れることでしょう。勿論、悲観的でも楽観的でもありません。心を無にして受け止めるのです。
 今回、癌と共に歩みながら多くを悟らせて頂きました。毎日が悟りの連続でした。思うようになることは何も無い。苦しんでも一日、無心でも一日。只只、出来る事に全力を集中して生きていれば、楽もないが苦も感じませんでした。正に苦楽一如を実感しました。
 死ぬ覚悟より生きる覚悟の方が重い。・・・・俗な表現をしてしまえば、正に「闘病とは成仏へ道」に他ならなかったのです。不思議な事ですが、死ぬと決まってから活き活きと生きた気がします。明日からは、この貴重な体験を活かし、新たな道に足を踏み入れようと思います。一日一生、一生一日。ご縁に随って歩歩是道場、娑婆の修行に励んでまいります。皆様とはご縁があり、これからも続くでしょう。その素晴らしいご縁に感謝しつつ、病状のご報告と、皆様への感謝の気持ちを述べさせて頂きました。本当にありがとうございました。
 皆様の精進は日々の健康の賜物。梅雨時ですが、張り切ってお暮らしください。
末筆ですが、涼しくなりましたら快気とは言わず“回帰祝い”の場を設けさせて頂こうと考えていますので、時期がまいりましたら、ご連絡させていただきます。 
合掌
平成19年7月11日 小林惠智(慧智)

 

 

2007年07月10日

●第1097話 『剛刀雖利 不斬無罪』

 『剛刀雖利 不斬無罪』は、「ごうとう としと いえども つみなきを きらず」と読み、正法眼蔵や五燈会元十七巻の寶峰克文禪師の文中に散見される句は、意訳すれば、強いものは弱いものを責めないと受け止めたり、能力の有る者は、その能力の使うべき道を知っているとなる。
 最近、能力は高いが“その能力”の“使い道”を誤っていると思われる者が多い。問題は“使い方”ではなく“使い道”なのである。皆は、無意識に使っているだろうが“使い方”と“使い道”は違う事は十分に理解しているだろう。例えば犯人と警官がピストルを持ち、共に“使い方”は知っていても“使い道”は異なるのである。だが、より本質に近づけば、更なる“使い道”が見えてくる。使い方は水平方向に広がり、使い道は垂直方向に深まる。拙僧は『剛刀雖利 不斬無罪』を文字通りではなく、「己の力を知って活かせ」と読み取る。
 ところで、諸君は“己の力”を知っているか?、そして“その力”は一人で発揮できるものか?
本日の禅会では、それに対する答えと出会うように坐りなさい。
 蛇足だが、数日内に大きなニュースを流す。
 一日一生 慧智(070710)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

2007年07月08日

●第1096話 『歸家穏坐(キカオンザ)』

 昨日、“海洋散骨”をする同夏から「歸家穏坐というが、御主は何処なのか」と問われ「歩歩是道場」と応じた。出家に帰るべき家などないし、寺は修行の場であり仮に留まっているに過ぎない。勿論、此の世とて同じ仮の命。HNKではないが、人間は何処から来て、何処へ行くのか。そんなことは禅坊主なら「こっちから来てあっちへ行く。お前はあっちから来てこっちへ行くのか」と笑い飛ばす。あっちだ、こっちだは所詮は語。“語を悟にした”者にとっては生死は諸行無常。変わらぬ事などが無いこと生きている。されば、歸家穏坐する地とは何処。それは父母未生以前の世界。言い換えれば「この宇宙よ」となるだろう。
 まあ、今日は難しい事は無し。東京の仮住いのベランダにひっそりと咲いた『仏手柑』の花をご覧下さい。

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 一日一生 慧智(070708)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

 

●第1095話 『曹源一滴水(そうげんのいってきすい)』

 言わずと知れた『碧巌録』に登場する五言の一句です。『曹源』とは「曹渓の源泉」、つまり六祖慧能(えのう)大和尚のこと。紀元前の釈尊という源から流れ出た大河の一滴は、800年の歳月を掛けて我が初祖である達磨(だるま)大和尚、そして本尊の慧可(えか)大和尚、僧粲(そうさん)、道信(どうしん)、弘忍(ぐにん)大和尚と続き、六祖慧能大和尚により『禅の流れ』は大成し、臨済・ 雲門・洞山・潙山・法眼によって、臨済宗・雲門宗・曹洞宗・潙仰宗・法眼宗の五家、加えて臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化して日本には二十四流の禅として伝えられたが、全てはて大河の一滴、『曹渓の一滴水』からのものです。そこで、禅の根本を「曹源の一滴水」と表現し、正伝の禅法を「一滴水」といいます。有名な話ですが、明治の初めに天龍寺の管長になられた滴水宜牧禅師は、曹源寺の儀山禅師を師として修行されており、師が入浴中に滴水に「わしが風炉から出たら水をどう始末するのか」と。適水禅師「老師の次の人が入ります」と。儀山禅師「それがすんだら」と。適水禅師「私たち小僧たちが入ります」と。儀山禅師「では、それがすんだら」と。そこで、適水禅師は「捨てます」と応えるや否や儀山老子の大喝一声。「馬鹿者、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をも粗末にするでない」と。その一声に小僧である適水禅師が悟り、五十歳にして天龍寺の管長になられ、以後、号(ごう)を「滴水」と改めて遷化されるまで「水は仏の御命、一滴の水をも無駄にせぬよう」と言い続けておられました。
 しかし、最近はどうでしょうか。水を粗末にするなど言うに及ばず、命さえ粗末にしている。生きる時は全力で生きる。死ぬ時は全力で死ぬ。それが無駄の無い生き方ではないだろう。食糧の無駄、時間の無駄、人生の無駄・・・。現在では無駄を裕福・優雅のシンボルのように言うが、それでは地球が、宇宙が嘆き、人類を諌め様と隋縁から驚天動地があっても不思議ではない。それにしても二流の国民に三流の三代目の政治家は情けない。日本を“美しい国”になどと誤魔化さず、“美徳の国”へ戻すために、小手先の『教育改善』を改め、根本から見直す“教育改革”が必要なのではないだろうか。
 一日一生 慧智(070707)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを』
★宣言 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成

 

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