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2007年2月

辻説法『伝えたかった事』

●坐禅と瞑想(ヨガ)の違いは何ですか、と聞かれて。

十方無壁落 四面亦無門

 

2007年02月22日

辻説法『伝えたかった事』

  禅を解りやすく言えば、見えるものより見えないもの、聞こえる声より聞こえない声、聞こえる音より聞こえない音・・・、と言えなくもないが、本当は“分別”というややもすると二項対立や二律背反という『神経系(電気的)』にみられる“0対1、プラス対マイナス、有・無、苦・楽、正・否”という「父母未生以後」の相対的な考え方に偏らず、囚われずに、納所両亡、極論を排し、足して二でわるような単純な中間ではなく絶対的な原点である中庸(主人公の立ち位置)という“一点”、始まりも無く終わりも無い、裏も無く表も無い、そして立ても無く横も無いところで生きる生き方、解釈の背景にある事実の根底にある普遍性・原理・原則(安易に真実などと言ってはいけない)を全身で受け止められる自然体で生きることを時間や空間、祖や師という区別なく、誰にも頼らずに、己を師とも祖ともして修行に励むことである。
 それには、事実から眼を背けずに事実(実態ではない)の世界に身を置き、眼前に現象する全ての背景(共有する法則性)を発見し、記憶し、即(今・此処・己)の行住坐臥に投影して生きる。極論を言えば、『禅とは己を祖師として己に帰依する宗たる教え(宗教)』と言える。
 知る限りにおいて禅以外の全ての宗教は、己の外に向かって手を合わせることで楽になろうとするが、禅は己の内側に向かって手を合わせて一切の先入観、無縄自縛から自分で自分を解放する唯一の宗教だと思う。言い換えれば、『最初に言葉ありき、文字ありき』ではなく、『最初にも最後にも文字も言葉もない』と考えるから、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏であり、以心伝心であり、無事是貴人であり、日々是好日、山は青く川は緑で花は紅。全てが一つで一つが全てなのである。
 さて、私は禅を伝えようと何十年も生きてきた。しかし、伝えられないまま生物学的な生命を終わろうとしている。言葉を駆使して言葉の怖さと非力さを伝えようとして言葉を失い、言葉を使わずして真に気付いてもらおうと無為なことをしてきた。疑って疑って信じて信じた。そして、気付いた。「全ては不増不減・不生不滅・不垢不浄・・・」。その日まで淡々と暮らすことこそ素晴らしいということを。縁に随い全てを受け入れ、今・此処で己に出来る事を“すべき事”として生きることを。
●遺言:おい、主人公。出来る事をすべき事として全力で行い、今を堂々と生きろ。遺骸は山に捨てろ。葬儀はするな。俗名も戒名も不要。
慧智
 

 

2007年02月12日

●坐禅と瞑想(ヨガ)の違いは何ですか、と聞かれて。

 ヨガを教えておられる方から電話で、禅堂で瞑想をしたいが「坐禅とヨガ」では、眼が“半眼と瞑る”。手が組む、組まないの違いの他、何がありますかと問い合わせがありました。
 実は、応えに困りました。相手が、ヨガや仏教、禅いついて何を知り、何を知らないのかが解らないと、相手の疑問に答えられないからです。本当は何を知りたいのか。禅堂の規則なのか、禅とヨガの関係なのか。そこで、私は申し訳ないと思いながらも「何のためにヨガをなされているのですか」と、質問で返したが、快く答えて頂いた。「はい、和尚さんですね。私が美容と健康のためにと答えると思われますか」これには困惑。お株を奪われた感じ。そこで「私の聞きたいことが解っておられるのですね」と付加疑問で再度返した。「ええ、多分、和尚さんは私の知識のレベルに合わせて答えようとされていると思っています」。そこで「そこまでお分かりなら何故、坐禅とヨガの違いをお聞きになるのですか」と。すると、「鎌倉の禅寺で雲水の方に怒られたからです」と。「ということは、禅堂の決まりに随わなかったということですね」と。「ハイ。でも禅は全てを受け容れると聞いていましたから・・・」。「そうですよ。拘らず、囚われず、偏らずにね。雲水が叱ったのは、貴女の拘り、囚われ、偏りの心が観えたからだと思いますよ」。「禅堂に来たら禅堂の規則に随うのが自然ではないですか」・・・中略・・・・。
 「禅は己の外に絶対者を持ちませんが、ヨガは神人合一の方法論ですから己の外に絶対者(神)を存在させていますね」「坐禅は釈尊の悟りを追体験する行為であり、あらゆる妄想から脱却する方法であり、それ自身が目的でもあります。お分かりですか?」。「ハイ何とはなく」。「では、坐禅は無功徳。利益を求めず、本来は『一』であった己に生きながら死んで帰る(大死一番)。本来の己と現在の自分を完全に重ね合わせるのですから、眼を瞑り、現実から逃避した妄想の世界に入り込まないために『半眼』で坐りますし、全身の力を抜かず入れずの状態を維持するために手を組むことを必要としています。理解できますか」。「はい・・・」。「では、ご縁があればお出でください」
 さて、彼女はどうされると思いますか。あなたならどうしますか。
慧智(090212)

 

十方無壁落 四面亦無門

『十方無壁落 四面亦無門』は、「じっぽうむへきらく しめんやくむもん」と読むのが一般的。四方八方上下で十の方向、つまり360度に『仕切り(壁)』がなく解放され、更には四方に『門』もない。このような状態は宇宙空間を遊泳しているのそ想像すると理解できるかもしれない。まあ、一般的には想像力にも個人差があり、不立文字・教外別伝と言っても、以心伝心でイメージを共有できるようになるには“室内十年”が必要なのかもしれませんが、可能な限り多くの者とイメージを共有するための方便(レトリックと言ったも過言ではない)を以って、『心の理想的(本来の)な状態』を表した表現です。詳しく知りたいと“分別”の世界に居る者は碧巌録三十六頌評唱を読んでください。
意味は、『無心』であり、「本来の面目」であり、心の垢を全て洗い「本当の自由」を知り、その落とした『心』という概念すら捨て去った『無一物』の境涯を表現した言葉です。つまり、“菩薩(仏)の心”と言っても差し支えないでしょう。百尺竿頭の一歩先の心であり、禅者が至る(帰る)心です。
 その心の状態を外に投影したのが“本来”の禅寺です。来る者は拒まず、去る者は追わず。呼び込むようなこともせず、来ることを期待もしない。自らある現実の中で出来る事に特化して、今・此処を只管に生きる。生き切る。つまり、"寺(禅風)”は歴代の住職、現在の住職の心の投影であり、『禅』に対する考え方、生き方を象徴しているのです。
 話は少し変わります。生理心理学という学問領域では、『進化適応』の法則性を探求を通じて、取り敢えずは二項対立させている『体と心』の関係を明らかにしようとしています。嘗て教えを受けたポール・ソシャール博士(精神身体医学:パリ第一大学)は心理生理学という基盤となる学問が逆とは言え、最終的には、禅も生理心理学も心理生理学も同じ知見に辿り着きました。その行き着いた先が『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』、人間は物質および生命現象の一部であり、不生不滅、不垢不浄、不増不減という原則、色即是空、空即是色という原理なのです。そして、其処から出発すると、『心身一如』に得心が行き、心と体は紙の裏表に書かれた文字のように同じではないが分けられない。不可分 不可同という二項対立に意味を持たないという真実が得られます。そこまで解ると『泯絶超脱』の境涯となり、全てをあるがままに受け入れ、全てと同化し、諸行無常(全ては再現しない現象)の世を一日一生を意識して生きる本当の生き方に辿り着きます。つまり、どんな道を辿ろうと、最終的に行き着くところは、同じなのです。
 皆さん、私たちは母の体を媒介として此の世に生を受け、日々の環境から価値を教え込まれ、今、『自分だ』と思い込んでいる自分で生きています。最近、好き嫌いや、善悪や、正しいだ、間違っているなどという判断、分別、つまり『真の己』ではなく『偽の我』に振り回されて、苦しんだ経験はありませんか?典型的な苦しみが『板ばさみ』ですね。そんな時、皆さんはどうしていますか?多くの人は、考えて、考えて、尚も考えたりします。そして時間を浪費します。つまり『時』を失います。人間は何一つ持たずに裸で生まれ、何一つ持たずに裸で死にます。
 ある参禅者が、損得の世界から出たいと言いました。私は、坐りなさいと応えました。すると、「坐れば解るんですか」と聞き返されました。そして私は何も応えませんでした。
 日本人の多くが合理的だと信じ込まされている平凡な科学の世界観は、『具体的な原因と具体的な結果』の相関関係の強度を分別判断しようとします。科学者となると“それ”を限定的合理性と考え、限定を解除することを考え、坐禅などをします。
 損得を離れるには、分別心から分別を捨てて『心』とすることで、獲得するのではなく捨て去ることです。それが坐禅です。
 坐禅をしている時ほど“幸せ”を実感することはありません。
慧智(070212)

 

 

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