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2007年5月

●第1069話 『一言が人生を変え、人生が一言を変える』

●第1068話 死について考える

●第1067話 洪川老師の「亀鑑」を思い出して

●第1066話 『入室参禅』について

●第1065話 『隻手の音声』、聞けるものなら聞いてみろ。

●墨蹟は読めない方が良い?

●第1063話 『身体、心、頭』について

●第1062話 『大子の禅会にて』


●活人の誓いについて

●『好事不如無(こうじ(も)なきにしかず:碧巌録』

●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。

●『善悪』について 

●『本来』の意味・意義について

●『和光同塵(わこうどうじん)』こそ“美しい日本”の真の姿。

●良寛さんの漢詩に学ぶ

●般若心経における鈴木大拙の解説と和尚の解説が違う、という指摘に応える。


●釈尊曰く『少欲知足』を考えろ!

●『泥佛不渡水 神光照天地(でいすいみずをわたらず しんこう てんちをてらす)』

●回向文について

●仏教では“方便”を多用すると言われていますが、それは“嘘”だとうことですか?という質問に応えて。

●慧智和尚さんの強さに秘密を教えてください、と30歳の女性から質問されて。

●『無常の偈』に学ぶ

●『大鑑慧能の禅』とは?という質問に応えて

●良寛和尚の心、一休和尚の心


●活人禅とは、殺す事と見つけたり

●『自由』という言葉は簡単なのに、何故、難しく考えなければならないのか?という学生からの質問に応える

●『道無心合人 人無心合道』祖堂集、第巻十鏡清・第巻二十

 

【前の記事】

 

2007年05月18日

●活人の誓いについて

 活人の誓いが『四句請願』であることは、機会あるごとに話しています。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん・せいがん・ど)
煩悩無盡誓願断(ぼんのうむじん・せいがん・だん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう・せいがん・がく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう・せいがん・じょう)
それも、順番があり『度→断→学→成』。先ずは野にあって衆生を救う(社会貢献を意識する)。少欲を捨て大欲をもつ(目標意識より目的意識)。本質・真理・原理・原則を学ぶ(枝葉末節に囚われない)。己を完成させる(地球規模・宇宙規模で働く)。そして、竿の頭から飛び降り、基に戻って『度→断→学→成』を繰り返す。これが『百尺竿頭進一歩』(無門関より)の意味。
その大本の心には、活人禅堂の聖僧さんである慧可大和尚に対し、初祖達磨大師が与えた、以下に示す伝法の偈(一節)がある。
『吾本来茲土』・・・我れこの国の土となるために来た。
『伝法救迷情』・・・それは、法を伝えて、迷情を救うことだ。
『一華開五葉』・・・花が無心に開くように、純粋無垢な心となれ。 
『結果自然成』・・・無心に法を伝えていれば、自然と結果する(果を結ぶ)。
 我らが、坐禅を通じて文殊菩薩の智慧、慧可大和尚の心と行動と一心同体になるということは、両方の腕が揃ったままで、達磨の直弟子となり、文殊の智慧が働くはずである。
 さて、慧可大和尚が自ら左腕を断ち切って初祖に差し出した事を、肯定もせず、否定もせず、解説もせず、言葉も使わずに、山川草木に対して応えてみよ。
 応えなければ、活人を捨てることとなり、応えても言葉を使えば命に叛く事になる。
 さあ、どうする。
一日一生 慧智(070518)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
*明日3時、胆の据わった禅士を寺でお待ち申し上げます。

 

●『好事不如無(こうじ(も)なきにしかず:碧巌録』

 “好き嫌い”という二見が人間本来の自由を奪うことは少し考えれば解ると思う。好きな事は前倒し、嫌いな事は先送り。身に覚えがある人は多いだろう。“好嫌”という情動、“善悪”という感情、“正否”という理性。人が出会う現象を好事だ、悪事だ、都合が良いの悪いの、善だ悪だと二つの方向に分けることが“苦の源泉”なのだ。そして、そこから始まるのが、身勝手であり、求める心、偏った心、拘る心、囚われた心なのだ。そして、それを放置しておくと、執着心・先入観となり、行動が偏り、結果的に世間を狭くした上に、“自由”を失ない苦しむことになる。
 ネット禅士諸君。充実した人生にしよう!勿論、それは一朝一夕には出来ないが、今、此処で始める決断をしないと、いつまでたってもイキイキ人生にはならない。
 禅では、何事も“否定せず・肯定せず”、差別無く分別しないことを、先ず肝に据えさせる。そのためなら、師は弟子に対して強硬な手段も厭わない。そこを乗り越えられなければ、修行には耐えられないし、全てを“あるがまま”に受け止めることはできない。そこさえ乗り越えられれば“自然”と共生が出来る“自由自在”に一歩近づく。その心が“無心の心”という境地である。そこまで辿り着ければ、仏滅だ大安だなどの吉凶などは考慮の対象にすらならないし、喜怒哀楽に振り回されることなく『日々是好日』『無事是貴人』に得心が行く。妄語迷信など敵ではない。仏滅に結婚式をしようと、大安や友引に葬式をしようと、吉だ凶だ、方位だ、四柱推命だ、星占いだ、血液型占いだ、怨霊だ、怨念だなどの妄想など笑い飛ばせる“自由”に目覚める。何があってもドンと受け容れてしまい、理由を考え出したり、こじつけたりすることは無くなる。毎日が廓然無聖。カラッとしたさっぱりした気分だ。ただ、それで満足していては禅者ではない。ここまでは“自利”つぎは“利他”だ。
 人生を充実させたいなら、自分を自分の人生の主人公にしなければならない。それには、常識と思い込んでいる事を一度、全て捨てて、価値観を再構築する必要がある。だが、世間的な常識と思い込んでいるもの、価値観を全て否定し排斥するものではない。それらの全てを『肯定もせず否定もしない』目で見つめ直すのが大事なのだ。ところで、貴方にとって『好事』とはどんな事かと問われれば、『自分にとって“都合のよい”こと』だと答える人が多いだろう。日本人は“好い事、良い事、善い事”と書いて、どれも「いいこと」と発音する。同様に好い人、良い人、善い人と言う場合も同じ。勿論、3つの意味は異なる。しかし、前出の3つの「いい事、いい人」は“自分にとって“都合がよい”という共通項はある。

 心理学の世界では、「好い事」を感じるのは情動、「良い事」を判断するのは理性、「善い事」と決め付けるを人格という概念で説明しているし、大脳に部分機能を持つ構造に帰着させて考えることが多い。しかし脳に“その場所”があるのではない。脳の進化の過程で変わってきた“主導脳”による情報処理の異なりに呼び名をつけただけだ。だから、単細胞→多細胞→植物→魚→両生類→爬虫類→哺乳類→高等哺乳類と進化してきた人間だけが3つの定規を持ってしまい、その相互関係の矛盾から“自由”に生きていることが出来なくなったのです。 それが、釈尊をして『一切皆苦』という大前提を構成させたのだ。そして、苦の原因を断つ方法を探すために出家し修行をし、苦の分類(四苦八苦)と構造を発見し、苦しまない生き方を発明した。それが『一切皆空』といって、全ては相対的であり実態は無く、全ては“紙の裏”のようなもので、見方次第だが、不可分不可同、つまりは固定されたものではない、という真理に行き着い
た。そのポイントは、全ては実体ではなく、相対的な幻想に過ぎないということだ。だから、物事が二つに分かれる前、『我(が)』を『父母未生以前の己』に立ち返れらせればば、生死一如であり、原因が縁と結びついて結果となるのだから、結果に注目して苦しんでも無駄で、自分の心に注目し、結果は全て無条件に受け止め、足るを知れば、“此の世こそ大安心で満ち溢れている蓮華国、浄土であると理解し、『無事是貴人』『日々是好日』『平常心是道』『一期一会』『薫風自南来』・・・・という『禅語』は、結局『好事不如無』の心と同根だということを得心するために坐禅を発明したなのである。

 「穏やかに、伸びやかに、安心して、活き活きとしつつ淡々と暮らす」。反対する人がいるだろうか。心と体は不可分不可同、心身一如。差別する区別する分別することが幻想だと解ると、この上の無い気分で暮らせるようになると考えられないか?
 今週の土日は、大子の活人禅会です。自宅で一人で坐っているのも良いが、一度は寺に顔をだしてください。
 一日一生 慧智(070516)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

 

2007年05月16日

●5月1日の『自由』に関する応答を読んで、「もう少し易しく説明して」という追加の質問に応えましょう。

 究極の答えは『禅を体得した者以外に“自由”は無い』ということだ。言い換えると、禅を極めることは、“自由の自覚を得る”ことだ。だから、欧米には“自由”は無い、と断言しても過言では無い。
自由とは、“主観”という幻想から覚めることだ。自由においては、主観も客観(≒主観)も無い。自由とは“無心”のことだ。只それだけ。道徳的・倫理的・法律的など意に反するの制約が無い、ということが“自由”なのではない。今一度5月1日の説法を読んで欲しい。
 君は重力から自由になれると思うか?。宇宙に出れば重力からも自由になる、と応えるか?。食欲から自由になれるか?。環境から自由になれるか?。そもそも自我から自由になれるか?。辞書の定義から自由になれるか?。自由民主党に、文字上の自由はあるが、本当の自由はあると思うか?・・・・・。
 つまり、自由は意思でも意志でも無い。自由は、“本来”であり、『自ずからに由(よ)る状態』をいう。『由』の文字を見ても解るだろう。“由”は、田んぼから芽が出てくることだ。芽は誰かに命令されたか?。気(期)が熟せば『自ずからの由(よし)により発芽する。言い換えると、自由とは、“あるがままにある”、“あるべきよう”ということだ。
 良寛さんの言葉を借りれば、『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』こそ、“自由”を自覚している表現だ。死ぬまいとするから不自由になる。解るか?。相手を自分の都合で動かしたいというから、不自由になる。解るか?。自他不二に逆らい、相対的に、対象を考えるから“主人公”の椅子が危なく感じて不自由になる。“随所作主”は自由であってこそだ。自由であれば、何処でも主だ。解るか?。
 科学は考えなければ解らないが、科学を考える科学哲学は考えの所産を放棄している。限定合理性の範囲外、つまり無限定という自由な状態では科学は無力なんだ。ミクロとマクロの僅かな領域でのみ有効な科学を、現代的に言えば、科学は“コンビニ”、便利だけど絶対では無いのだ。“自由”を知りたければ寺に来て坐れ。10年坐れば誰でも解る。一日で解るかもしれん。
 これ以上、応えようもない。あ、そうだ、“科学”に毒された頭は科学から解放されなければ、自由のスタートラインにも着けんぞ。欧米風に云えば、自由は我、欲望からの解放だ。だから欧米には“自由”がない。自由が無いから共生が出来ずに、争い競うことを続けるしかない。
 “悟り”とは“本来”全てに行き渡っている『無一物中 無尽蔵』の“自由”を体現して(竿の頭まで行く)、現在の全てをあるがままに受け容れる(戻ってくる)ことだ。
 ところで、君は自由になりたいのか?自由を知りたいのか?不自由なもんだな。皆、本来は自由じゃないか。刑務所に入っていても自由な者は自由。六本木ヒルズに住んでいようと不自由な者は不自由という方便が伝わらないかな・・・。残念。考えすぎると体を悪くするぞ。馬鹿に付ける薬は有っても利口に付ける薬は無いか。御免。あんたさん、もしかしてミスター・マリックか?メニュー見ただけで腹がいっぱいになるんかな?

一日一生 慧智(070515) 『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』

 

●『善悪』について 

 道元禅師の言葉に『人の心、もとより善悪なし。善悪、縁に随ておこる』というのがある。これは禅師の侍者であった懐奘により書き残され今に伝わっている。意味は「全ての現象・事象には人の決めた“善悪”とは無関係な“因”があり、それが“縁”に触れて“果”となり、また因となり回り続けて返ってくる。それが因果応報。だから回向返照。“本来”に善悪などはないが、道徳的な善悪、儒教的な善悪、世界で異なる法律的善悪。夫々で異なる宗教的善悪。善悪の基準は心の汚れ具合で皆少しづつ異なるが、己の清心の基準で善をなし、ひけらかす事をしないことは大切な事。だが、残念ながら人間は染まり易い。だから“したい事より、すべき事。すべき事より出来る事を大事にしよう。己の認識の有無には関係なく、縁が“善果”を結ぶ場合もあれば“悪果”を結ぶ場合もある。そして、それがまた“因”となる『因果一如
』。真理は永遠に繰り返す。どんな人間でも、生きていれば悪因の無い者も、善因の無い者もいない。問題は“何れに偏っているか”である。如何なる結果も自業自得。だからこそ、『全てを素直に受け容れる』のが一大事。それがどの様に評価されるかなど気にしちゃならん。出来る事に全力を尽くして、知足(足るを知る)。
◆良寛さんの一言
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候』人は誰もが災難や死から逃れたいと思うものだが、不安や恐怖に逆らおうとする心はストレッサ
ー、ストレスの原因。望まぬ方向への道案内。だからね、何事にも逆らわず、力を抜いて素直に受け入れてこそ、この身即ち仏なり。この智(地)即ち蓮華国。それが妙法。 俗世間の善悪は相対的。心を無にして生きことこそ善、そして禅、そして然、そして全。
一日一生 慧智(070515)『願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道』
◆報告:薬は薬で毒は毒は西洋の二元論物語。東洋は薬は毒で毒は薬。意味深長だな。

 

2007年05月14日

●『本来』の意味・意義について

『禅』ないしは『大乗仏教』でいうところに『本来』とは、過去の拘り囚われ、偏りの一切を脱落せしめた純然たる“今”という瞬間が永遠に続く時空に依存する以前の世界を示す。
 つまり、『一』という全体を構成する『一』という部分が全体と相互浸透している世界である。
更に言えば、父母未生以前の己の消息であり、“二つ分かれ”する以前の『一』という未分化の世界である。それは、不二、自他一如、生死一如、不生不滅、不増不減、不垢不浄の状態であり、人間の手で汚れる以前の天然の世界である。
 故に、『本来』とは、無一物であり、無一物中無尽蔵の融通無碍の世界であるといえる。
 実は、『禅』における悟り(大悟)とは、その無空の消息自体を己を媒介にして坐禅・作務および行住坐臥の修行(歩歩是道場・日々是道場)の全てを以って自覚し体現することである。
 つまり、『己事究明』こそが真理(本質・原理・原則が同心球、円や球の中心)を悟る行為の唯一無比、絶対の方法を持った目的であり、目的を持った方法なのである。
 故に、禅の修業は『大死一番(娑婆の自分の一切を殺して(出家)、無心の心を心として修行に徹する覚悟)』が大前提となっている。なお、禅でいう『無心』は、空っぽ。自由で創造的で新鮮な心。それが『大死一番』で蘇った新しい己であり心身一如の姿です。言い換えれば『放下著』した残り(無)こそ『本来』が指し示すところなのです。
 なお、“本来の禅師”は、達磨大師が慧可大和尚に示したように、弟子が師に相見して公案を受け取る為には、本来、坐禅により“一度は死んだ己”を呈する以外には道は無いのです。
 とい訳で、野狐である愚僧ですら相見を受けにあたり、座禅の経験だとか、禅の知識だとか、況や社会
での地位などに関わりなく、『以心伝心』を重視している。言い換えれば、“人を観て法を説く”事以外に参禅者に応える方法はないのです。

以上、『本来』の二文字ですら、言葉で伝えるのは難しい。況や、無だの空だのは意味を頭に記憶させるのは大した問題ではないが、全身に染み込ませせるのは禅師としても命がけなのです。
達磨さんが『教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏』と言わざるを得ない気持ちが理解できたかな?
一日一生 慧智(070514)
★『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』合 掌

 

2007年05月13日

●『和光同塵(わこうどうじん)』こそ“美しい日本”の真の姿。

『和光同塵(わこうどうじん)』は、“和≒品性(“和を以って貴しと為す”の和)”と“光≒光り輝く才智(≒天分)”を“同≒同じくする”と“塵≒汚れ≒塵芥”で構成された句と考えられます。 
 つまり、『和光』という全ての人間が本来から具有する清い心や個々独特の能力を、『同塵』、即ち“塵や芥”と同等にするということです。
 しかし、一般には何が何だか解りませんね。
 ところが、東洋の教養を身に着けていたり、禅を学んだ方、“**道”というような行為を通じて自分自身を磨いておられる方であれば、これは“謙虚であれ”とか“陰徳”を積む事だと解釈します。
 更に、禅の修業を真剣にされた方は、『和光同塵』は禅語(文字や言葉を引き金にはするが、それに囚われずに本質を観じる)として受け止めて『己の本質である穢れ無き力量を他の為に使う上で、無功徳に功徳を期待するような偽善に流れず、修行の成果かど微塵も見せずに巷(≒野、俗)にあり、人知れずに衆生を救い、救われた者に救われた意味を悟らせる生き方こそ最高の生き方だとなるでしょう。十牛図の十番目にある布袋さんを連想するように理解し同時に行動します。正に菩薩さんの行住坐臥です。正に、私達ネット禅士のゴールイメージです。
 さて、目を現在の日本社会に転じてみましょう。
 現在の日本の姿は、禅者である私達の非力のためなのか、民主主義、自由主義という変幻自在な隠れ蓑を被った経済(経国済民)、拝金主義、資本主義を建前に“経営(営みを経て目的目標を達せさせること)”という実を伴うべき志を曲解した格差社会(勝ち組と負組みを明確にする不公正・不平等な社会)を固定し拡大することで“新市民と新奴隷”という新たな身分社会を一部の権力者が誕生させようとしているように見えます。
 勿論、日本という国は“過去”が素晴らしくて“今”が悪い、というものでは断じてありませんが、20世中盤から世紀末、そして21世紀初頭にかけての変わり様は、恰も“一億総博打打ち”にようです。特に昨今の日本社会は、上流はヘッジファンド・株式投資のようなマネーゲーム。下流はパチンコ・競馬・宝くじのような射幸性ビジネス。双方ともに実を欠いた“虚業”に幻惑され、猫も杓子も金金金・・、ではないでしょうか。
 考えてみると、経済界のリーダーの一部は『和光同塵』を忘れて主婦、退職者、中学生に株取引を教えて誘い込み、政界のリーダーの一部は『會成一棵大樹 給天下人做蔭涼』を忘れ、世界遺産とも言える非暴力宣言を柱とする憲法まで放棄しようとしています。その上、“和を以って貴し”としてきた声無き声の“国民の本音”を守り、事実を正確に伝達する使命を持っているはずの“マスコミ”は、官民の区別なく品性を欠いた“面白ネタ”で読者や視聴者を獲得し、異なる種類の利権と結託して拝金主義を煽り、勝手な論理を振り回す文化人や学者をも取り込んで、正義を装いつつも、司法権でも握ったかのように、時には国民を裁き、日々に弄んでいるようです。また、国民は国民で、自分さえ良ければ良い、という手前勝手な論理を展開する無知蒙昧ぶりで、個人的利益のみに目を奪われ“快楽と投機”に没入しているようです。更には、“勝組二世”と言われる輩、即ち“虎の意を巧みに利用できる小利口な高学歴”は、“御為倒しの善意・正義”を隠れ蓑に市場イメージに過剰反応する時価純資産の高い企業と徒党を組み“非営利事業という営利事業”を考案して『大量生産・大量消費・大量廃棄』を支える金融やIT産業という虚業の延命を図るため、『環境保護活動』や『環境回復活動』という収益性の高い“虚業”を考え出す始末です。
 勿論、それらは“一事が万事”ということではありませんが、それらは高い“教育効果”を有し、日本人の品格を収穫逓減の如く下げ続ける危険を孕んでいるのです。
 『和光同塵』とまでは言いませんが、日本は米国の属国でも、北朝鮮の玩具でも、中国の標的でも無いはずです。以和為貴、質素倹約、質実剛健、非暴力、独善より協調、競争より協奏の素晴らしさを体験している“まとも”な国民であり、世界屈指の“共生による世界平和のノウハウ”を持つ国です。
 そうは思いませんか?
 ネット禅会に参加されている禅士諸君、そろそろ『自利利他』事を実践する時節ではないでしょうか。
 以上、禅というより儒教的な説法になりましたが、全ての人類が安全・安心を確保でき、山川草木と共生できる地球を取り戻せるように行動しようではありませんか。
一日一生 慧智(070513)
★『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』 合掌

 

2007年05月12日

●良寛さんの漢詩に学ぶ

人心各不同 如面有相違    
倶執一般見 到処逓是非    
似我非為是 異我是為非    
是我之所是 非我之所非    
是非始在己 道固不若斯    
以竿極海底 祗覚一場疲    
◆慧智の読み下し(二句読み)
人心(にんしん)、各おの同じからず、面に相違のあるが如し。
倶(とも)に一般の見を執(しゆう)し、到る処 逓(たがい)に是非す。
我に似れば非も是と為し、我に異なれば是も非と為す。
是は我れの是とする所 非は我れの非とする所。
是非は始より己に在り、道は固(もと)より斯くの若くならず。
竿を以て海底を極めんとすれば、祗(た)だ疲れを覚ゆるのみ。
◆慧智の超訳
人の心は顔に違いがあるように皆異なるものだ。
しかし、皆、自分の考えに固執し、相手の考えの是非を決め付ける。
問題は、自分の考えに似ていれば相手を肯定し、異なっていれば否定するところだ。
つまり、是々非々は最初から自分の尺度で決め込んでいるということだ。
ところが、自分が決め込んである是々非々の基準は、しばしば道理に反するものだ。
それは、竿で海底を突こうとするようなもので、疲れ果て空しさが残るだけの話なのだ。
◆要約すれば『人間には個別的特性(個性)があり、各々が自分の価値観に固執して相手の是々非々を判断するが、結果的には真理を見過ごし空しさだけが残るものだ』と言っている。
◆禅士に問う。
禅では、個性の違いを表面上では認めているが、真理は“無個性”だと個性を断じているが、何故か。

一日一生 慧智(070512)
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』

 

2007年05月10日

●般若心経における鈴木大拙の解説と和尚の解説が違う、という指摘に応える。

 鈴木大拙に拠ると、慧智和尚の般若心経の解釈の終わりの呪文のところで、文字は『羯諦羯諦』とあるが、正しくは『掲帝掲帝』。意味は『行って観よ』ではなく正しくは『来た・着いた』だと書いてある。・・・・・という、御指摘を頂いたので、お応えしよう。
 先ず、文字については“当て字”であり何種類もある。特に呪文は"音”こそが肝であり文字はどうでも良いはず。心経のように、音訳であって意味をも伝える時は“漢字”は慎重に選ばれる。つまり、呪文の文字に何が正しくて何が間違いだということは無い。況や、鈴木大拙師が正しいという思い込みは如何なものか。
 次に、拙僧が『行って観よ』と訳しているは、大拙の『禅学』とは聊か異なる発想からである。そもそも般若心経は"空”と解いているが、解いているだけでは心経が担った使命を果たせない。確かに、単純な翻訳なら大拙氏の『来た・着いた』であるが、『来た・着いた』と言って良いのは拙僧の解釈では『釈尊のみ』である。拙僧は、心経を菩薩(修行中の仏)に読ます場合は『来た・着いた』ではなく『行って観よ』と訳すのがスジだと思っている。
 『禅(宗)』は、修業こそ肝であり、『不立文字』を深く理解していれば、文字に囚われているのは愚考であると解るはず。そもそも『経』には音訳(一種の陀羅尼)と意訳、それに和讃があり、何れも修行の補助が目的であり、それに囚われてはならない。
 因みに『経』は、ある意味で意味が解らない方が無心となることを促進すると思う。つまり、意味が解りそうな場合は、看ようが読もうが、意識への働きかけが強く、『直指人心』の障害になる。『教外別伝』とは、文字や言葉を離れたところを指すもので、仏の心は修行者の心に内包されているので、その浮上を支援できれば良いのだ。
 さて、Yさん。中途半端と中庸は違いますな。学と修、行も違いますな。大拙と慧智も違いますな。ところで、Yさん、貴方は誰ですかな?。拙僧は釈尊であり達磨であり貴方ですよ。禅を学問と考えるのは欧米人に多い。何故なら『宗教はキリスト教しか許さない』からである。となると貴方はクリスチャンかな?。まあ、何でも宜しい。一度は寺に来て坐りませんか?。拙僧の文殊一刀流警策の乱れ打ちを受けてみませんか。限界に来てしまった二元論を超えてみませんか?。それが『両忘』の意味です。Yさん、大拙を読まれるとは素晴らしい。しかし、それにはそれなりの理由があるだろう。背景には言い難い何かがあるのだろう。待っているよ。何年先でも構わない。 
 拙僧は、いつの日にか『羯諦羯諦』の訳に関して参禅者から指摘があると期待していた。しかし、残念
ながら3年以上、指摘も質問も無かった。
 なお、『行って観よ』が間違いだと指摘する人は、『来た・着いた人』ではないから、『行って観よ』が正し
い。何も指摘しない人は『行き先が解らない人』か、『来た・着いた人』。後者の『来た・着いた人』は拙僧の真意が伝わるので指摘はしない。前者の『行き先が解らない人』は指摘が出来ない。となるとYさん、貴方はなかなかである。しかし、大拙を読むのは早すぎる。先ずは坐ろう。
◆蛇足:人間、指摘されている内は現役でいられるが、指摘を受けられなくなると引退しかない。今日は、少々辛い日であったが、「未だ死ぬな現役でいろ」という応援を受けたようで嬉しかった。感謝。
以上
一日一生 慧智(070510)久しぶりに全身が硬直し骨が折れるような痛み、されどそれは生きている実感をくれる。
『願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを』合掌。

 

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