...
« 2005年03月 | メイン | 2005年05月 »

2005年4月

野狐禅和尚の辻説法『人間の思考』 №741

野狐禅和尚の辻説法『真玉泥中異』 №740

野狐禅和尚の辻説法『言葉の限界』 №739

野狐禅和尚の辻説法『如何なるか幸せ』 №738

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:坐禅は、それ自身が目的であり手段だということが和尚の過去帳に書いてありましたが、どうしても理解できないのでヒントを下さい(中学2年生)』 №737

野狐禅和尚の辻説法『禍は慎家の門に入らず』 №736

野狐禅和尚の辻説法『眠い時こそ断崖絶壁』 №735

野狐禅和尚の辻説法『丈夫面上に紅粉をつく』 №734


野狐禅和尚の“お応えします”『質問:法律を守ることが最低の道徳なのですか(中学2年生)』 №733

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №732

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:先生は、何を目的に、何を目標に生きていますか?』 №731

野狐禅和尚の辻説法『多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し』 №730

野狐禅和尚の辻説法『一日不作一日不食』 №729

野狐禅和尚の辻説法『好事不如無』№728

野狐禅和尚の辻説法『質問:方便は“嘘”ですか?』№727

野狐禅和尚の辻説法『無理会』№726


野狐禅和尚の辻説法『足るを知れ』№725

野狐禅和尚の辻説法『麻糸は、1、8キロ(麻三斤)』№724

野狐禅和尚の辻説法『神と仏、そして、禅』№723

野狐禅和尚の辻説法『色即是空、空即是色』』№722

野狐禅和尚の辻説法『転迷開悟(てんめいかいご)』№721

野狐禅和尚の辻説法『4月8日の灌仏会について』№720

野狐禅和尚の辻説法『8歳の夏の思い出』№719

野狐禅和尚の辻説法『澗水松風悉説法』№718


野狐禅和尚の辻説法『其の白を知り、其の黒を守れば、天下の式と為る』№717

野狐禅和尚の辻説法『人生の起・承・転・結』№716

 

【前の記事】

 

2005年04月20日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:法律を守ることが最低の道徳なのですか(中学2年生)』 №733

 先日の中学生から、“法律と道徳の関係”を理解したいと言う内容の質問がありました。過日、助言した通りの質問方法が出来ていました。なかなか筋の良い15歳です。
 さて、お応えです。『法律』には強制力があり社会の維持に必要な最低限の“きまり”、『道徳』は個々人が、帰属する社会の中で、より豊かな気持ちで暮して行けるようにする合理的な“理想像”で、一般的には強制力はないが、常識の根幹ともなりえていると考えれば良いでしょう。つまり、法律の多くは“頭と行動”に注目し、道徳は“心”に注目しているのです。君の仮説では、大正解とは言えませんが、素晴らしい“発見”だと思います。法律すら守れない大人が多い今日において、“法律が最低の社会規準”という考えを中学生が解っているというのは感動です。しかし、そこまで解るなら、もう一歩、前に進んでみましょう。
そこで質問します。『“法律”は自分と他人の今を守り、“道徳”は未来の自分を守る』という道徳人に、“自他一如”という“禅”の世界観からの“ひと言”言ってください。ヒントは“止揚(必ず辞書を読みましょう)”です。対立を相互浸透させて無対立に昇華させてしまうことです。“今”は無限の過去と無限の未来の一瞬の接点で、今という今は既に無い、ということです。
慧智(050420)

 

2005年04月19日

野狐禅和尚の辻説法『山寒花発遅』 №732

 “山寒花発遅”は、「山寒くして、花のさくこと、おそし」と読むのが一般的です。意味は、『人々に生きる慶びを与えられるような在り方は、長く厳寒風雪に耐えた分、一気に開花する北国の春のように、大器は晩成だということ』でしょう。
 福島以北、標高1000メートル以上の地の春は、梅桃桜梨の花、草木の新芽が一気に咲き、雪深いところであればあるほど“百花繚乱”という言葉に相応しい春が来ます。それは里や都会の春とは比較にならないほど、人々に大きな喜びを与えています。
 都会の青年の“早熟”も結構ですし、“温室育ち”“純粋培養”の特別コースも結構ですし、反面、田舎育ちの歪な天下獲りも、滑稽で微笑ましいのは事実ですが、艱難辛苦に耐え人間として大切な“利他”の心というのは、その完成に至るまでに時間がかかるものです。そういう意味で“東北の春”に準えた「山寒花発遅」は、味わい深い言葉です。
まあ、自分は大器だとか、反対に大器ではないという自己評価を聞くたり読んだりすることがありますが、発現を耐えに耐えた“晩成”は、なかなか難しいもので、江戸期や明治時代なら兎も角、平均寿命が80歳を超えている現代において、三十や四十の“未盛年”が、何を生き急ぐのか“成功”に固執しているのは、微笑ましいが、更に若い“未来の日本人”にとっての鏡としての“不特定多数の者に喜びを与えられる”という“成功(こうをなす)”なのかどうか、甚だ疑問があると感じます。
 蛇足ですが、“金儲けと借金”は下手でコツコツと陰徳を積める者は、出家・在家を問わず限りなく少ないが、だからこそ、日本人として『目指したい人間像』ではないだろうか。中国からの反日のテレビ中継を見ていると、さすがに歴史教育を操り帝国主義を実現した国の若者らしいなと、その軽率な発言から感じます。まあ、現代中国は、数千年の過去の栄光を捨て、焚書と洗脳と徴兵などを伴い独裁者が60年で築いた国だけに、過去、我々が鏡として学んだ4000年の歴史に裏打ちされた中国とは無関係なのだな、残念だなと思うのは私一人だけではないでしょう。『山寒花発遅』、日本は、昔も今も“中国は鏡”、“日本の先生”としてアメリカを先生とするのと同様に、大いに学ぶ必要があるでしょう。
『人類への信頼を失ってはならない。人類は海のようなものである。譬え海の中が汚れても、海全体は汚れない』とインド独立の功労者であるマハトマ・ガンジーも言っているように、汚れがあるから、綺麗にしようという心が動くとも考えられる。
慧智(050419)6:25

 

2005年04月18日

野狐禅和尚の“お応えします”『質問:先生は、何を目的に、何を目標に生きていますか?』 №731

 茨城県の中学生から『先生は、何を目的に、何を目標に生きて居るんですか?それに死ぬのが怖くないのですか?という質問』がメールにありましたので、お応えします。
Yさん、“この質問”は、僕に対する興味からか、“君自身の問題を解決するためのヒントを得るのが目的か知りたいな。君は今、中学生。可能性の塊だと僕は思う。だから、質問をしてくれたお礼に、一つ素晴らしいことを教えます。質問する場合には、2つ基本があるんです。一つ目は、調べれば解るような客観的な事実を知りたい場合は“質問しない”で、調べること。そして、その結果が正しいかどうかを質問すること。二つ目は、相手の主観的な意見を知りたい場合は、“自分の意見(私は~と考えます・思います)”、を先に述べるんです。そうしないと、質問された相手、聞かれた相手は、聞いてくれた人の知識や境涯を踏まえて“応える”のが『大人の世界』だから、“どのようなレベル”で応えたら、あなたの役に立つか解らないと辛いんだ。解ったね。
 さて、君の心や頭を理解しないで応答するのは、難しいことだけど、聞かれた以上は応えておきます。
■人生の目的:究極の目的は“幸せに死にたい”と言えるでしょう。ですから“死の一歩手前まで“幸せに生きたい”と思っています。
■私の幸せ:“不特定多数に役立つている”と感じられること。
■大目標:出来るだけ、多くの人に貢献する。
■中目標:一切の差別を捨てる、媚びないなどなど
■小目標:来る者は拒まない、去る者は追わない。お金は他人の為に使う。・・・多分50個くらいの目標があるでしょう。
Yさん、以上は、標準的な中学生をイメージして書きましたが、君がもう少し大きければ、
『目的や目標は意識していません。“今”を全力で生きています』と応えるでしょう。
質問した相手が坊さんなら、殴るでしょう。
 今、言葉の空しさ、自分の未熟さを味わっています。Yさん、有難う。
慧智(040518)

 

野狐禅和尚の辻説法『多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し』 №730

 釈尊が遷化する前、その教えを箇条書きにして残したものを集めたものを、後に鳩摩羅什が漢訳した経典である『遺教経(ゆいきょうぎょう)』にある、“多欲”を戒め“利他”を促したものの一つが「多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦た多し」というものです。『自分だけの欲望を追求し、自分の事だけを考えて生き、不特定多数の利益のために己の能力を使うことをしない者は、苦しみも多く悩みも多い』という意味です。なお、「知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり」という『“足るを知ること”こそが、大安心の源』ということを暗示する記述も見られます。
さて、『足るを知る』という言葉は、現代の我々にとっても耳に心地よく、頭では簡単に理解できるでようが、それを本心から得心して行動している者は、私が知る限り、極めて少ないのが現実です。
一昨年、この辻説法で『菜根譚(さいこんたん)』を解釈してきた時にあった『貪らずを以て宝となす』という一節を思い出せないだろうか。『今・此処の己』のみが現実。過去は変えられない。未来は変わりすぎる。つまり、『決定と未定』の中間過程にあるのが“今”であり、今は『過去の結果であり、未来の原因』であるから、何をどんなに貪ろうと、過去は変えられないので、今は過去の結果。未来の為に今を貪ろうと、未来は今の結果であり不安定なので、望んだ分が実現するとは限らない。つまり、過去や未来に囚われ拘り、偏った考え方をすれば、“落胆”が待ち構えているのです。ところが、今、此処で、現象している“事実”を、因が縁により変換された過去において自分が望んだ結果であると考えたら如何だろう。『黙って受け入れる』のだ当然、という気持ちにならないだろうか。不足を漏らし、愚痴を言えば変るのだろうか。ところが、“今は分相応”という規準で今を評価できたらどうだろう。そして、現前に現象する“すべき事”に集中できたら、あなたの明日は如何だろうか。
私は、今日も生きて居る。正に、“人間は病気や事故”で死ぬのではなく、“寿命”に随うのだろうという考え方が間接照明されている。『今』、それは感動である。
『今があることで十分』と感じる事が出来れば、“もっと・・”という心は消え去る。
『今を満足して、昨日は昨日と、済んでしまったことに拘らず。まだ現象しない未来に今を犠牲にさせない』、そんな生き方が出来たら、この世は薔薇色以外の何ものでもないだろうか。“縁”で結ばれた“現前の事実”を素直に受け入れ、それに対し“全力を尽くす”、そして、その結果もまた“素直に受け入れる”それが最高の生き方では無いだろうか。
慧智(040518)
*出張→セミナー→坐禅と数日間があっという間に過ぎた。行方不明になった携帯電話、壊れかけたコンピュータ(Eメール)、その上、新聞・テレビ・ラジオなどなどから“孤立”していた。『情報断食』、これは素晴らしい。アルコール依存、金依存、物依存、人依存などなど、現代人は“何らか”に依存していきているが、時には“それら”を忘れることが大切だな、と今、感じている。4月18日午前4時、記す。

 

2005年04月15日

野狐禅和尚の辻説法『一日不作一日不食』 №729

「一日なさば、一日食らわず」と読みます。「働かざる者、食うべからず」という道徳的な戒めをはるかに超える百丈懐海(ひゃくじょうえかい)和尚の名言で、公案集である五燈会元の第三則に出てきます。この語は、禅と労働(作務)を結びつけた金言で、たとえ年老いても、たとえ体が不自由であろうと、一生涯に渡り働く。働く≒利他。それは、生産性を問うものでも、結果を論じるものでもなく、“出来る事をする”、それが人間を人間ならしめる『唯一の道』であることを示唆しています。
 巷はマネーゲームを賛美し、拝金主義者は小・中学生までに、アメリカに追随して株取引を教え込もうとしています。古来、金で金を生み出す生業を“虚業”として忌み嫌いました。そして額に汗して働く“実業”を善しとしてきました。しかし、昨今は変わってしまいました。勿論、変ること、変化することは自然であり、忌み嫌うべきことは何もありません。しかし、それは枝葉であり、“根本(真理)”は変わらないものです。限定合理性である科学でさえ“地動説”を説いています。
 定年までに金を溜めて遊んで暮らすことが理想の老後であるが如き昨今の風潮は、完全な誤りです。人間が人間であり続けるためには、“出来る事”をするのです。目が見えなくても、足が無くても、譬え、余す時間に余裕の無い病の体であろうと、“使える部分”を使って“利他”を実践するのが“働く”ということです。働かないのは、死しているのも同じ、だから当然“食べない”、それが一日不作一日不食なのです。寝たきりになり“働けなくなった人間”でさえ、“介護の対象”となることで、人間をまっとうして、働いているのです。 “働く”という事は、金を得る『手段』ではなく、それ自身が『目的』です。生きて居る“証”です。“働くこと”それ自身に意義があるのです。言い換えれば、“働ける”というだけで十分な“利益”を得ているのです。経営者は、働く場所、機会を提供する人であり、営みを経て目的目標を達成させることと予てから言っていますね。
 マネーゲームは“最低の人間”の生業ではなく、人間のすることではないのです。
性悪説であるキリスト教では『労働は懲役』という概念であり、性善説である儒教では『労働は美徳』です。しかし、仏教(正確には禅)では、『労働は自然』なのです。森羅万象は例外なく理法に随い“働いている”のです。結果は自然に成るのであり、結果を目的や目標にはしません。それは人間であっても例外ではありません。
『生涯現役』という言葉は、一生涯、出来る事を活かして、働き続けるということです。
『活人』も『達人』も、働く人です。活人はイキイキと働き、達人は悠々と働くのです。
 先ほど、『増加する中年フリーター』という論文を読んで、情けなくなりました。若年フリーター、ニートだけに目を奪われていると、とんでもない現象が起きているのです。皆さんも考えてみてください。
慧智(050416)

 

2005年04月13日

野狐禅和尚の辻説法『好事不如無』№728

「好事も無きに如かず」と読みます。単純に言えば「この上なく良いことは無い方が良い」というところ。意味は、二項対立から生まれた“素晴らしい物や事”は、捕らわれの対象となり自我となってしまい、全てが真金の如く最高の状態で備わっている“本来の面目”を傷付けてしまうことになる危険性が“凡夫”は高いからです。
こうした語句を境界辺(きょうがいへん)のものといい、実は、相当に修行した者でなければ解らない心境を表わす禅語です。相当に修行した者とは、力がある者で、無ければ分からぬからだ。坐禅をする者の中には、少しでも過去に比して“優れた考えとか気持”が得られると、それを誇示したり、それに満足したり、その状態に依存してしまうことがある。やがて、それが他との隔絶を生み、対立心を強め、自己顕示欲や自己主張を巨大化し、鼻持ちなら無い野狐と成り下がってしまう。だから、“特別に良い事”≒修行の初期段階での分不相応な悟りは無い方が良く、徐々に徐々に成長してゆくのが良いということに他ならない。巷では、経済的に困窮している人間が宝くじに当たったり、莫大な遺産相続の縁に触れ、不相応な大金を掴んでしまうことで人生を棒に振ってしまったという話は枚挙に遑が無い。
なお、公案には趙州禅師に纏わる話がある。弟子が修行中の時、「一物不将来の時如何」と、師に対して「私は既に何ものも心にもっておりませんが、どうでしょうか」と得意気に言った。すると師は「放下著」、捨ててしまえ、と応じた。すると、「既に一物不将来。箇の什麼(なに)をか放下せん」、つまり「すでに何もありません。そんな私が、更に何を捨てるのですか」と理屈を言った。言い換えれば『無理会』ではないのだ。そこで、「放不下ならば担取し去れ」。そうか、そんなに何も無いと言う下衆なものが好きなら、何時までも担いでおれ、と応じた。すると、弟子は、大いに悟りを得た。
慧智(050414)

 

野狐禅和尚の辻説法『質問:方便は“嘘”ですか?』№727

 『方便』とは、仏教用語で、衆生を真理に導く“便法上の教え”で、子供に対し親が、親の知識レベルで教育するのに便利な“架空の喩え話し”と考えれば良いでしょう。例えば、恐怖を教える“悪魔”、善を教えるのに“神”、畏敬の念を教えるのに“自然神”を、人間が創造し、成長過程にあるものに対し“権威”を植え付けることを目的にしています。つまり、『方便』には目的と目標があります。言い換えれば、『教育』が目的であり、『教育内容』が目標です。
 そこを前提に考えれば、神教は“方便”の体系であり、13宗56派の日本仏教の大半は教本や仏像などを用いて大衆教化を目的としているので“方便宗”であります。一方、禅宗(主として臨済宗)は、特定の教本や特定の本尊を持たず、“方便”も使わずに、“心から心へ”釈尊から達磨・・と連綿として連なる“仏心”を、『教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏』を合言葉に、方便に代わる方法論として『公案』を使い、師から弟子へと確実に伝えてきています。だから、禅はハードルが高いと思われています。
 さて、質問である『方便は嘘ですか?』に対しての応えは、何とも言えません。あなたが、考えれば良いことです。言語理解が未熟な赤ん坊に、怪我をさせず、台所仕事を手際よく行い、更には“湯は熱い”≒“ヤカンは熱い”ということを同時に教えるために、台所の入口に一端は熱いヤカンを置いて、幼児にヤカンを瞬間的に触れさせ“熱い≒怖い”を教え、次にヤカンを空にして、台所の入口に置くことで親の利便性と子供の教育を同時に行うことは多くの家庭で行なわれてきています。あなたは、それを“嘘”だと言えますか?正に、『嘘も方便』、これは“誤り”ですか?方便と嘘の違いは、“悪意か善意か”が問題ではないでしょうか。
 蛇足になりますが、私は“科学は真理の共有を目的とした『方便』”だと考えています。ですから、“科学は限定的合理性の体系”だと話している筈ですし、真理を段階的に探究する“方法論”として、私自身も社会科学者として関わっています。
 言い換えれば、私の中では、『科学・哲学・仏法』は止揚され無矛盾なのです。
慧智(050413)

 

2005年04月12日

野狐禅和尚の辻説法『無理会』№726

『無理会』は、“むりえ”と読み、坐禅修行において修得を目指す究極の“在り方”。『理会』は、理屈のことであるから、『無理会』とは“理屈なし”ということ。
では、何故、無理会が禅における究極の境地なのか。それを説明することは難しい。理由は、“理由”だからである。無理会は“理由なし”、正に全ての現象を“あるがまま”に受け入れること。理由を問わないこと。言い換えれば、迷いから解脱することなのだ。理会することは、迷いを引き伸ばしているに他ならない。
雨が降る。晴れ上がる。鳥が鳴く。月が出る。日が昇る。雪が降る。生まれる、病む、老いる、死ぬ。現代科学は“それ”の理由を解き明かし、人間にとって“都合が良い”ように自然を支配しよと考える。そして、一が解れば二に、二が解れば三に、と連綿たる迷いにはまり込む。そして、現代、素粒子物理学は、究極の物質が物質でなく“力”であることに到達したが、其の次には“力”の源泉を求める。知への欲望は果てることはなく、向上心、探究心として賛美の対象としている。しかし、それは何れも『欲望』に源泉があることは衆智であり、“満たされない欲望”こそが“苦”の源泉であることも衆智。それでも人間は、それを尽きることの無い欲望に翻弄される。そして、苦しみ続ける。言い換えれば、組みつくせず海の水を全て組み出そうとしているのと同じだ。汲み出しては捨てるが、それは循環する。大局的には、減らない増えない。つまり、苦しみは永遠。それが『一切皆苦』の原理。
人間は、解らないから苦しむ。解らないから不安になる。それは“知”であれ“情”であれ、“意”であれ同じこと。
もし、“解ろう”という意識を捨て、全てを在るがままに受け入れる勇気を手に入れたら、あなたは“どう変わる”だろう。
禅の修行は、無理会の心を会得すること。それが“無心”ということ。苦しむ心を捨て去ること。過去に拘らない。未来に囚われない。今・此処における己を全てとして生きる。すると、全てが輝き、心は絶えず満たされている。不安が無い。
以前、師に“無理会”だけは説明するな、と教えられた。しかし、私は、今日、その戒を破る。複雑怪奇な理由など無い。書きたいと思ったから書く。書きたいという気持ちは私の心の叫び。ただ、素直に、利他に生きたいから。この世の全ての“種”は、種の保存に貢献することが第一義的な目標であり、仲間の為に生き、仲間の為に死ぬことが使命であり、そのために“今”を全力で生きるようにプログラムされている。勝ち組も、負け組みもない。一人一人、異なった才能(強味・弱味)を自覚し、それを発揮して、仲間のために一生懸命に生きることが全て。仲間とは、山川草木森羅万象の全て。
もう、優劣、勝ち負け、貧富、男女、人種、国籍・・・。そんな差別や区別を止めて、『人間』として生きようよ。共食いは止めようよ。
 『願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんがことを』
以上は、今日、財界のパーティに参加している間中、感じていたこと。疲れた。
慧智(050413)

 

【次の記事】

 

 

TOP