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2005年5月

野狐禅和尚の辻説法『活人禅会を終えて』 №765

野狐禅和尚の辻説法『葵花向日』 №764

野狐禅和尚の辻説法『癌センターの待合室で・・・』 №763

野狐禅和尚の辻説法『“仏”とは何ですか、という問いに応えて』 №762

野狐禅和尚の辻説法『至人無夢』 №761

野狐禅和尚の辻説法『神道と仏道』 №760

野狐禅和尚の辻説法『只管坐る』 №759

野狐禅和尚の辻説法『表裏一体』 №758


野狐禅和尚の辻説法『アリストテレスと禅』 №757

野狐禅和尚の辻説法『覚宗教とは』 №756

野狐禅和尚の辻説法『質問:どのように勉強した?』 №755

野狐禅和尚の辻説法『無象無私春入律』 №754

野狐禅和尚の辻説法『教育について』 №753

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常』 №752

野狐禅和尚の辻説法『一心不乱に坐る』 №751

野狐禅和尚の辻説法『不思議なこと』 №750


野狐禅和尚の辻説法『一苦一楽 一疑一信』 №749

野狐禅和尚の辻説法『“無心”を感じさせる』 №748

野狐禅和尚の辻説法『理事=事理=止揚の姿』 №747

野狐禅和尚の辻説法『先入観は“愚行の源”』 №746

野狐禅和尚の辻説法『“利行”という生き方』 №745

野狐禅和尚の辻説法『謙譲の美徳は死語ですか?』 №744

野狐禅和尚の辻説法『まあ、お茶でも一服』 №743

野狐禅和尚の辻説法『大器晩成』 №742

 

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2005年05月20日

野狐禅和尚の辻説法『アリストテレスと禅』 №757

アリストテレスが、『ハッタリ屋とオトボケ屋』という表現で人間を2種類に分けて考えたという件があります。私は、それを追認しつつ、“しきり屋”と“頑固一徹”を加えてような個性分類をしてます。元来、禅僧と同時に、一方で哲学、ストレス心理学等の研究を生業にしてきた“科学者”でもあるものとしては、アリストテレス、その師であるプラトン、ソクラテス、イソクラテスなどなど、ほぼ釈尊と同時代の哲学者の考えには、“俗人”として共感できるところが多いが、誰を比較しても“釈尊”には遠く及ばないとも思っています。アリストテレスは、釈尊入滅の前年である紀元前384年に古代ギリシャに生まれた哲学者であり、釈尊、西洋ではソクラテスと同世代のプラトンの弟子で、しばしば“西洋”最大の哲学者の一人とみなされつつも自然研究の業績から、「万学の祖」とも呼ばれ、アレクサンドロス大王の家庭教師であったことでも知られています。活人禅の会員各位も、禅に拘ることなく広く世界の名著には親しんでおきましょう。
 今日、第二禅堂として建築を進めている静岡県の南伊豆に行ってきました。そこは『菜根譚村』と名付けさせて頂いた。当禅会ゆかりの私有地で、広さはローマ法王庁が、政治からの独立を宣言して建国して100年の『バチカン市国』とほぼ同じ程度あり、境界地は“ゼロ磁場”の山と言われる山が聳え、菜根譚村はその山頂に向かう風の谷(龍谷)でもあり、今日、イオン測定器で村の中心でマイナスイオンの量をイオンカウンターで調べていたら、10分平均で1000近い値でした。道理で清清しいはずです。
 さて、今日の説法は、タイプ論についてです。タイプ論は元来、西洋的な考えで、東洋的な考えで、人間の個性の違いは認めつつ中庸を説いています。西洋は、ご存知のように“自我”重視で、自我を確立できた人間が「おとな」で、確立出来ていないのは「こども」として二項対立で考えるのが一般的です。ところが、禅では、“違いを知って違いを捨てる”無差別、無分別の心境に到達するのが修行です。ですから、“先ずは知る”ということが必要で、それが出来なければ『方便』の意味も威力も解りません。そして『方便』の世界をも捨て、真理と一体になって大安心の境地でイキイキと生きるのが“禅”です。そこで、今日の辻説法です。まあ、俗人も個性を捨てろと言われつつ個性豊かな禅僧を観察していると、曹洞宗系の禅僧には『おとぼけ家』が多く、我々のような臨済宗系は『はったり家』が多いように思えます。菜根譚村への電車の往復で、心を過ぎったのが“それ”で、禅僧の多くは“ハッタリ屋でおとぼけ屋”の融合段階で、完成されると『ハッタリおとぼけ』になりんだな、と思いつつ、思わず苦笑いをしていました。『禅僧は、禅僧でないから禅僧と名付けられている』という言い方があります。正に、ハッタリをかましつつオトボケな表現で、一人の中で“ボケとツッコミ”を同居させている噺家のように“人を主食”とする菜食主義者のようです。『不許葷辛酒肉入山門』と多くの禅寺の山門にありますが、「正に」と思い、クスクス笑いが止まりませんでした。“人を食って”いれば、それ以上は、臭くて、辛くて、依存的で、皮肉で覆われた物は、食えやしません。
 さてさて、在家の皆さんは最近の“禅坊主”に関して、どんな印象があるでのでしょうね。ついでに、あなた自身、ハッテリ屋ですか、オトボケ屋ですかですか、それとも、『禅僧』ですか?
慧智(050519)
*ソクラテス:前469~前399 古代ギリシアの最も有名な哲学者。
*釈尊、有力な一説:前463年4月8日~前383年2月15日。

 

2005年05月17日

野狐禅和尚の辻説法『覚宗教とは』 №756

 『禅』を、その他一般的に知られている宗教である“信仰的”と比較して『覚宗教』ということがある。本来、宗教に“区別・差別”を持ち込むのはナンセンスではあるが、一般の方に解り易くするための悪意の無い“方便”としてである。その場合、『禅』が、中世的な信仰(己の外に絶対者を置く)宗教から近代の『哲学的(理性的・二元論的)解釈』を通過し、更には理性の限界をも超え、真に自由で融通無碍の“己”を生き、己を森羅万象の一部であり全体として、己を超えて表現する宗教体系であるからだ。つまり、大自然を『恐れ戦く』対象、限定的ではあるが『克服すべき』対象から、己と大自然を不可分・不可同として相互浸透している“真実”を体現し、それを行じ続けるているのが『禅』であるからだ。故に、最も本質を突いている宗教が『禅』であるのも関わらず、「禅は宗教というより哲学」と揶揄される場合もある。
 活人禅においては、禅が宗教と言われようと、哲学であるいわれようと一向に構わず、『宗たる教え』と自覚している。そういった意味では、活人禅は、『一如』を体現する『覚悟の宗教』、『覚宗教』といえるだろう。科学と宗教(文学)を止揚すれば“無と空”の思想であり、“禅”にしか行き着かないのは科学なり文学を究めた者には何の違和感もないのが“現代”である。
慧智(050517)

 

2005年05月16日

野狐禅和尚の辻説法『質問:どのように勉強した?』 №755

 20歳の大学2年生から「和尚の本を読みました。マルチですね。20歳頃、どんな勉強をしましたか・・・?」という質問を受けました。そこで、出来る限り具体的にお応えしようと思います。『勉強』は、一人一人の個性や環境で全く異なるでしょうが、人間の頭は2種類の大きな個性に分かれています。20歳とは言え、現代は七掛け時代。一昔前で言えば14-5歳でしょう。ですから、14-20歳頃までの“我流”の勉強法をお話しします。
14歳の夏、平凡社の百科事典26巻に出会い感動。夏休み40日間と冬休み14日で全てを読みました。1冊1000ページ程度で4~5段組だったと思いますが、夏の接心を除いて、夜10時からの3時間を含めて一日平均6時間くらいは読書三昧でした。勿論、雲水はメモ書禁止だし図書館の本ですので書き込みも禁止。しかし、“全ては覚える”という習慣が小僧として5年も修行していれば誰でも出来ますので、只管、読みました。本師曰く「人間、生きてゆくに必要なことは全て知っている。知っていることを素直に出せば、本など要らん」を叩き込まれていましたからね。しかし、学校に行けば図書館にも教科書にも黒板にも、興味を掻き立てることばかり。誰でも“知るべき事”を覚えるにはメモが必要だろうが、“知りたい事”にメモは要らないでしょう。つまり、“何もかも”、“知りたい事”だったのです。それに読む速度は、“知りたい事”であればあるほど、早くなります。反対に“知るべき事”は、その重要度を意識すればするほど、どんどん遅くなります。言い換えると、百科事典も教科書も板書も、私にとって“知るべき事”ではなく、“知りたい事”だったのでしょう。なお、所謂“速読”は自然に出来るようになり、今でも500ページ30分程度で読みます。
以上のところのポイントは、本も、教科書も、“常識”と信じ込んで殆どの生徒学生が行なっている『重畳的学習順序』が私には合わなかったし、速読のお蔭で、学ぶ順序は無視できたということでしょう。思い出しますと、私は、足し算→引き算→掛け算→割り算という順序でノンビリと勉強した経験がありません。米の量・疲労度・人数からお粥の水の量を瞬時に割り出すのが、“算数”の最初でした。つまり、それがキチンと出来ないと、自分の食べる物は無くなるし、みんなに迷惑をかけるという瀬戸際にあったからでしょう。また、カタカナを覚えるより先に漢文を読まされもしました。間違えればピシャッとされますので、今思い出すと、漢字は表意文字として記憶したのでしょう。それに身近に遊ぶ環境がなく、その面白さと交わらなかったことも“知る事時間”を増やしていたのでしょう。『必要は発明の母』とは納得です。時々“博学”と言われますが、その自覚はありません。誰でも知っているが、思い出せない事を素直に思い出せる力を、幼少期の坐禅が付けてくれただけで、私は一般人です。知能で悩んでいる人には“嫌味”と取られるかもしれませんが、本心から『頭を自由自在に使いたいなら坐禅をしなさい』としか言い様がありません。私のような素材が悪くとも“そこそこ”にはなります。その経験を後に『禅脳思考』と名付けて、禅会員に伝授していますが、精神力などという自分を縛る縄を解き、何事にも囚われず拘らず偏らず、“無心”となって“事と一体”となれば、何でも吸い込んでしまうのが、私達の“脳”だということです。
★『出来る事』を工夫して『したい事』をする。『すべき事』は進んですることで“強制”されないので、直ぐに『出来る事』になる。『出来る事』が増えると『したい事』が増えても大丈夫。時間まで増えるから★
 以上、出来る限り具体的に話したつもりです。そこで、今話したことを全て忘れて『坐禅』に来ませんか?夏の休みに一月も小僧として来ていれば、それなりに納得の行く己に会えると思いますよ。
慧智(050516)

 

2005年05月15日

野狐禅和尚の辻説法『無象無私春入律』 №754

 「象なく私なく、春、律に入る」と読む。従容録にある万松行秀の句で、意味は『春と季節には形も私という我も無いゆえに、花は咲き、草は萌え出て、春夏秋冬のリズムが始まる』と、今日の私は受け止めている。
 今日の活人禅堂は、梅・桜が終り、木蓮が中継ぎをして、全山、色とりどりのツツジが満開で、所々には藤が枝垂れ咲き、ボタンはその花弁を風に揺らし、カキツバタは端正な顔立ちを覗かしていた。正に百花繚乱の風情がある。禅堂に一人坐していると、鳴き慣れた鶯が経を唱え、『生き急ぐなよ』『淡々と暮らせよ』『一日一生だぞ』と、正に、“法・法華経+25、25”と聞こえた。
 今日は、春を迎えられた感謝の記念として、癌封じでお世話になり続けて居る薬師堂の前にスモモと桃、禅堂の前にはプラムの苗木を植えた。ふと、ツツジの花越しに下を見ると、浅川が水量を増して流れ、田植えの終わった田の水は、風と雲と空を映していた。寺を後にしようとすると、庫裏の軒先に蓮を咲かそうと禅姉が置いた大鉢の水が澄んでいるのに気付いた。泥水のような煩悩も静かに坐していると澄んでくる。煩悩即菩提。煩悩是道場。日々是好日。正に、山川草木悉有仏性。己以外は皆師である。自然は素晴らしい、自然は偉大な教師である、と感じつつ所用のため170キロ先の東京を目指して時速***キロで90分、常磐道を東京に向った。
慧智(050515)

 

2005年05月13日

野狐禅和尚の辻説法『教育について』 №753

『教育』の肝を表わす言葉に、『敲骨打髄』(ほねをたたき、ずいをうつ)という禅語がある。意味は、上っ面にこびり付いた邪心を徹底的に打ちのめして清心を洗い出すことであり、『教育は手を抜いてはならない』ということを表わす言葉だ。言い換えれば、教育をしようとするなら、皮だ肉だで終わるような中途半端なことをせず、骨の髄まで徹底的に染み込ませることが“教育”の根本原理なのだということ。とは言っても、恐怖を与えて洗脳することではない。簡単に言えば“怒ることなく叱り、脅すのではなく励ます”、のであり、“教える側”と“教わる側”が不可分不可同となるように“伝えたい”“学びたい”という心を相互浸透しつつ阿吽の呼吸により教育すべき内容を共有することだ。それには、先ずは自ら学びたいという心を醸成させ、その後に機会を与え、学びの程度を知らせて励まし続けることだろう。言い換えれば、教える側は精神的に成長し、教わる側は知識や技術、心を統合しつつバランスの取れた人間的な成長をすることである。
『禅』の師弟関係を経験すると、“教育”が何で有るかが骨身に染みて解る。私の場合、そこから教育に関するノウハウを構築できたように思う。『禅』の世界では“無個性”こそ最高の個性である。それは個性を“我”として捉え、無個性を“本来の面目”と捉えるからである。しかし、在家の場合は、先ずは“我”、自我を重視する。それは『すべき事』と『したい事』の中間に位置する『出来る事』を合理的に理解させる必要があるからだ。『教育』は“心”+“頭”+“体”に教え込むことであり、それには教える側が“教わる側”の個性(覚え込む順序)を理解し、それにあった順序と教本・教具・教材を使わなくては、途中で挫折するからである。それを少しだけバター臭く小洒落て言えば『心の教えるマインドマニュアル』、『頭に教えるテキストマニュアル』『体に教えるオペレーションマニュアル』ということだ。活人禅の場合は、『価値感(経)+公案+坐禅と作務』となるだろう。話は少し脱線するが、臨済宗は“頭”から曹洞宗は“体”から入り、“心”に浸透させ、頭・体・心が統合されて一人前の僧侶と認める。だから、臨済宗向きの人間と、曹洞宗向きの人間が自ずと居るのである。それが“縁”なのだろう。人間は“教えるべき内容”を身につけるのは簡単で誰でも“先生”になれる。しかし、“教え方”をマスターしている“師”はどれ程いるだろうか。今日は、自分の教育という場面におけるレベルについて考えてみよう。
慧智(050514)

 

野狐禅和尚の辻説法『諸行無常』 №752

 親しい方のご尊父様の通夜に列席させて頂いた。ご縁の深い方の急な訃報に接し、ご遺族の心境は如何許りかと察するに余りある。
卍山広録に道白の言葉として『一蓮托生拭目可待』(いちれんたくしょう、まなこをぬぐいてまつべし)という一句がある。意味は「愛しい人に先立たれたあなたではあるが、何れはあなたも往生し、極楽において同じ蓮の葉の上に坐るであろうから、涙を拭い、気を確かに持つことだ」というもの。
 また、禅堂の板には『生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人』とある。意味は「諸行無常の人生は迅速で、生き死にという迷いの対象は悟りへの切っ掛けとなる一大事の因縁であり、時は人を待たないので、寸暇を惜しんで修行に打ち込め」というニュアンスである。
 人間、どんな元気で健康であっても一寸先は誰にも解らない。生死一如とはいうものの、現実には不安を抱える者も多いだろう。それ故に、一瞬一瞬に完全燃焼し、一日一日を一生と考え、悔いの無い一日を積み重ねることが大事で、不安を払拭する唯一の生き方なんですね。人は生まれれば例外なく必ず往生します。生死とは宇宙が『凝縮して拡散する』こと。大宇宙が、小宇宙に変身して、また大宇宙に戻ること。即ち『不生不滅・不増不減 不垢不浄・・・・』。命は大自然の営みの一過程であり、往生もまた同様。即ち諸行無常、常なる現象は無い。過去に拘らず未練を残さず、未来に囚われて自由を捨てることなく、融通無碍に一瞬一瞬を真剣に生き、足るを知って明日に備えよう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
慧智(050512)

 

2005年05月12日

野狐禅和尚の辻説法『一心不乱に坐る』 №751

坐禅儀に『久久忘縁自成一片』、「きゅうきゅう として えんをぼうずれば おのずから いっぺんとなる」と読みます。意味は「縁を忘れて久しく坐禅に打ち込んでいると、内と外の差別区別、有る無しなどの二項対立が消えさり、“ふっ”とした時に己が“自然の一部”であることに気付き、夜(野)坐の折の雨に気付かなくなる。つまり、己と雨と大地が一体となっており、眠さ・痛さ・寒さや時間までも消え失せてしまう。この体験をした日から、坐禅と坐禅以外という対立も自然と無くなる。不思議ななことに犬の糞を素手で片付けても気にならなくなる。正に『森羅万象は無差別』、一切衆生悉有仏性 山川草木悉皆成仏が現実となる。私の経験からすると“先ずは一年”だろう。「世界観が変る」などという言葉では表現できない。偉い偉くない、男だ女だ、善だ悪だ・・・全ての対立概念の妄想的な意味が消える。それは“恥ずかしさ”という心が消滅していることで直ぐに解る。言い換えると、道徳という世界から“超道徳”の世界に移住した感じだ。やさしい言葉で言えば“愛”という奪い執着する心から、無心に与える“慈悲”とも言えるが、愛と慈悲という差別も無くなる。この経験をしたのは10歳の頃だと思うが、それまで何とは無く“生死”の違いに縛られ、亡くなっている方に触れるのが“怖かった”が、『万物即一片』を感じ取った時から遺骨を木槌で叩いて砕いている最中に骨片が飛んできて口に入ってしまっても全く気にならなくなった。それから数年、14~5までは坐禅も室内も楽しくて楽しくてたまらなかった。つまり隻手音声が聞こえ、父母未生以前の本来の面目を探さなくなったということだろう。
 ネット禅会の会員の皆さん!毎日20分、先ずは一年。只管に坐ってみよう。坐り方は大子の禅会で伝授するので、時々は坐りにきてください。夏はサウナのような暑さ、冬は冷蔵庫のような寒さでしか持成しできないが、味噌汁と沢庵と米の飯には不自由はさせないし、トイレや庭掃除から土木工事まで作務も沢山あるので暇を持余すことはないだろう。最低、月に一度は陰徳を積む機会を差し上げるの是非とも大子にお出でください。喜捨・浄財箱も大きいのがあるから、誰からも感謝されずに数億円は捨てられます。身も心も財布も“カラッポ”、これが最高の気分です。是非味わってください。
慧智(050513)

 

2005年05月11日

野狐禅和尚の辻説法『不思議なこと』 №750

 時々禅会に顔を出すYさんと六本木のサウナ風呂で偶然に出会い、行き成りの質問攻撃を受けた。
室温は105度、10分も居るとヘロへロ。正直、“熱い”。にも関わらず「坐禅は毎日すると効果があるんですか?」と来た。少し突っけんどに「坐禅に効果なんか無いよ」というと「ありますよ」と反対に諭された。「しかし、毎日は辛いでですよね」というから「毎日だから楽なんだ」というと、「毎日しなければ効果は薄いんですよね」と再び。『坐禅に効果なんかあるものか』というと、「否、絶対ありますよ」と。このままでは倒れてしまうかと思い立ち上がると「心頭滅却できていないんですか?」とやられた。何と言われようと、耐え切れずに外へでて水風呂へ一直線。19度の“水”は実に気持ちが良い。そしてサウナへ戻ると、「修行が足りまへんな~」とやられた。そこで、「だから毎日坐って居るんだ」と返してみた。すると、「でも効果ないんでしょ?」と返された。「そうだ。効果とは目的や目標に対しての評価で、目的や目標を持たなければ効果もない。坐禅は“無心”に坐るんだ。ただ坐るだけだ。だから効果などない。がしかし、変化はある。しかし、変化を目的・目標にはしない。それば坐禅だからね」「ところで、君は毎日、風呂に入るだろ?」と聞くと「まあ、ほとんど」と。「何故?」聞くと、「汗や汚れを落としてリラックスするためですかね」と言葉を選んで応えた。其の瞬間、彼は解ったはずだ。
 “心”を風呂に入れるのが坐禅でもある。汚れが落ちるか汗をかくかは坐り方しだい。しかし、毎日“埃”に塗れるんだから、坐禅が大事なんだ。
禅語に『時時勤佛拭』というのがある。「時時に勤めて佛拭せよ」と読む。私の家ではトイレに書いてある。意味は「常に心の埃を払いなさい、そうでないと“清心”が“邪心”になりますよ」と解して良いだろう。言い換えれば、体と同じ様に、心も毎日、風呂にいれて綺麗にしておきなさい、というようなもの。出典は、『神秀、偈に曰く「身はこれ菩提樹、心は明鏡の如し、時時に勤めて佛拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ。」である。
 風呂は良いな~、と思いつつ、サッパリした心身で帰宅。今日の経験は『一切衆生悉有仏性』、「己以外は皆師」。どこにでも師はいるものだ。
慧智(050511)

 

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