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「災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 <大愚良寛 和尚>
人は誰しも“災難”や“死”から逃れたいと思うもの。拙僧だって例外ではない。強い人間などいやしない。ただ、強い弱いという“ふた心”が無い人はいるよ。それは“その心”に逆らい“~でなければならない”なんて精神論を振り回そうものなら、帰って肩に力が入り、さらに恐怖心が増すもの。
だからね、何事も逆らわずに“今・此処”を素直に受け入れる。何があろうと『日々是好日』『和顔愛語』『無事是貴人』すると不思議なことに平静(平安・安寧・大安心≒幸せ)が得られる。それが妙法だよ、と良寛和尚は優しく語っている。
では、“その心”になるには、それなりの方法があるんだよ。目的・目標は“恐怖心”を消滅させる何か。言い換えると“無心・無我”となる何か。それが“坐禅”なんだ。
いつも言うだろう。『過去は変えられないし、未来は決まっていない』。今の全ては“縁起(無数の原因の相乗効果が今の結果という未来の原因をつくること)”によって現前している。それがどんな状態であれ、誰も“それ”からは逃げられない。つまり“因果をくらます”ことは出来ないんだ。
方便に聞こえるかもしれないが「善人なおもて往生す いわんや悪人をや」と親鸞聖人が言っているね。それは、悪人正機(あくにんしょうき)という浄土真宗の教義の中心的な教えなんだが、本意は、人間の本来は善悪などを差別しない、善そのもの。だから“それ”を悟り、一日を一生として世間の決めた善悪などに囚われずに、拘らずに“本来の己”を素直に生き、しっかりと坐って自性すれば、己が“無性”であることを悟り、己が菩薩、此の世の仏(つまり仏陀≒真理を悟った智恵者)になりますよ、と白隠禅師坐禅和讃にあっあろ。だから、親鸞さんは“方便”として“善人は自らの力で成仏”できるんだから“悪人”だと思っている人は私の話を聞きなさいと言っている。素晴らしい。これが、本物の信仰だろうね。ヨーロッパで神様の椅子取りゲームを性懲りも無く何千年もしているレリジョン(一神教)が「私の支配下に入り“羊”として暮らさなければ皆とも地獄に落ちて苦しむぞ」なんてマインドコントロールを多用する世界的なカルトが教団があるが、それに比べると我が国の親鸞さんは素晴らしい。先日旅立たれた青島幸男さんじゃないが、「♪悪い奴は、俺んとこに来い♪」だからね。
脱線してしまったが、“無心となる方法”は、難行苦行でも脳天気に生きることでもなく、“只管に坐る”こと。釈尊もそうだったし、慧可大和尚も達磨大和尚も、臨済さんも白隠さんも、良寛さんも、玄峰老師も宗淵老師も・・・・、皆『二見(相対的な考え)』を消滅させ、本来の己を発現させて生きることを体験し、体験させようとした。それは、二見がなくなると、不安や恐怖という相対的な幻想が消え失せ、本質、原理原則、真理が見えるからだ。すろと、みんな“良寛さん”になるんだ。すろと、いつもニコニコ。元気に生きよう、元気に死のうとなる。無理なんかしなくて良い。本来の己(父母が生まれる前の己)に素直になれば良い。それだけ。嘘みたいな本当の話。それが“坐禅”。死に損ないの私が言うんだから間違いないが、疑うんなら坐って自分で試してごらん。でも、ちゃんと坐るには寺に来なさい。教えてあげるから。
一日一生 慧智(070405)
*昨日の説法は“怖い”なんて、若い娘に言われたんでね。今日は・・・・・。
*これが、坐禅和讃の心。
禅は“信”ではなく“修”だと書いた記憶がある。つまり、盲目的に信じるのではなく、疑い尽くして体験して気付き、生き方を正すのが禅なのです。
現代風に言えば、禅は『事実』を価値観や先入観で汚染せずに、あるがままに受け止める。枝葉末節の事実の正しい認識が増えると機が熟し、一挙に本質、法則、原理原則などを発見する。それが“悟り”であり、引き金は極めて身近で単純な出来事が圧倒的に多い。例えば、ボタンが取れたとか、時計が止まっていたとかなど。禅では“発見(悟った)”程度ではまだまだ。小さな気付き、小さな発見が積み上がって初めて“大悟(だいご)”となる。大きな悟りであれば、その瞬間から行動が自動的に変わる。だから師家が弟子の悟りの段階を見抜けるのだ。
つまりは、禅は『事実』→『小さな発見』→『小さな発見の記憶』→『大きな発見(大悟)→『生き方の発明と『実行』という流れであり、『発明』とは己ブランドのオンリーワンだ。全ての大衆は初期条件から全てが異なるのだから、姿が違うように悟も他人とは違うのが当然だ。そこからが本当の修行だ。そして、ある時、他人と自分の境界が消え、ミミズと己の境界が消え、全てに個性がありつつも全てで一つという世界に至る。そこまで来たら本物だ。そこから更に進めて、先ずは悟を捨ててしまえ。捨てて捨てて捨てて、捨てるものが無いという心も捨ててみろ。言い換えれば、その手法を“止揚の止揚”という。止揚とは、異なる、または対立する事象を上位統合すること。それを更に統合する。この矛盾を生きろ。まあ、悟りは最小公倍数と言っても良いかもしれない。そして、最大公約数が得られてから更に修行を進めて最小公倍数を大発見するのが『後悟』ということ。それが禅の全てある。ミクロとマクロを止揚するとどうなるか。
さて、ここまで言葉・文字で親切丁寧に教えた以上、拙僧の定義する“悟り”をパクレば、悟りに達しないことになる。オンリーワンではないからな。格好だけで“片手の音”を聞いたようなことを言葉に出来るようなら、それは妄想、幻想、嘘ッパチの勘違い。無の一字に成りきりましたなんて言葉は出鱈目。頭が首の上に付いているようじゃ小僧だぞ。頭は網代の台みたいなもんだ。
さあ、禅士よ。どうするか。釈尊も達磨もワシも殺してみろ。活人剣を使うか、殺人刀を使うか。両方とも刃物というのが事実だ。さあ、どうする。
さあ、ネット禅士よ。『悟』とは何か言ってみろ。但し、言葉や文字は使うなよ。体も動かすなよ。その上で私の衣を脱がしてみよ。もし脱がすことが出来たら風呂に入ってやる。そうしたらネット禅姉よ。背中を流せ。ワシの背中が鏡になるまで磨きつくせ。但し、手も足も使うな、湯も水も使うな、氷もだめだぞ。手ぬぐいも使うなよ。風呂場にも入って来るなよ。入れば禅姉とてワシはお前らの衣をズタズタにするぞ。
さあどうだ。今日、此処で、禅の事など忘れて、お題目でも唱えていろ。
疲れた。茶でも飲んで寝るか。お前らは座れよ。
一日一生 親切が衣を着て歩いているような生涯一雲水の慧智(070404)
拙僧の記憶が正しければ、今日は聖徳太子が17条の憲法を策定した記念日(西暦604年4月3日)である。そんなことを思い出したので、少し調べて、総則というか、精神というか、日本人なら一度は聞いた事のある「以和為貴」の部分について考えよう。
◆原文:
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
◆読み:
いちにいわく。
やはらぎをもってたっとしとなし、さかうることなきをむねとせよ。
ひとみなたむらあり、さとれるものすくなし。
これをもって、あるいはくんぶにしたがはず、またさととなりにたがう。
しかれどもかみやわらぎ、しもむつびてととのへば、ことをあげつらわむに、
すなわちことわりみずからかよへり。なにごとかならざらむ。
◆訳文:
一つ、節度をもって仲良くすることが大事で、足を引っ張り合うようなことはしてはいけません。
人は皆、派閥をつくって群れ感情的に動くもので、論理的に考え行動できる者は少ない。
つまり、直接の上司の命令に従わない者や仲間同士の喧嘩で、規範を逸脱する者がでる。
しかし、上の者に敬意を払い、下の者に正しく接すれば、上下関係は円満となり正しい議論が生まれ、物事の原因や結果を共有し、正しい対策が取れるので、不祥事は起きない。
◆評語:現代は、太子が心を痛め憲法を制定せざるを得なくなった1400有余年前と同じように、『競争を賛美し、勝ち組と負け組に分け、年長者を老害あつかいし、拝金主義が心を重視する者を排斥し、一人勝ち願望が蔓延している今日』、同じことを繰り返さない創意工夫が必要でしょう。
一日一生 慧智(2007年4月3日)
我々は本来から“仏性(ぶっしょう)”を完全に具えている、と白隠禅師の坐禅和讃の冒頭に出てくる。さて、「如何なるか“仏”」と私が白隠禅師に問うと、禅師は如何なる表現をされるか。今日は、ネット禅士各位に問いたい。
また、それを禅士に問えば何と応えるか。
さらに、如何なる者も“同じ表現”になってはならない、と拙僧が付け加えたとすると、その真意は何か。
「本来仏なり」なら、仏性に始まりはない。始まりがないとするなら終わりもない。父母未生以前から孫子誕生以後も同じ。即ち、本具仏性は永劫不変。となれば、核攻撃も、老・病・死や地震など問題外。地球が壊れても微動だにしない。『不生不滅、不垢不浄、不増不減』と般若心経にある。
さて、応えよ!
但し、頭を使うなよ。言葉を使うなよ。
さあ、どうする?
一日一生 慧智(070403)